ちょっと寝た
「で、今度はプリンか」
小夜が今日はプリンの作り方を教えろという。しかも注文が多い。
「うん。電子レンジなんて便利なもんないから蒸すやつ教えて」
「じゃあ、アルミホイルを……」
「そんなのあると思う?」
「じゃあ、濡れ布巾使おう」
「困ったときの濡れ布巾だね」
俺は、ボールに卵を割り入れて、牛乳、砂糖を加えて。ホイッパーで混ぜた。
「待って! ホイッパーがなかったらどうしたらいい?」
「フォークか菜箸何本か使う。綺麗に混ざらなかったとしても、この後濾せば舌触りはさほど悪くはならないと思う。やったことないけど。今日は菜箸でやってみるか?」
「うーん。それで、なめらかさが落ちたら嫌だからいい」
「あっちでぶっつけ本番になるけど?」
「いい。せっかくこっちにいて、お兄ちゃんが作ってくれるのに、もったいないことしたくない。それに、あっちに戻らなかったら必要のないことだもん」
そう言った小夜がじーっと俺の目を見てくる。
「そうだな、必要じゃないかもしれないんだから、わざわざ失敗するかもしれないもん食べたくないよな」
「うん。ごはんはおいしいのがいい」
「それでこそ小夜だ」
小夜のころころ変わる表情に口ほどに物を言う目は、今回帰ってきてからは少しなりを潜め、代わりに疑うような、不安がるような目になっている。
たぶん、シャーロットに自分が取って代わられるんじゃないかと本当に不安なんだ。そんなことあるわけないのに。
小夜はもう覚えていないだろう。小学校低学年の時、なんとなく落ち込んでて、探るような目で俺を見て、母さんを見つけてほっとしたように母さんに抱きついた。いつもは「おにいちゃん、おにいちゃん」って俺の周りをうろついていたのに。
心臓がドクンと跳ねた。小夜が俺の救いなのに。小夜が俺を家族の一員にしてくれているのに。
小夜は母さんの連れ子だ。小夜の本当の父さんは事故で他界していて、しばらくしたあと妊娠に気付いたという。父さんは当時、母さんの上司で、旦那さんの他界と初めての妊娠に戸惑いながら仕事している母さんを支えていた。もちろん、最初は、上司として業務分担や時差勤務とかの調整をしていた。
だけど、業務分担する上で、母さんと会話を重ねるうちにプライベートな話題も増え、公私ともに支えたいと思うようになったと照れながら父さんが言った。
俺の本当の母さんは物心つく頃には既に病気で亡くなっていて、あまり記憶にない。だけど、たまに酔っ払った父さんが母さんのことを話してくれた。
「母さんはな、圭のことが大好きでな。ほら、見てごらん」
そう言って見せてくれたのは家族三人のアルバム。生まれたばかりの猿みたいに真っ赤な俺が、ベッドで寝ている母さんの胸に抱かれている。母さんはそれを幸せそうに見ていた。嬉しそうに柔らかい笑顔で。その写真を見ながら父さんも柔らかい笑顔になる。その後には決まって泣いた。早くに逝った母さんを惜しんで。
父さんと二人の生活は悪くなかったけど、寂しかった。保育園には一番最後までいて、真っ暗の中走って父さんが迎えに来てくれる。家に帰ったら父さんは俺が寝るまで傍にいてくれたけど、先に帰っていく友達が母さんに抱っこしてもらっているのは羨ましかった。
だから、小夜の母さんを初めて紹介されたとき嬉しかった。自分に母さんが出来ることが。父さんが母さんを思って泣くことがなくなるのだと。それに、母さんが抱っこする小さな赤ちゃん。1歳になったところだと言う。この子と一緒にいられるなら寂しくないと思った。
家で、父さんが照れながら母さんと小夜を紹介した。
「初めまして。圭君。中村薫です」
「は、は、はじめまして。お、おかあ、さん?」
そのときの母さんの顔を今でも覚えている。すぐに笑顔になったけど、驚愕と絶望に満ちた目だった。そのときの俺は小学校にあがる年だったけど、何か悪いことを言ってしまったのかと思うほど、深く傷ついた顔だった。
「圭君。私は圭君のお母さんになれたらいいと思っているけど、圭君の本当のお母さんはちゃんといるでしょう?」
「うん。お母さんてよんだらだめ?」
「だめじゃないわ。嬉しい。だけど、本当のお母さんのことも、ちゃんと覚えていてあげてね。……じゃないと、圭君のお母さん……天国で泣いちゃうわ……」
生まれる前に父を亡くしている小夜と、小さいときに母を亡くしている俺。あのときの母さんは、小夜が自分の本当の父をなかったことのように話す未来が見えて傷ついていたのだと思う。母さんが泣きそうに鼻をぐずらせた時、ソファーに寝かせていた小夜が泣いた。
母さんは小夜を抱き上げ、体を揺らす。安心するように小夜はキャッキャ笑い出した。初めて見る自分より小さい子。すごく気になったけど、母さんをいじめた気分になって傍に近寄れなかった。
「圭君、こっち来て。小夜と仲良くしてくれる?」
「うん」
小夜の元に行くと、俺を見つけた小夜が俺に手を伸ばして笑った。その手を触ると、よだれで濡れた小さな手が僕の指を数本きゅっと握った。
「かわいい……」
「圭君の妹にしてくれる?」
「ぼく、おにいちゃん?」
「そう。いいかしら?」
「うん! ぼくいっぱいかわいがる!」
「ありがとう」と微笑んだ母さんは、写真で見た、お腹に乗せた生まれたての俺を見て笑う母さんと同じように幸せそうに笑った。
はじめは儚げに見えた母さんは、優しいけど芯の強い、押しの強い人だった。亡くなった旦那さんの忘れ形見である小夜を溺愛し、俺には小夜ほどへの執着はみせなかったけど、それでも愛してくれているのは伝わってきたし、何より小夜がいた。小夜が俺をお兄ちゃんにしてくれて、母さんの子供にしてくれた。
だから、母さんを見つけて母さんに抱きついた小夜が、風呂の間、どんな話が繰り広げられているのかと不安でいっぱいだった。
「おにいちゃん、さよのおにいちゃんじゃなかったんだね。うそつき」
「おにいちゃんなんかきらい」
「ほんとうのおにいちゃんじゃないなら、いらない」
風呂から上がってきた小夜に言われるかもしれない言葉が頭の中を回り、嫌な汗が背中を流れた。いつも小夜は風呂から上がった後、裸のままでリビングに笑いながら入ってくる。それを捕まえて体を拭くのは僕の役目だった。
その日もバスタオルを持って、小夜が風呂から出てくるのをハラハラしながら待った。風呂のドアが開いて、閉まる音がする。パタパタと小夜の足音が近付いてくる。
リビングに駆けてきた小夜の目に僕が映った。
「タッタラー!! おにいちゃーん!」
心なしかいつもより足早に駆けてきたせいで、俺の胸にはいつもより大きめの衝撃を感じる。不安を隠して、バスタオルで小夜の体の水滴を拭う。
……大丈夫。タッタラーって言ってるから、大丈夫。
「……どうした? 何がタッタラー?」
聞いた声が震えているのが自分でも分かった。小夜は僕を見上げてにこりと笑みを広げた。
「おにいちゃん、さよ、すごくラッキー! タッタラー!」
「なにが?」
「おにいちゃんとさよは、ほんとうは、おなじいえのこじゃなかった。だけど、おなじいえのこ。さよ、すごくラッキー。タッタラー!」
泣きそうになった。なんて優しい考え方をするんだろう。俺がいることを素直に喜んでくれるこの妹を、純粋に好意を寄せてくれるこの妹を。俺は何があっても守り抜くと。
小夜は知らない。この家の中心が自分であることを。だから、少し離れただけでこんなに不安そうな顔で俺を見上げるんだ。
「小夜。少し離れただけで、お前が不安がるような事は何もない。昨日分からなかったか? みんな小夜が戻ってこれるように必死に考えてる。伝わらないか? いつも気付いていただろ?」
「……私じゃなくて、シャーロットの方がいい、って」
「思うわけないだろ」
「本当?」
「当たり前だ」
「……ありがとう」
「お礼を言うことじゃない。礼を言わないといけないのはこっちの方なんだから」
「なにが?」
俺は「さ、プリン作るぞ」と話を変えた。いつかお礼を言いたいとずっと思ってるけど、いつも恥ずかしくて言えない。でも、それも家族だから。心地いいお礼の言えない甘えた関係。全部小夜がくれた。
プリン液を茶こしで濾しながらプリンカップに入れる。どうせ蒸し器がなかったら? と言われるに決まってるからフライパンで蒸していく。
「メモしなくていいのか?」
「どうせ持って行けないからね」
「確かに」
「あぁ!」
「なんだ?」
「茶こしがなかったら」
「濡れ布巾?」
「そこ大事! なんで疑問形?」
「だって、あっちにある調理道具が分かんねぇもん」
「私も分かんねぇよ」
「でも、ないわけないって。茶こしがなくても、ヨーロッパ風なら何かしら濾すから、メッシュボールとか、なにかしらメッシュ入ったもんあるって」
「……分かった。なかったら濡れ布巾で力の限り絞るよ」
できたプリンを冷蔵庫に入れて、小夜は母さんに誘われて買い物に行った。訳の分からない世界で頑張る小夜に何かプレゼントしたいそうだ。その気持ち、すごく分かる。
小夜が出かけているあいだ、小夜が喜ぶ夕食を作ろうとメニューを考える。そう言えば、最初に帰ってきたとき、小夜は一週間分くらいの献立を言っていた。まだ豚カツは作ってやれていない。
チーズも好きな小夜のために薄切り肉でスライスチーズを挟んで衣をつけていく。揚げるのは小夜が帰ってからだ。揚げたてを食べさせてやりたい。小夜の好きな卵スープも作って小夜を待つ。
「ただいま」
母さんの声が聞こえて、夕食までにはまだ時間があるから、ココアでも入れてやろう牛乳を火にかける。俺と母さんのコーヒー用にケトルに水を入れた。久しぶりの小夜だ。甘やかしている自覚はある。
リビングのドアが開く音がして、牛乳が煮詰まらないようにかき混ぜながら「ココア飲むだろ?」と聞く。返事がない。小夜は一緒じゃないのかと顔を上げれば、気まずそうな顔の小夜と、苦笑する母さん。
「帰りの電車で眠たそうにしてたから……」
「ごめんなさい……」
電車で母さんが眠そうな小夜に寝るよう言って、起きたらシャーロットだったと。うん。今回は、二日じゃないか。早すぎる。だけど、申し訳なさそうに謝るシャーロットに何を言えるというのか。
「……シャーロットか。……ココア飲むか? 母さんも、コーヒー飲むだろ?」
「えぇ。シャーロットちゃん、一緒に飲みましょう」
「ありがとうございます」
シャーロットにココア、俺と母さんにはコーヒーを並べる。小夜の中身がシャーロットでも、なんとなくの習慣でシャーロットは俺の隣の席に座る。
「シャーロット。あっちではどうだった? 小夜が言うには、シャーロットの魂がシャーロットの体にいるときは仮死状態にあるようだ。千年の眠りから覚めたシャーロットの体はあっちの世界の医者に健康診断されて、千年のあいだも仮死状態にあったようだと結論が出ているらしい。今回、あっちにいるあいだ、意識だけがあるってことはなかったのか?」
同じ仮死状態なら、最初に魔法をかけられたときに幸か不幸か抗うことができた。それなら、小夜との入れ替わりを挟んでいるとはいっても、意識はあるのではないか。
「……その、はい。意識はありました……」
「……どうだった? 目は開けられそうだったか?」
「シャーロットちゃん? どうだった?」
意識があるのなら、あとは目を開けるだけだ。それさえできれば、魂と肉体が一致した状態だ。それで固定してほしい。
「ごめんなさい、あのときと、同じように、意識だけで体を動かそうとしても、目を開けようとしても指先一つ動かせませんでした……」
「そうか……」
「申し訳ありません」
「シャーロットちゃんがわるいわけじゃないことは分かってるから大丈夫よ。それに……今までは意識も保てなかったのでしょう?」
「それが……」
シャーロットの言葉に母さんが「シャーロットちゃん?」と名前を呼ぶ。ただ、名前を呼んだだけなのに、シャーロットの顔が凍り付いた。
「申し訳ありません! もうずっと、何が夢で何が現実か分からない状態だったので、あの声だけが聞こえる状態が夢か現実かの判断がつかなかったのです。本当に申し訳ありません」
シャーロットが涙ながらにひたすら謝る。我に返った母さんが、申し訳なさそうに眉を顰めた。
「ごめんなさい、つい……」
「いえ。お母様がお怒りになるのはもっともなことにございます。わたくしがもう少ししっかりしていれば……」
「……いいえ。そもそも、千年ものあいだ残酷な目にあっていたんだもの。正気を保てという方が無謀だわ」
「で、だ。シャーロットがあっちでの意識だと思ったのは何か決め手があったのか?」
「あの、決めてと申しますか。この推測が正しいのなら、わたくしは自分の体で意識はあるという結論になると申しますか……」
「なんだ……?」
「あの、小夜は、あちらの世界でフローラと?」
「えぇ、えぇ! そうよ。ウィリアムがつけてくれたと!」
シャーロットの推測が確実になり一縷の望みが見えてくる。あとは次に入れ替わったとき確実に目を開けてもらいたい。そのためには、シャーロットに、呪いの真相やエヴァンズの一族について教える必要があるだろう。少しでもあちらの世界への忌避感を取り除きたい。
「シャーロットちゃん。状況が見えるわけじゃないから分からないこともあると思うけど、何か聞こえなかった? 小夜はあっちで、どんな扱いを受けているのかしら? あの子はなんというか、割とのんびりしたところがあって」
確かにのんびりしているけど、それ以上に愛されることに慣れきっていて、あまり人を疑うことをしない。大事に育てすぎた弊害ともいえる。少なくともこっちでは、素直すぎて子供っぽくみられ、友達にもかわいがられる対象みたいだ。なんというか、小夜の周りに悪い奴がそもそも集まってこない。
……深すぎる愛情には気付くみたいだけど。ウィリアムのときみたいに。
「小夜はすごく大事にされていると思います」
そう言ったシャーロットが入った小夜の顔は憧れとも尊敬ともとれる表情だった。
「その、ウィリアム殿下が何度もフローラの元に足を運ぶのです。でもフローラは、まぁ、わたくしですので起きられないのですけど。キャロルというメイドかしら?」
「あぁ。王宮でキャロルというメイドをつけられたと言っていた」
「やはりそうですのね。……何度もキャロルがウィリアム殿下を追い返すのですけど……」
ウィリアムはキャロルに、何度も追い返されては一度部屋に戻り、これが最後だと何度も足を運んだという。
「それで、おそらく、フローラに触れようとなさったのでしょうね。キャロルが大変な剣幕で怒りまして。主を守るためとはいえ、殿下相手にあのような振る舞いをするとは驚きました。キャロルはフローラに真摯に仕えていました」
「まぁ、では、抵抗できない状況とはいえ小夜の貞操は守られそうね」
「……母さん、そもそも、仮死状態の女性にそんなことしようとする奴いないよ」
「……それはそうだけど、世界が違うのよ。何が起きるか分からないじゃない」
母さんの心配にシャーロットが「あの……」と割って入る。
「ウィリアム殿下はとても無体なことをするようには思えませんでした」
なんとか頬を触る許可をキャロルから得たウィリアムは「早く目を覚ましてくれ。いつか日本に帰る身であることは分かっている。だけど、もう少しだけ共にいてほしい」と、それは切実な声でフローラに呼びかけていたと言う。
……なんだ。ウィリアムのことあっちの家庭内ストーカー扱いしてたけど、ちゃんとこっちに帰す気でいるじゃないか。愛が過ぎるところはあるみたいだけど。
「そう。それなら、ウィリアムは協力的なのね」
母さんが嬉しそうに手を叩いて顔に笑みを広げた。
「協力……ですか……?」
「えぇ、小夜があっちに行ってるあいだに、色々と進んだの。あっちの世界のことやシャーロットちゃんのことでも分かったことがあるの」
嬉しそうに微笑みながら話す母さんとは対照的に、シャーロットは複雑な表情を浮かべた。
その表情は、ついさっき小夜が浮かべた不安そうな顔。小夜が感じたように、それほどまでに既にあっちの世界で大事にされている小夜と入れ替わる不安。それとたぶん、小夜とは違う、ここにも居場所はないという確信だろう。




