名前
クロウと共に姫の部屋の前まで来ると、扉を守っている護衛が、中継ぎをしてくれた。
いい名前を思いついたんだ。姫にぴったりの名前。
しばらくしてキャロルが部屋から出てきた。
「お待たせいたしました。どうぞ、お入りください。殿下」
「あぁ。邪魔する」
部屋の中に入ると、窓辺のテーブルに頬杖をついて、ぼーっとしている姫が目に入った。
僕に気付いて、視線を動かす。立ち上がり、懐っこい顔で小さくジャンプするように僕のもとにやって来た。
そこで、我に返ったようにハッとすると、取り繕うようにニコリと笑顔を向けた。スカートをつまみ、裾を上げ、恭しく一礼する。
「ようこそ。ウィリアム殿下」
姫のその他人行儀な振る舞いに不愉快な気分になった。この数時間の間に何があったというのだ。
姫との時間を少しでも多く作りたくて、必死で名前を考えてきたんだ。こんな風に壁を作られるのを見届けるためじゃない。
「姫。そのような格式ばった振る舞いは不要です。先程までの接し方で十分ですよ」
姫が嬉しそうに顔を綻ばせた。すぐあとに、困ったように眉を顰め、目を細め「うぅー」と唸りながら、キャロルを見た。
キャロルは僕と姫に向かって、にっこりと笑みを広げた。
「ウィリアム殿下。これは姫様の行儀作法の勉強のためです。姫様のためにも、どうかお付き合い願います」
「あ、あぁ」
姫のためと言われてしまえば拒否もできないが、壁を感じない姫の距離感を心地よく感じていたので寂しい。
縋るような目で僕を見つめてくる姫には悪いが、僕にとっても本意ではない。
「そうだ、姫。姫の名前を考えてみたんだ」
「本当に? どんな名前? 楽しみ!」
両手を合わせてキャッキャッはしゃぐ姫に、キャロルが咳払いで水を刺す。
「どのような名前をいただけるのかしら? とても楽しみだわ」
姫が言い直すと、キャロルは満足そうに頷いた。
なるほど。口調や振る舞いを正してはいるけど、僕と姫との会話は対等な相手とする口調で良いみたいだ。
それはそうだ。口調でいえば、僕が改めないといけな側だ。祖先であり、聖女扱いなのだから。
これ以上距離を感じるのは嫌だから、そんな態度に切り替えるつもりはないけど。
「フローラはどうかな? 姫は、ふんわりと花が開くように笑みを広げるだろう? だから花の女神。フローラ」
「うわぁー! 素敵な名前! でも、わたくしの名前に女神様の名前を頂戴するなんて……。恐れ多いわ」
「恐れ多いなんてことはない。姫にぴったりの名前だと思う」
「……キャロルはどう思う?」
顔色を窺うようにキャロルを二人で見ていると、にっこりと優し気な笑顔。
うん。キャロルも気に入ってくれたみたいだ。
「とても素敵なお名前ですね。姫様によくお似合いですわ」
「そう? じゃあ、今日からわたくしはフローラね。名前負けしないように、笑顔でいるようにするわ」
そう言ってフローラは、頬に両手をあてて顔をくしゃっとさせた。
本当にかわいい。何がかわいいって、この無邪気さだ。この世の中の汚いところ、暗いところにフローラを近寄らせたくない。
「気に入ってくれたみたいで嬉しいよ。あれからずっと行儀見習いの勉強をしていたの?」
フローラは視線を落とすと、はぁーと大きなため息を吐いた。
「えぇ。そうなの。キャロルは厳しいわ。わたくしがわたくしのままでいるのが悪であるかのように感じてしまうほどよ」
「そんなことはないだろう?」
フローラによると、朝食後部屋に戻ると途端にキャロルの顔からは笑顔が消え、目つきが鋭くなったと言う。
歩いてみれば、もっと優雅に歩くように注意を受け、口を開けば言葉遣いがなっていないと怒られ、疲れ切ってしまったそうだ。
「キャロル? フローラは千年の眠りから覚めて、ほんの短時間起きていただけでまた眠りについてしまったんだよ? あまり根を詰めさせるのはどうだろう?」
フローラの負担を減らしてあげたくてそう口を挟むと、キリっとした顔でキャロルが言った。
「お言葉ですが、ウィリアム殿下。現代の立ち居振る舞いを身に着けなければ、恥じをかくのは姫様なのです。まさか、皆様の前で粗相をしてしまって落ち込む姫様を見たいわけではないでしょう?」
それはそうだけど……。
「なにも目覚めて早々、マナーを身に着けさせなくても良いではないか、時間をかけてゆっくりとさ」
チラリとフローラに視線を投げると、僕の言葉に同意するように神妙そうに頷いている。
「そうよ。キャロル。わたくしも何もしたくないと言っているわけではないのです。行儀見習いなんて一朝一夕で身に付くものではないでしょう? 生活の中に取り入れてゆっくりと身に付けていきたいのです。詰め込んだ所作なんて、何かの拍子に丸ごと抜けてしまうに決まっています。ねぇ、ウィリアム殿下?」
「そうだよ。フローラの言う通りだ。優雅な所作は体に浸みこませるように身に着ける者であって、詰め込むものではないよ」
共通の敵に向かって力を合わせて戦う僕たちは顔を見合わせて微笑み合う。
あぁ、幸せだ。
「ウィリアム殿下。わたくしとて時間があるのなら、そういう教育方針で取り組みます。ですが、今は時間がないのです。付け焼刃でも良いので、取り急ぎマナーを身に着けなくては」
自分も本意ではないとキャロルが強めに言う。
「来週、姫様のお披露目パーティをすると陛下がおっしゃるもので、それに合わせて教育しているのですわ」
それは初耳だ。僕は何も聞いてないぞ。
「それは知らなかった。父上がそのようなことを?」
「えぇ。ですから、姫様には申し訳ないですが、このように教育を……」
「そのパーティは延期できないのか? 目覚めたばかりだというのに」
「そう思われるのでしたら、ウィリアム殿下から直接陛下におっしゃってください。わたくしの立場では、粛々と受け入れ、それに応じた振る舞いをお教えすることしかできません」
フローラが期待に満ちた顔で僕の顔を覗き込んできた。僕はしばらく目を奪われて、姫と視線を結ぶ。頭の中は陛下への進言をどうしようかでいっぱいだ。
「……ごめん、フローラ。父上がそう言ったというのならば、もう各方面への手筈は整っているはず。どう言っても覆すことはできないと思う」
目に見えてフローラの表情が曇っていく。
あぁ、ごめんよ。フローラ。一国の王が安々と言葉を取り下げることなどできないんだ。
「わたくしも鬼ではありませんから、少し前から休憩の時間を設けていたのですよ」
僕が部屋に入ってきたとき、姫がボーッとしていたのはつかの間の休息だったようだ。テーブルの上には何やら、文字を綴ったノートが置かれている。
「これはフローラが書いたの?」
「えぇ」
許可をもらいノートを見せてもらうと、フローラの手記が書かれている。千年前の話。フローラがどのような経緯で眠りにつくことになったか。それから、目覚めたあとのことも書いてある。
「フローラ。ここにフローラの家族、当時の陛下と皇后、使用人にいたるまで、城内にいた全ての者が眠りについて、フローラと同じタイミングで目覚めたと書いてあるけど……」
ノートを読み上げながら、フローラに視線を向けると、ギョッとしたように目を丸めている。そして、不可解そうに首を傾げた。
「ウィリアム殿下には、その文字が読めるの?」
「あぁ。姫が眠りについてから千年経ったけど、言語は変わっていないからね」
「……そう……。ウィリアム殿下にも読めるのね……。キャロルは?」
フローラの言葉に合わせて、キャロルも見えるようにノートの向きを変える。キャロルはそれに応じるようにノートを覗き込む。
「えぇ。ウィリアム殿下がおっしゃったことが、そのまま書いてありますね。……それが何か……?」
口を開いて無防備な顔のフローラは、もう一度首を傾げた。すこし考え込むように唇を尖らせた。
「……そう。それならそれで……。うーん。そういうこともあるの……かな……」
「そんなに考え込んでどうかしたの?」
千年経っていようが同じ国で同じ言語が使われているのは、そんなに珍しいことではないと思うのだけど、何がそんなにひっかかるのだろうか。
じっと様子を窺っていると、ふふっと小さく笑った。
「それはそれでいっか。ラッキーってことで」
「うん? ラッキー? 何が?」
「うーうん。ちょっと不思議におもっただけ。分かるのならそれでいいの」
ふふふ。とフローラは微笑む。
「もう少し整理してから聞こうと思っていたのだけど、わたくしのお母さまやお父さまはどちらかしら?」
ノートに書いた通り、フローラは当時城内にいたもの全てが千年の眠りにつき、姫と同じタイミングで目覚めたと思っているようだった。
かわいそうだけど、それは違う。
「フローラ。千年前眠りについたのも、今目覚めたのも、フローラだけなんだ。淋しいだろうけど……」
「……そうなの。違ったのね……」
「あぁ。詳しくは分からないけれど、フローラの両親も使用人もすでに亡くなっている。だけど、今城内にいる王族全てが姫の親族だし、家族だ。不安だとは思うけど、信じて頼ってくれたら、と思う」
家族が生きている。生きて、千年前の続きのように、そのまま生活を送れると思っていたに違いない。悲しいだろう。悔しいだろう。淋しいだろう。
キャロルがフローラの背中に手を回し慰めるように擦った。俯いていたフローラが隣のキャロルを見上た。
「わたくしは大丈夫。そういうこともあるよね。千年も経ったんだもの。王子様が来る前に目覚めてしまったわたくしのように、魔女の呪いに歪みが出てしまっていてもおかしくないわ」
伝承として残されているのは姫が眠りについた事だけ。眠りにつかされた姫を、どんな人災からも天災からも守り抜こうと決めた姫の両親は、大事に大切に、旧神殿で保護した。
姫はノートに書いたことが真実と認識しているようだ。伝承にはない事実が、姫だけが知る真相が何かあるのかもしれない。
それなのに。千年前の続きをそのまま続けられると思っていたはずのフローラが。当時の使用人はおろか両親さえもいない。その事実を突きつけられたはずのフローラの顔には、なぜか、僕がそうだろうと考えた、悲しみ、悔しさ、淋しさの色は浮かんでいなかった。