一歩、外へ。
朝。
目覚まし時計の電子音で、意識がゆっくりと浮上する。
不安で泣きたい気持ちも、ゆっくりと頭をもたげる。
あぁ、ダメだ。今日もまた。
こんなの私らしくないのに。
大人になったら色々なことができるようになって、毎日もっとわくわくした気持ちで目覚めることができると思っていたのに。
きっと私はまだ、ちゃんと大人になれていない。
暗い気持ちに強引に蓋をして起き上がった。
パジャマのままリビングへ降りていくと、すでに朝食を済ませた両親が身支度を整えていた。同じ会社に勤務している両親は、いつも朝7時には二人で一緒に家を出る。
「おはよう」ヨレヨレの心を気取られないよう、明るく挨拶をしてみる。
「おはよう」
「おはよう」
父は腕時計をはめながら、母は口紅を塗りながら。だけど一瞬、私の目を見つめて挨拶を返してくれる。
「仕事はどう?」と母に聞かれ、「……うん、大丈夫」と答える。うまく言葉が出てこなくて、妙な間があいてしまった。同じくらいの間をあけて父が言う。
「……とりあえず、踏ん張れ。頑張らなくてもいいから」
どうやら気持ちを隠しきれていなかったようだ。朝から親に余計な気を遣わせてしまったことが情けなくて、ますます泣きたくなる。
二人を玄関まで見送った。子どもの頃からの習慣だ。家を出る両親の背中が、とても遠く見える。
子どもの頃に感じていたのは、単純に物理的な距離感だった。自分のもとから離れて、すぐには会えない場所へ行ってしまう。一緒にいられないという「寂しさ」と繋がっていた。でも、いま感じているのは、もっと精神的な隔たり。同じ大人として生活を共にしているのに、とても遠い。大人としてのレベルが違う。このままの自分ではいけないという「焦り」と繋がっている。
リビングへ戻ると、つけっぱなしのテレビに映る星占いの結果が目に入った。私の星座は8位。微妙だな、と一人呟く。少し冷静になってきたようだ。泣きたくなるのは、甘えているからなのだろう。占いが終わる前にテレビを消した。一人の時は基本的にテレビをつけないことにしている。
頑張るのではなく、とりあえず踏ん張る。
父が言ったように、今はそういう時期なのかもしれない。
大学を卒業して、小さな商社で正社員として働き始めて3カ月足らず。会社での仕事にも人間関係にも、まだうまく馴染めずにいる。慣れないこと、分からないこと、できないことが多すぎて、混沌とした日々を送っている。
朝が来て一日が始まることが、少しだけ怖くなってしまった。外の世界に出て行っても、そこにはまだ、自分の席がないような気がするのだ。でも、逃げるわけにはいかない。私は、ちゃんとした大人になりたい。自分の席は、自分で用意しなければ。
とりあえず、今日も一日踏ん張ろう。
***
その夜。
「仕事、大変だろう?」
リビングのソファでぼんやりとテレビを見ていた私に、父が声をかけてきた。風呂上がりで、頭にタオルを被ったままだ。少し距離をあけて、私の隣に座った。今は母が入浴中のようだ。
「大変というか……私ってこんなに仕事ができない人間だったのかって思い知らされて。学生の時のバイトでは、そんなこと思ったことなかったのに」
「同期とくらべても、私だけ一歩出遅れている感じがするの」
一度話し始めたら、堰を切ったように思いが言葉になってあふれ出した。
就職活動をしている段階から、うまくいっていない感覚はあったのだ。
父と母が勤めている会社は、誰もが知っている大手の商社だ。私も大人になったら有名な会社で働きたかったし、それなりに頑張れば働けるものだと漠然と思っていた。
就職活動では大手の企業を、業界をあまり絞らず何十社も受けた。全滅だった。さすがに両親と同じ会社は受けていないが、もし受けたとしても内定を貰うことはできなかったのではなかろうか。
大企業を諦め、中小企業に的を絞って就職活動を続ける中で、やっとのことで内定を取ることができたのが今働いている会社だ。筆記試験のあとの面接が終始和やかなムードで、精神的に疲れ切っていた私は、ここで働くことができたら幸せだろうと思った。だから内定の連絡を受けたときは本当に嬉しかった。早く仕事を覚えて一人前になろうと張り切った。
早く、大人になりたかったのだ。
働いて、お金を稼いで、いろんなことをできるようになりたい。
でも、いざ大人になってみたら、何もかもがうまくいかない。
長くとりとめのない私の話を、父は黙って聞いていた。相槌も質問もなかった。私が話し終え、沈黙が数秒続いてからポツリと言った。
「就職して1年目はそういうものだよ。俺もそうだったし、お母さんもね」
「え、お母さんも?」
意外だった。
母はいわゆる、キャリアウーマンである。産休と育休で休職期間はあるものの、復職してからはバリバリ仕事をこなし、現在は管理職にまでなっている。大企業といえども、女性の管理職はまだまだ少ないそうだ。若いころから優秀で、私のようにスタートダッシュでもたついたりしなかったのだろうと勝手に想像していた。
「そうだよ。お母さんだって、新入社員の頃は一人前には仕事ができなかったし、そのことで人一倍悩んでいた」
「へぇ……なんか、意外」
驚く私の顔をちらりと見やってから、父はにやりと笑って続けた。
「俺は入社したばかりのお母さんの教育係だったから、仕事を教えながら色々と相談にも乗っていた。それで仲良くなったんだよ」
初耳だ。社内恋愛を実らせての結婚だとは知っていたが、馴れ初めについて具体的な話を聞いたことはなかった。
「入社して1年経った頃には、お母さんはノイローゼのようになってしまってね。仕事でもミスが続いて、ますます悩んで……まぁ、負の連鎖ってやつだな。で、そんな時に、妊娠していることが分かった」
「え、それってもしかして私?」
「そう。付き合い始めてから半年近く経っていたし、俺は最初から結婚を意識していたから、すぐにプロポーズした。その時のお母さんの表情を、いまでもよく覚えているよ」
「どんな顔してた?」若い頃の母の気持ちに思いを馳せた。
「ほっとしたような顔っていうのかな。しがらみから解放されたような。だから、結婚したら仕事を辞めるつもりなんだろうと思った」
でも、辞めなかった。どうしてだろう。
父の話によると、母が「仕事を辞めたい」と口にしたことは一度も無いそうだ。ノイローゼ状態になっていた時、妊娠が分かった時、結婚した時、産休中と育休中。タイミングはたくさんあったはずなのに。そして、育休も半分を消化した頃に母が切り出したのは、復職の話だった。
「驚いたよ。てっきり退職の話かと思っていたからね」
「復職するって聞いて、どう思った?」
「心配だなって思ったよ。出産で休職する前の、精神的に参っていたお母さんの姿が頭に浮かんだ」
当時はローンを組んで一戸建ての家を購入したばかりだった。経済的な不安から仕事への復帰を考えているのかと思い、生活の心配は不要であることを父は伝えた。それに対し母は、違うのだと言った。たしかに結婚したばかりの頃は辞めるつもりだった。入社して1年ちょっとで辞めるのは体裁が悪いから、産休と育休をきっちり取得して、社内で自分の存在が薄くなった頃合いを見計らって辞めようと。しかし気持ちが変わった。いまは、また仕事をしたいと。
「ものすごく心配だったけれど、お母さんの意志を尊重したいと思った」
「お母さんにどんな心境の変化があったのかは分からない。でも……」父はそこで少し言葉を切ってから続けた。
「俺と結婚したことで、やりたいことを我慢してほしくなかった」
やりたいことを我慢してほしくない。
今思えば、同じ気持ちが私の中にもずっとあった。
私(子ども)がいることで、やりたいことを我慢してほしくない。
小さい頃の私は身体が弱かった。保育園や小学校で高熱を出し早退することもしばしばで、そのたびに仕事を途中で切り上げ、迎えに来てくれたのは母だった。母の顔を見ると安心したし、とても嬉しかった。でも嬉しさよりも、仕事の邪魔をしてしまったという申し訳ない気持ちのほうが、ずっと大きかった。
小学校高学年くらいになると、私もだいぶ丈夫になり、学校を休んだり早退したりすることはほとんどなくなった。母の帰りが遅くなり始めたのは、その頃からだ。
「お母さんの帰りが遅いとき、お父さんが早めに帰ってきてくれて一緒に夕ご飯作ったよね」
「あぁ、初めて作ったのはカレーだったかな。あれは我ながらよくできた」
「でも次に作った肉じゃがは失敗だったでしょ?べちゃべちゃして味が変だったもん」
思い出話にひとしきり花を咲かせたあと、ずっと気になっていたことを父に尋ねてみた。
「あの頃、お父さんはやりたいことを我慢してなかったの?」
やりたいことを我慢してほしくない。母に対してと同じくらい、父に対しても同じ気持ちがあった。私と母のために、父がやりたいことを我慢していたのではないか。
同じ会社の中で母は出世を重ね、現在は部長職だ。一方の父は係長。部署こそ違うものの、社内の上下関係で見たときに母のほうが上だ。普通は逆なのではないか。
「いや、まったく。むしろ、やりたいことを思う存分やってきたよ」
即答だった。
「当たり前のことだけど、俺とお母さんは違う人間だからね。やりたいことも違うんだよ」
「それに俺の場合は、やりたいことよりも、男としてこうはなりたくないっていうイメージの方がはっきり見えていた。なんだと思う?」
「うーん、暴力を振るう男?」
それは男としてじゃなくて人間としてダメだろうと父は笑い、正解を教えてくれた。
「家のことを何もできない男、だよ」
「あぁ……だから、料理とか」
料理だけではない。掃除に洗濯にゴミ出し。他にもこまかい家事はたくさんある。父は今でも、働きながら家事全般をこなしている。もちろん、母も時間の許す限り家のことをしているし、私も手伝いをしているうちに一通りのことはできるようになった。はっきりとした分担はなくて、その時にできる人ができることをやる。二人三脚ならぬ三人四脚のこの生活を、私は気に入っていた。しかし、最近になってそのバランスが崩れ始めている。私のせいで。
「私、最近あんまり家のことできてないよね。ごめんなさい」
「そんなことはないさ。夕食、作ってくれているじゃないか」
夕食作りだけはしている。新入社員ということでまだ担当の仕事が少なく、毎日定時で上がることができるので、家族の中では私の帰宅が一番早い。でも、夕食作り以外のことは父と母に任せきりにしてしまっている。
家事と仕事の両立が想像以上に大変だということを、働き始めてから身に染みて感じた。一通りの家事をこなせるからこそ分かるのだ。やるべきことの多さが見えているから、途方に暮れてしまう。全部やろうとすると、帰宅後の疲れた身体と頭がフリーズしてしまう。だからとりあえず夕食を作ることだけを考えて行動するのだ。
「外で仕事が一人前にできないなら、せめて家の中のことだけでもしっかりやろうって思うの。でも、仕事から帰ってくると、ぐったりして、あまり動けなくて……」
話しながら、鼻の奥がツンとしてくるのを感じた。新しい仕事に慣れないのと同じくらいに、いや、もしかするとそれ以上に、これまでできていた家事すらできなくなってしまったことで、私は自信をなくしていた。
「それが普通だ。俺だってお母さんだって、就職したばかりの頃は実家住まいで、家事なんて全部親任せだったよ。」
「いままで、お前に甘えすぎていたのかもしれないなぁ」父は目をふせた。
「そんな……私は、全然、なんにも」
なんにも、ちゃんとできていないのに。
せりあがってきた涙で視界がぼやける。
父が言葉を続ける。
「家事のことなんか気にせず、思いきり勉強したり遊んだりさせてあげられればよかったんだけどな。お前が毎日笑顔で手伝いをしてくれるから、俺もお母さんも甘えてしまったんだよ」
手伝いをすることは、まったく苦にならなかった。
むしろ、頼ってもらえることが嬉しかった。
寂しい気持ちだけが、ずっとあったのだ。
平日の朝、両親を玄関で見送ったあと、学校へ行くまでの時間。
学校から帰ってきて、父か母のどちらかが帰ってくるまでの時間。
静まり返った家に一人でいることが苦しくて、テレビのボリュームを上げてつけっぱなしにしてみたこともある。でも、余計に孤独が際立つように思えて、一人の時はテレビをつけなくなった。
ダラダラとテレビを見る代わりに、家のことをするようになった。宿題をすませて明日の時間割を揃えたら、部屋干ししている洗濯物を畳んだ。まだちゃんと乾いていないものがあれば、よく広げて乾きやすそうな場所に干しなおす。掃除は日によって場所を決めた。今日はリビング、翌日はお風呂とトイレ、といった具合に。高校生の頃までは、一人の時に包丁や火を使わないよう言われていたので、料理は父か母が帰ってきてから一緒に作った。この時間が一番好きだった。一緒にいられることが嬉しかったし、協力して任務を遂行しているという誇らしさもあった。
「しばらく家のことはいいから、自分の仕事や生活のことだけ考えなさい」
突然の父の言葉にショックを受けた。
「でも、それじゃぁ……」せき止めていた涙がこぼれ始める。
まるで小さな子どもではないか。役に立たないと言われているようで悲しかった。早く大人になって、早く一人前になって、家族の力になりたかったのに。大人になった私は、何もかもがダメではないか。
私が泣き出したことに驚いたのか、父は早口で「いや、違うんだよ」と言って話を続けた。
「俺もお母さんも、来月から定時上がりの日が増えそうなんだ」
「ワークライフバランスって聞いたことあるだろう?」
ワークライフバランス=仕事と生活の調和
両親の勤める会社内で、ワークライフバランスを本格的に推進しようという動きがあり、まずは残業を減らすことになったらしい。とはいえ、急に仕事量が減るわけではない。無駄な作業をなくしたり、効率的なやり方に変えたり、会社全体で実現するまでには課題が多いだろうと、父は話した。
「ただ、お母さんは毎日定時で帰ると言っている。上司が残っていると部下は帰りにくいだろう。俺もなるべくそうしようと思う」
だから家のことは任せろということらしい。
もやもやとした気持ちを抱えたままの私に、父は最後に言った。
「お前にも、やりたいことを我慢してほしくないんだよ」
はっとした。
私の、やりたいこと。
夢と呼べるほど大きなものは、まだない。
でも、行きたい方向なら分かる。
こうなりたいという、目指すべき光はもう見えていた。
私は、父の言葉に甘えることにした。
***
翌朝。
沈んでいた意識がゆっくりと浮上する。
不安な気持ちも、ゆっくりと頭をもたげる。
今日もまただ。
でも、大丈夫。
無理に蓋をせず、不安な気持ちをそっと撫でる。
目覚まし時計が鳴る前にすっきりと起きることができた。
階下へ降りていくと、洗面所で母が髪にドライヤーをかけていた。おはよう、と声をかけた。
「おはよう。あれ、今日はちょっと早いのね」ドライヤーのスイッチを切り、鏡越しに母が言う。
「うん。なんか、自然に目が覚めちゃって。……あのね、お母さん」
リビングで両親がそろっている時に切り出そうと思っていたが、先に母に話すことにした。
「会社でね、若手社員が集まってやる勉強会があって、それに参加しようと思うの」
毎週水曜日、業務時間終了後に勉強会が開催されている。参加者のほとんどが入社して3年以内の若手だ。業務に必要な知識を学んだり、他部署の社員と交流したりする場となっている。それとは別に、月曜日と金曜日には同期だけの勉強会も開催されている。
参加したい気持ちは、入社直後からあった。しかし、帰りが遅くなってしまうため、夕食作りが今までのようにできなくなってしまう。仲の良い同期からたびたび誘われてはいたのだが、決断できずにずっと断っていたのだ。
昨夜父と話をしたあと、その同期に連絡をしてみた。彼女は入社してすぐの頃から、すべての勉強会に参加している。先輩社員や他部署の社員とも繋がりができているせいか、同期の中でもとりわけ仕事に慣れるのが早く、いきいきとしているように見えた。
途中参加でも大丈夫なのかどうか、勉強会の雰囲気を教えてもらったのだ。彼女の話によれば、どちらの勉強会も「来るもの拒まず去るもの追わず」の自由な雰囲気だそうだ。私が参加したい旨を伝えると、とても喜んでくれた。両方の勉強会のリーダーに話を通しておいてくれるそうだ。
「良いじゃない!仕事の知識もだけど、社内での横の繋がりって大事なのよ」
ドライヤーを手にしたままの母が、勢いよく振り返った。続けて「私は新人の頃、それが上手くできなくて行き詰まっちゃったからなぁ」と、小さく呟いた。
「でも、そうすると今までみたいに夕食作りできなくなっちゃうから……」
「そんなこと気にしなくていいの!私たちに任せなさい!」
私がすべて言い終えないうちに、母が話し出した。
「あ、そうだ!私もお父さんも、これからしばらくは早めに帰れるから!」
「それでね、せっかくだから夫婦で何か習い事でもしようかなって」
「ダンスはどうかしら?」
話の飛躍についていけず、私はしばし呆然とする。母はいつもこんな感じだ。頭の回転が速いのか、話の展開が早い。「バイオリンやピアノもいいかも」と鏡へ向き直り、再びドライヤーをかけ始めた。
廊下をはさんで洗面所の向かいのトイレの扉が開き、父が出てきた。おはようと挨拶を交わす。
「俺は料理教室に行ってみたいなあ」
「え?なにー?」ドライヤーをかけながら母が聞き返す。
「りょ・う・り・きょ・う・し・つ!」父が声を張り上げる。
「あぁ!お料理ね!」母も負けずに大きな声を出した。
父にも勉強会のことを話そうと「お父さん、あのね……」と言いかけると、手を挙げて制された。
「聞こえていたよ。大丈夫。勉強会、行ってくるといい」
「うん。ありがとう」
大丈夫かもしれない。
私は大丈夫な気がする。
身支度を整えた両親を、いつもどおり玄関まで見送った。あれからずっと二人は習い事についての話で盛り上がっていて、玄関の扉が閉まったあとも「社交ダンス」や「英会話」という単語が外から聞こえてきた。二人の背中は相変わらず遠いけれど、もう焦る気持ちは湧いてこない。
一歩、踏み出せた気がするのだ。
同じところをグルグル回っているだけの日々から、一歩だけ外側へ抜け出ることができた。
リビングへ戻ると、いつものようにテレビがつけっぱなしになっていた。リモコンを手に取り電源ボタンを押そうとしたが、気が変わってやめた。今日は家を出るまでつけたままにしておこう。外の世界でどんなことが起きているのか、少しでも情報収集してから出勤したい気分だった。
残念ながら占いは見逃してしまったけれど、昨日よりは良い1日になるという確信がある。