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美しい姫

 

 ぽすっ、と彼女の背中が僕の胸に倒れ込んできて、慌てて手綱を取っている手を、彼女のお腹に回した。


 もう片方の手は、手綱を持ったままで、彼女が落馬してしまわないように、しっかりと支える。



 僕の顎の下に彼女の小さな頭がすっぽりと収まり、静かな寝息が耳をかすめる。


 手綱を軽く引いて、馬の翔けるスピードを落として、横座りで騎乗している彼女の顔を覗きこんだ。



 金のような銀のようなウェーブのかかった長い髪が、風に乗って彼女の頬を撫でる。


 瞼を閉じていても分かる大きな瞳。ゆるやかに下がった優しげな眉。寝ていても楽しそうに上がっている口角。

 抱き締めれば折れてしまいそうな華奢な肢体。



 ……なんと美しい姫だろう。


 顔がだらしなく緩み、自然と笑みが溢れた。




 あの旧神殿で寝台に眠る彼女を見たとき、一瞬で心を持っていかれてしまった。



 こんなに美しい姫は見たことがない、と。



 僕はそっと彼女の唇を奪った。


 

 

***




 旧神殿から戻って来た長兄カルロスは、不満そうに口をへの字に歪めた。


「なぜ私のくちづけで起きないのだ」


 カルロスは、ふんと鼻を鳴らして憤りを見せると、


「目覚めさえすれば、そのまま我が物にしたものを」


 そう言い残し、ドテドテと足音をたてて、自室へと引っ込んでいった。




 その後ろ姿を見送る次兄アロンが、満足そうに口元を緩め、ふっと目を細めた。


「ここは、やはり俺だろう。千年の眠りから姫を目覚めさせる誉れ。俺が頂こう」







 数時間後、アロンが城に戻ってきた。こちらを見ているようで見ていない。そんな、呆然とした目をしていた。


「……とても美しい姫だった……。あのように美しい姫は見たことがない。世に女神がいるとしたら、きっとあの娘のような美貌なのであろう。……兄上が悔しがっていたのが良く分かった」


 毎日のように国中の美しい姫と目される娘たちを城に招いては侍らせているアロンが、女性をそんな風に言うのは聞いたことがない。それほど素晴らしい容貌だったのだろうか。


「女神と表現されるとは……。そんなに美しい姫だったのですか?」

「あぁ。世の美姫は全て見尽くしたと思っていたが、それが思い過ごしであったことに初めて気付いたよ。あのように美しい姫がこの世にいようとは。なんとしても手に入れたかったのだが……」

「姫は起きなかったのですね?」

「あぁ……」


 アロンが舌打ちをして、言葉を重ねた。


「絶対に起きていると思うのだ。だが、何をしても目を開けないのだ」

「何をしても、とは? いったい何をしたというのです?」


 寝ている姫の目を開けさせるために一体どのような所業を働いてきたというのか。いつも幾人もの姫を侍らせているアロンだ。考えただけでも恐ろしい。


 僕の問いかけにアロンは気まずそうに答えた。


「いや、なに、ちょっと体を突いただけだ」

「体を突いた? ……どこを突いてきたというのです?」


 聞いてくれるなと言わんばかりにアロンは首を横に振った。逃がすわけがない。ことと次第によっては、この後、僕、弟七人が続いたところで、起きていたとしても目を開けてはくれないかもしれない。


 アロンの視線を捕らえ、目に力を入れた。アロンは大きなため息を吐く。


「最初は頬から始まったのだぞ? ……だが、なかなか目を覚まさないから……。くちづけをしたときに体がビクッと震えたし、絶対に起きているはずなのだ……」

「最初は頬から始まった? では、最終的にどこに辿り着いたというのです?」

「……」

「兄上?」


 アロンは僕から視線を逸らすと、ボソッと呟いた。


「……胸だ……」

「はぁぁぁ??」


 あまりの無礼なアロンの行いに思わず素っ頓狂な声が口をついて出た。


 何を考えているのだ。起きているかもしれないと思っていながらそんなことをするなんて!


「起きているかもしれないと思っていながら、そんなことを? 本当に起きていたとしたら姫はさぞ怖い思いをしたことでしょう。襲われるかもしれない、と」

「……悪かった」

「僕に謝ってもらっても困ります」

「……あぁ」

「はぁー。……次は僕ですね。行ってまいります」


 女性に対して奔放な兄だとは思っていたが、あまりに酷すぎる。なんとか僕のくちづけで目をあけてくれれば良いのだけれど。


 しかし。あのアロンが、女好きと見える反面、女性なら誰でもいいと思っているのでははいかと思ってしまうほど、手あたり次第のアロンが。なんとしても手に入れたくなるほどとは一体どれほどの美しさなのだろう。


 姫がもし本当に起きていたとしたら、アロの所業に恐怖して僕のときも目をあけてくれないかもしれない。


 いや、もし襲われると恐怖していたとしたら起き上がり、逃げ惑うはずではないのか。


 もしかして、姫は、アロンにくちづけ以上のことをされることを望んで、瞳を閉じたまま抵抗しなかった……? いや、そんなはずはない。




 姫は僕たち王子の祖先にあたる。その時代の姫は今以上に閉ざされた環境で、醜聞に関わるような情報は一切与えられていないはずだ。いわゆる純粋培養。身も心も清らかであるほど美しい。そういわれていた時代。



 そんな姫がくちづけの先を期待して寝たままでいたとは思えない。


 何かほかに理由があるはずだ。


 興味が沸いた。何を考え意固地に眠ったフリを続けるのか。


 まだ見たこともない姫と、話がしてみたいと、好奇心を抱えながら馬を走らせた。




 旧神殿の結界を抜けると、大広間に出た。眩しい光が寝台を照らしている。その光は天国に続きそうな白い白い光。今にも羽根が降ってきそうだ。



 光に誘われるように寝台に近付き、姫を見下ろす。ヴェールに覆われた姫はなんとも神秘的に見えた。うっすらとヴェールの奥に見える寝顔だけで、思わず生唾を飲んでしまう美しさだ。


 そっと首元までヴェールをまくると、姫の美しい顔が露わになった。



「なんと美しい姫だ」


 意図せず、口をついてその言葉が声となる。



 本当に美しい。アロンは女神と言ったけど、僕には天使のように見えた。この世のものとは思えない美しさ。瞳を開けた姫を見てみたい。話がしたい。声が聴きたい。


 思わず姫の頬に触れようと手を伸ばしたところで気付いた。両頬に涙が渇いたような跡がある。よく見ると目尻からこめかみにかけても涙の跡が。



 泣いていたのだ。こんな何もないところで一人きりで。そして今なお、どこの誰かも分からない男が自分の傍で立ち尽くしている。さぞ恐ろしいことだろう。



 そう思っているのに、姫の薄紅色のぷっくりとした唇から目が離せない。



 怖い思いをしているのだろう。

 この唇に触れたい。

 早く立ち去ってほしいだろう。

 くちづけをしたい。

 逃げ出したいに違いない。

 抱きしめたい。


 相反する思いが頭の中を支配し、一瞬真っ白になったかと思うと、昨晩訪ねてきた魔女の声が脳内に響いた。



「眠り姫は王子のくちづけで目覚める」



 そっと姫の唇を奪った。




 姫の反応は何もない。微動だにしない。



 どうにか目を覚ましてほしい。


 王族しか抜けられない結界。姫は抜けられない。姫がこの旧神殿を出るには姫の意志が必要。姫が認めた王子と共に、姫の意志で、姫の足でしか出ることができない。



 どうか、どうか、目を……。




 祈るように姫を見つめる。いや、目を奪われていると言った方が正しいだろう。




 待てども暮らせども姫は動かない。



 涙の跡から見ても、起きていたはずだ。頬に涙の跡があるのは、起き上がって泣いていた証拠に他ならない。



 




 ……僕は姫に認めてもらえなかったということか……。










 城に戻ると弟に言った。



「どうか姫を怖がらせないでやってくれ」




 弟七人が次々に帰って来た。


「起きない」

「起きていると思う」

「目を開けない」

「もしかしたら、この世代の王子には姫に見合う王子がいないのかもしれない」



 兄弟十人で頭を突き合わせ、明日馬車で迎えに行こうという結論に至った。魔女は姫が認めた王子と共に、姫の意志で、姫の足でしか出ることができないと言ったけど、もしかしたら、あるいは、と。





 本当に目覚めていたとしたら、夜、暗闇に包まれたときにひどい恐怖におびえることになるかもしれない。


 気付いた時には城を飛び出して、馬を走らせていた。



 





 ***




「だって、怖かったんだもん! 次々と知らない人が来て当たり前にくちづけしていくんだよ? 怖いよ! 正直気持ち悪かったよ! どんな神経で初対面の女の唇を奪っていくのか考えたら恐怖でしかなかったよ!」




 姫はそう叫んで、子供のように声を上げて泣いてしまった。姫の細い指が僕の袖を力なく掴み、顔は胸に埋めている。



 


 さっきまでお腹をきゅるきゅる鳴らしていた姫が、今は僕の胸でわんわん泣いている。


 愛しいと感じた。その気持ちのまま、姫の頭をぽんぽんと撫でる。


 姫は泣きはらした瞳で、微かに目を細めた。





 馬を走らせながら彼女に問いかけた。



「逃げようとは思わなかったの?」


 姫は振り返り、きょとんとした丸い瞳で僕を見つめた。そしてハッとしたように目を見開いた。


「その手があったか……。思いつかなかったよ。目を開けたら連れ去られるんじゃないかと思ったから、寝たふりしてやり過ごさないとって。……そっか。逃げればよかったんだ。そしたら、あんなに代わる代わるくちづけされずに済んだんだよね……」



 まぁ、一緒に、じゃないと閉じ込められることになるから、目を開けた方が危険だったとも言えるかもしれないけど……。



 正面に向き直った姫が、後ろから見てもしゅんと項垂れているのが分かった。



 後ろから姫の髪を撫でると、姫が振り返って、ヒヒッと無邪気に笑う。


「過ぎたことは仕方ないか。王子様? 王子様は優しい人よね?」

「……それは……どうかな?」


 姫を初めてみたときの、己の葛藤を思い出して後ろめたく思う。とてもじゃないけど「うん」とは返事できない。



「王子様?」



 柔らかな声で、不安そうに、上目遣いで見つめてくる姫に、僕は言葉を絞り出す。



「……そう、ありたいと思うよ」

「ふふっ」



 嬉しそうに姫が笑う。僕も努めて優しい笑顔を浮かべる。



 僕の胸には姫の背中の気配。その気配が形を帯びて姫の寝息が近くなった。




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