それは昔のお話
それは、コロナ禍が始まるずっと前のできごとだった。
「あの、すみません!」
イヤフォンを耳に付けていた。にもかかわらず、全く思いがけず、声をかけられた。
振り向くと、ぼくと同い年ぐらいの女子大生が、ジャージ姿で立っている。爽やかな表情をしたとても気持ちの良い人だった。
しかし、ぼくはお世辞にも顔が良いわけではない。髪型だってボサボサだし、メガネだし、背は高いけれども雑なティーシャツとジーンズというカッコなのだ。決して、決して逆ナンパということはない。
なら、落とし物でもしたのだろうか?
と、いろんなことを考える──
「あの、〇〇駅ってどこかわかります?」
なんだ、道を訊かれてたのか。
彼女はそっとスマホの地図アプリを開いて見せてくれる。検索はしてるのだが、駅の場所がわからないとのこと。
確かにこの辺りは道路が上下で交差していて、二次元のマップで「ココ!」と指し示されても、それが上下どっちの道路沿いなのかも分かりにくい。
と、知ってるふうに考えるが、ぼくもここに来たのほとんど初めてと言って良いんだけども。
「なるほど。〇〇駅の入り口は、実は上なんですよね。ちょっとわかりにくいんですけど、ぼくもちょうどそっち向かう途中なので、一緒に行きましょうか?」
「えっ、良いんですか?」
「全然。むしろ何もしてないぐらい」
「ありがとうございますー!」
現在地から目的地までは、だいたい十分ぐらいだった。
その道中、黙ったままというのも変な話なのでつらつらと雑談をする。
「この近辺詳しいんですねー」
「あ、イヤ、実はぼくもこの辺は今週通ってるってだけなんですよ」
「へー?」
「教職免許を取るために、介護施設に通う期間がありまして。今日で最終日だったんです」
「え、先生を目指してるんですか?」
「まあ、いちおう」
「すごいですよー」
なんのてらいもなく人をほめる彼女が少し眩しかった。というか、自分と同年代の女性と話すだけでまごついて言葉がぎこちなくなるのが、我ながらとても嫌なものだった。ほめてくれるなとどこかで思ってしまう。
一方的に言わされてるのもなんか嫌だったので、ぼくも負けじと言葉を返した。
「そっちは部活か何かで来たんです?」
「そうなんです。ラクロス部で──」
「ラクロス部! それで!」
ぼくは彼女の持っている長い棒状のものの正体を知った。視線をずらすと、彼女は楽しげに微笑んだ。
「大学間の合同練習で、車で来たんですけど現地解散なんであわてて調べたら迷子になっちゃったんですよ」
「あらら」
「それで、いまこんな感じなんです」
言いながら恥ずかしそうにする。
「大丈夫っすよ。この辺は初見じゃ迷いますって」
「ですよね! ほんと、道路高さ違うし」
「階段も上り下りするのやですしね」
「ほんそれほんそれ」
そうこう言いながら階段を登る。普段だとマイペースに、音楽を聴きながら二段飛ばしに進む道中だったが、今日はそんなことをしない。あくまで道案内の途中だから。
「大学は、教育学部なんです?」
ふと、彼女から質問がある。
「いや、政治経済学部で」
「へー!」
「ふつうの学部を受けながら資格が取れるコースがあるんです。おかげでバイトも何にもできないですけど」
「まじめなんですねー!」
「いやあ、外で部活してるの、うらやましいです。ぼくも高校時代に真剣にやったのが懐かしい」
「何部だったんですか?」
「剣道部です!」
「剣道! かっこいい!」
「とは言っても、補欠にも入れませんでしたけどね」
「いやいや、武道ってかっこいいじゃないですか」
お世辞かもしれないが、面と向かってあこがれをぶつけられると照れる。
この〝照れ〟の感情がどこから来るのかはわからない。いまになって思えばもう少し天狗の鼻になって偉ぶってみればツッコミどころになったか、あるいはより素直でめでたい性格だったはずなのに。ところが当時のぼくと言ったら、ほめられると相手に何か意図があるんじゃないかと勘繰る癖があった。
それは、別にほめて高い高いと持ち上げられてから裏切られた過去があるとか、そんないわくつきのものではなかった。ただなんとなく、人を表面的に捉えられている気がしてならなかったからだ。
もう少しハッキリと書いてしまえば、自分という人間をより具体的に、複雑で多面的な人格であることを理解してほしかったんだと思う。それはそれでひどく滑稽なことだった。テレパシーでも持ってるわけでもあるまいに、何をもって自分を正しく具体的に理解してもらえると思い込んでいたのやら。
ちなみにぼくに道を尋ねた彼女については、いまは顔がきちんと思い出せない。すごく爽やかな笑顔だったかなあとか、体育会系で社交的な印象だったとか、人事部の面接官みたいなずさんな感想しか蘇らない。
それでも喋った内容を覚えているのは、ちょっとだけ嬉しかったからだ。なに、ただ道を尋ねただけじゃないかとか、帰り道になんとなく会話して弾んだだけじゃないかとか、僻んだ見方はいくらでもできる。
しかしよく考えてみてくれ。
人と話すのが不得意で、見た目を整える配慮もなくて、ひたすら内気な大学生が、突然話しかけられるというのは、それまでの日常とは違う道が拓いたようなワクワクした感触がしてこないものだろうか。
妄想が逞しい小説や漫画で「陳腐」とあなどられる導入部でさえ、現実では珍事件となりうる。「陳腐」な導入部は、実はあまりにもありきたりなふうに見えていながら、むしろ当事者となったとたんに劇的なワンシーンになりうるものだった。
この考え方は、しかし自分の人生を物語のように振り返られる人間にのみ許された特権のようなものだった。
ぼくは、てっきり誰にでもできるものだと思っていた。けれどもそれができないから、みんな恋愛ドラマやマンガの突拍子もない導入を喜んで、新鮮に受け止める。実はそんなものは画面の向こう側のできごとではない。待っていて来るものではないが、ある日まったく思いがけない方角からやってくる、ちょっとした妖精の悪戯のようなものだった。
結局、ぼくと彼女は最寄りの駅がどこだとか、大学の友人が近場に住んでいるとか、かなりプライベートに食い込んだ話題で盛り上がった。地元話もした。今度遊びに来てるならおすすめの店を紹介するよ、と気前の良いことまで言っていた気がする。
そうこうして、地下鉄のホームに降りて、電車を待ってる間もひっきりなしに喋っていた。一方的に喋るだけじゃなく、聞いてるだけでも楽しかった。そして、ついに彼女の待ってる電車の方が先に来て、じゃあねとまたねでさよならを言い合ったのだった。
あとでこのことのあらましをTwitterでぼやいたら、「おまえソコは連絡先を交換すべきだったろ!」とかなり声を大にして(SNSで声がデカいってどういうことなのかはさておき)突っ込まれたのだった。
とは言っても、ぼく自身言われて初めて「あっ、そうか」と思うような感じだったのだけれども。
そんなことが、コロナ禍の前にはあったのだ。
(今もあるかもしれないが、マ、それはそれとして)




