縋って泣いて
背中を嫌な汗が流れる。頭が熱を持ち、心臓がドクドクと脈を打ち、ハラハラとした焦りとも恐怖ともつかない感情に支配されそうになる。
「フローラ? どうした? 何か困っていることがあるのではないか?」
ウィリアムの声はとても優しくて、本当に心配で私に心を寄せてくれているのだと分かる。何かを疑っているような表情ではないことに少し冷静になれた。私は努めて穏やかに笑う。
「こんなに良くしていただいているのに、困っていることなどありませんわ。……あ。ふふ。強いて言えば、料理を教えて、完成品に喜びを分かち合っただけの料理人が処刑されようとしていたことでしょうか」
私はいたずらっぽくウィリアムに笑いかける。ウィリアムはバツの悪そうな顔になる。私はこの世界のことがよく分からないけど、王族に仇成す存在への措置としても、私とジムとの関係性で考えると処刑は過分な処置だと思う。絶対、ウィリアムの嫉妬心がはいっていたと思う。
ウィリアムがすっと表情を整えた。
「フローラ。茶化さないでくれないか。本当に心配して言ってるんだ。其方には普通では起こりえない、いや、魔女の力を持ってすれば可能であったのかもしれないが、今は昔のこと。現代の魔女に千年も人を仮死状態にする力はない」
「そうなんですの?」
それは知らなかった。魔女ならなんでもできる世界なのかと思ってた。
「普通では起こりえないことかもしれませんが、わたくしにとっては起こってしまったことです。ですが、お披露目パーティでもお話ししましたように、それはもうよいのです。終わったことです。……なぜ、自分が本当は起きていたのではないかと思ったのは、二週間も寝ていたのに、食べることも飲むこともしなかったと聞いたからです。生物としておかしいでしょう?」
これは本当だ。普通におかしい。
「ですから、本当は起きていて、食事もしっかりと摂っていたのではないかと思ったのです。ただ、その間の記憶がわたくしになかっただけであれば、問えばキャロルはその間のことを答えてくれるでしょう?」
そこまで言って私はキャロルを見る。ウィリアムにチクって後ろめたいのか複雑な表情で頷いた。喜怒哀楽が読めない。
「ですが、わたくしについては寝ていたと話すのみですので、もしかして余程わたくしの耳に入れることが憚れる奇行をわたくしがしていたのではないかと心配になったのです」
ウィリアムが悲しそうに目を伏せて唇を噛んだあと、しっかりと私を見据えた。
「キャロルには僕の方から話すと言ってあったので、フローラは不信に思ったのかもしれないね。其方は、ただ眠っていたわけではないんだ」
「どういうことですか?」
「仮死状態だったんだ」
え? この体にシャーロットが入っているだろう間は、この体は仮死状態になるの? なんで? 自分の魂なのに出禁?
「だから、食事をしなくても生きながらえることができたんだ。今回だけではなく、其方が城に来てからの三回の長い眠りは全て仮死状態だ」
「なぜ、教えてくださらなかったのですか?」
ウィリアムは悲痛に顔を歪める。キャロルは瞳に涙が溜まっているのが分かる。
うん? どうした?
「フローラは千年の眠りの間に家族も、仲良くしていた使用人も失ってしまっただろう? 今回も仮死状態になっていると知ったら、思い出して辛くなるのではないかと伏せておいたんだ」
実際に私の体におきたことじゃないから、そんなに実感なかったし、「そんなことがあったんだー」って、ドキュメンタリー番組を見ているくらいの感覚だった。だけど、確かに酷い仕打ちだと思う。
それも眠らせられていた反面、意識だけはそのままにして。身内が亡くなっていくのをメイドから聞かされても何も答えることができない。悲しみの共有もできず、ただ自分の中だけに募らせるだけ。いづれ誰も来なくなって一人取り残されるだろうことを感じながら。
シャーロットの孤独の千年を考える。
シャーロットがあの神殿で眠りについている側にシャーロットによく似た女性が、恰幅のいい優しそうな眼差しの男性が、茶色の髪に茶色の瞳のキリッとした女性と一緒の同じ色を持つ小さい子供が面会に来ている姿が頭の中を駆け巡る。
同時に、そのときのシャーロットの気持ちも流れてきた。嬉しそうに話を聞いて、声にならない返事をして、共有できない思いに悲しみ、また来てくれることを願い、誰も来なくなった日のことを想像して絶望する。
……そして、誰も来なくなって静かにシャーロットは壊れていったんだ。
この体の、シャーロットの体の記憶だと、なんとなく分かった。
「フローラ? やはり、何か思い悩んでいることが? あぁ、それとも、思い出せてしまっただろうか」
ウィリアムの焦ったように気遣う声に私は首を傾げた。
「いえ、お気になさらず」
正面に座っていたウィリアムがツカツカと足早に私の元に来て、そっと抱きしめた。
なんで? なんでここでハグ?
「気にせずになどいられるものか! 其方はこんなにも振えて泣いているではないか」
……え?
言われて初めて気付く頬を流れる涙。ぐずる鼻。シャーロットの体の記憶が、私の記憶のように私の頭に馴染んでいく。まるで私が体験したかのように。
この記憶が私のものじゃないことを私は知っている。だけど、頭で分かっていても心が追いつかない。気持ちが体の記憶に引っ張られて、涙をとめることができない。
気付けば私はウィリアムに縋り付くように腕につかまり、自然と涙が涸れるまで泣き続けた。
そして、そのまま眠ってしまったらしい。
おそらく深夜だろう時間に目覚めた私は、泣き続けたあとの怠さにむくりと起き上がり、ベッドサイドテーブルの上の水差しからグラスに水を注いだ。
グラスの水を一気に飲み干してふぅと一息つく。
お兄ちゃんの話を聞いてもどこか他人事だったし、正直、私の体乗っ取られ体験が怖すぎてシャーロットの身になる心の余裕などなかった。思いを馳せたとはいえ、強制的にシャーロットの記憶が流れ込んできて、小夜の人生ではこれまで感じたことのない。それどころか百年生きても感じることはないだろう体験に言葉なんか出なかった、あんな体験の感想にあてはまる言葉を私は知らない。
……たぶんシャーロットはこの体を拒否しているんじゃないかな。きっと怖いんだと思う。それは理屈じゃなくて。それこそ、魂と体が離れてしまうほどの壮絶な感情が生んだ一つの希望なんじゃないかな。
そうじゃないと、私の体に私の魂が入っても起きられるのに、シャーロットの体がシャーロットの魂に入ると仮死状態になる説明がつかない。いや、現代日本ではとうてい想像がつかないことが既におきまくっているけど。
天蓋に陰が映りキャロルが来たのが分かった。
「……フローラ姫様。お目覚めですか……?」
「えぇ。ちょうど今。よく分かったわね」
「……はい」
「ちょうど良かった。わたくし伺いたいことがあったの。ジムはどうなったのかしら? 牢から出られた?」
「はい、恙なく」
「良かった。今日はふかふかベッドで眠ることができるわね」
「えぇ。ジムがフローラ姫様に大層感謝しておりました。明日は感謝の気持ちを込めてエッグベネディクトを作ると申しておりました」
「まぁ、嬉しい」
卵料理の話に思わず手を叩いて喜ぶ。
「フローラ姫様は本当にエッグベネディクトがお好きなのですね」
「正確には卵料理が好きなの。少し趣が違うけど、こちらの卵料理も大好きよ」
「左様にございますか。ジムに伝えておきましょう。きっと各地の卵料理のレシピを集めてくるに違いありません」
「それは幸せね」
ふふふと和やかに笑い合い、私はもう一つの懸念の確認をする。
「わたくし、ウィリアムにしがみついて泣いていたところで記憶が終わっているのだけど、もしかして、そのまま寝てしまったのかしら?」
「はい。『泣くことで少しでも心が慰められれば』とウィリアム殿下が」
「そう。慰めれば泣き続けて最終的にはそのまま腕の中で眠られるなんてウィリアムにとっては迷惑だったでしょうに。そのように言っていただけるなんてありがたいことね」
「……フローラ姫様は、ウィリアム殿下のお気持ちに応えられるおつもりはないのでしょうか?」
私が、ウィリアムの気持ちを無視した発言をしたことが気になったのは分かるけど、直球すぎやしませんかね? 逃げるけどね。
「……応えるも何も、何か言われている訳でもないのに何を応えると言うのです? 告白もされていない相手に『私もです』『私はそのようなつもりはありません』と? そのような自信過剰な言動をわたくしにさせたいのですか?」
「……そのようなつもりは……」
「先ほども……そういえば、キャロルは席を外していたわね。ウィリアムにジムに懸想しているのではないかと聞かれお答えしたのです。これまでもそういった経験がないので今後のことは分かりませんが、今は懸想しておりませんと。それはウィリアムが相手でも同じことです」
「そう……ですか……。フローラ姫様が頼れる方が一人でもいれば、随分とお心が慰められるかと思ったのですが……」
「心配ありがとう」
キャロルに微笑みかけ私は「でも」と付け加える。逆光でキャロルの表情は分からない。だけど、嘆息していることは分かった。
「わたくし、正直なところそれどころではないの。この世……時代になれるのに精一杯で。心に余裕ができたら自然と気持ちも恋愛方面に向くのではないかしら」
……惚れた腫れたの前に、日本に帰りたいしね。
「キャロル、わたくしのことを心配して起きていたのではないの? わたくしももう少し寝るから、あなたも少し休んでちょうだい」
「……ありがとうございます」
キャロルが一礼して天蓋から出て行き、部屋の扉が閉まる音を確認した。
これで寝てくれたらいい。
思えば、私のような訳の分からない者のメイドなんて気苦労が多いに決まってる。一度寝たら次いつ起きるか分からないうえ、仮死状態になるのだから。自分の主が知らないうちに死んでいたなんてことになっていては取り返しがつかない。私だったら、何度も息をしているか確認しそう。真面目なキャロルのことだ。きっと、寝る間を惜しんで私の眠りが睡眠か仮死状態かを確認しているに違いない。
……本当申し訳ない。
翌日は、キャロルが言っていたとおり、朝食はエッグベネディクトだった。
「ジムを呼んでくれる? ちゃんと顔を見て安心したいの」
「承知しました」
元気そうなジムが入ってきて、うれしそうな笑顔で「フローラ姫様に一生ついていきます」といってくれた。ありがとうと笑顔でうなずいていたけど、本当にいいのか? 私なら嫌だよ? 死の淵から助けたのも私かもしれないけど、死の淵に追いやったのも私だからね?
そう思いながらもにこやかにごはんのお礼を言う。ジムが去って、しばらくあと。やっぱりというか。
「フローラ。調子はどうだ?」
……ウィリアムが来た。




