過ぎ去ってしまった時間
感染が拡大したせいで、在宅仕事が多くなったとニュースは言っていた。
残念だったのは、自分の仕事が在宅では決してできないものだったということだった。
「あー、すみません。まん延防止でもう終いなんですよ」
「そうですか」
それで困ったことには、夕ご飯を食べる場所がない。夕ご飯、と書いたがその実は残業終わりの夜中の九時に食べる飯のことを指している。
仕事がなくなった人もいる中でこんなこと言うのは不謹慎かも知れない。しかし、あれだけニュースと世間が騒ぎ立てても、決して仕事はゼロにはなりはしない。わたしのような人間は相も変わらず人混みを歩き、満員電車に揺られ、マスクと人いきれに息苦しさを覚えながらも、決して通勤をやめはしない。
残業もまた同様だった。いつも仕事が午後になってなんらかのトラブルに見舞われ、その後始末に方々を出歩く。ときにメールで、時に通話で、時に──最近使われるようになった、リモート会議で。
どれも直接会わないぶん、感染拡大以来歩かなくなったものの、数が減ったわけではない。むしろ在宅では家族もいる手前、出社しないと会議ひとつ開けないありさまだった。
それで毎日毎時間あちらこちらと接続しているうちに、目も疲れ、時計が定時を過ぎている。ご飯はコンビニの買い出しで手にしたおにぎり、サンドイッチ、ときどきパスタ。飲み物は野菜ジュースかお茶で、清涼飲料水はカロリーと糖質が怖くて触れられた試しがない。そうでなくても夜食で体重が増えていくばかりで、忙しさは感染拡大前後で差はなく、そのくせノルマはより小難しくなっていく。足を使わない営業だなんてスローガンを掲げるから、一休さんもかくやのとんち問答を繰り広げている心地になる。
唯一、ウイルスが出回る前と後とで決定的に変わったのは、週末の飲みだ。
かつてはストレスが溜まれば会社の仲間と一緒に飲みに行き、一仕事区切りがついたら即座に打ち上げだった。だから仕事もそこそこ頑張れた。まるで大学の体育会系サークルの気分で、今日の苦労も一山超えたあとのビールとホッピーのためにあると思えば、我慢のしがいがあったというもの。
それが、とたんに公共の迷惑というひと言でぱたんと途絶えてしまった。
たまたまわたしが通っていた会社の周辺がそうだからかもわからない。ほかではもうすこし長く開いているという情報が、検索すれば出てくる。しかし結局職場近辺から出られない人間にとって、まん延防止で閉ざされたビル街しかあり得ないのだった。
「流石に帰った方がいいかな」
腹が鳴る。思わず独語する。そんな中、ふと逃げ場のように見つけたバーがある。
駅沿いの通りは、看板の灯りを消していつもより暗い。シャッターも次々と降ろし、閑散とした雰囲気の中、薄暗がりの灯台のようにただ一軒、以前であったら決して見向きもしないような個人経営の店が、あったのだ。
わたしは誘蛾灯につられる虫のように、ふらふらとその灯りの近辺をうろついた。
行くべきか。行かざるべきか。これがほんとうに問題だった。
結局、入った。どうせ家に帰ってもビールを飲む余裕なんてない。だったら不味くてもいいから空いてる店で一杯空けるというほうが理にかなっている。
階段を降りると(その店は地下にあった)いかにもに設られたカウンターと、奥に三人座れれば良いというほどのテーブル席があって、二、三人がちびちびと飲んでいる。男もいれば女もいる。
マスターらしき人物は、カウンターの奥で暇そうに出入り口を見張っていた。だから入ってすぐ、目が合った。
言葉を交わすことのないあいさつ。スッと手のひらがカウンター席を指し示した。
「キューバリブレ、あります?」
なぜか、メニューを見て、そう言った。暑い夜だった。こういう日はなんだか酷く特別な気がしたのだ。
普段飲まない酒を飲む。あえてとなぜかのあいだから飛び出た選択に、特別な気持ちが乗っかって不思議な味がした。
カチッと向こうで音がして、苦い煙が漂った。ふと見ると、タバコを吸っている。こんなご時世に、と思いかけたが、むしろ懐かしく思った。
「お酒もタバコもダメになっちゃいましたよね。むかしはあんなにカッコよくて、未成年でも呑みたい吸いたいって感じだったのに」
唐突に、マスターが話しかけてきた。びっくりしたが、意外ではなかった。ここにいるみんながどこか腹の底でわだかまっていたことを代弁してくれたという感じがあった。
話を聞いていると、マスターもマスターなりに考えることがあって、このご時世に反抗してやるつもりらしい。それがどこまで続くのか、わからないけれども、酒を飲むのがやめられず、タバコも堂々と吸いたいという人間にとって、ここは砂漠の中のオアシスにも似ているのだろう。
そんな中、ふと腰掛けているわたしもまた、同様に砂漠をさまようひとりだった。
それからしばらくジャズを耳にして、酒を飲んで、タバコの煙をまとったまま、夢のような時間を過ごした。
帰宅すると、家族はすでに寝ていた。ワイシャツを脱いで、洗濯機に掛ける。柔軟剤を掛けてガラガラと回るドラム式洗濯機を眺めているうちに、今日のあの店はきっと夢に違いないと思うようになった。
そして、翌朝。念の為で昨日行ったバーの入り口を探してみる。
しかし自分でここだと思っていた場所には、何もない。それっぽい看板はあったが灰色に塗りつぶされていた。
すべてが思い出でしかなかった。あの茹だるような暑い夜、普段の飲まない酒、店内に流れるジャズミュージック、それから……
ふと、ワイシャツの袖の匂いを嗅ぐ。柔軟剤の匂いと汗の匂いが拮抗していた。これから夏だと鼻に訴えかけていた。
まん延防止が明けた夜、またふとひとりで飲み屋に行った。今度はチェーン店の居酒屋で、場所もハッキリわかる。自分以外の人間も、私服とスーツでごった返す。そんなひと時を過ごしているうちに、ふと、隣のテーブル席から賑やかな漏れ聞こえた。
「でさーそいつなんて言ったと思う? 〝あんたなんかともう付き合えない〟ってさ!」
「フラれたねえ」
「だから飲んでないとやってらんないって」
「飲み屋万歳」
「意味わかんねー!」
「意味わかんないついでにみんなでおかわり頼むぞ」
「おーっ、イッキするかー!」
ワイワイ騒ぎ立てる青年たちを見ながら、おれは自分の中で遠くに過ぎ去った思い出と、感染拡大で終わってしまったあの時とを重ねて、目が潤んだ。そしてその涙ごと、酒で流し込んだのだった。




