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虚空の街  作者: 数ビット
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08

 海に出かけてから2ヶ月が経った。

 僕は遠くに出かける事をやめ、安アパートに引き篭りがちになった。


 ありがたい事に安アパートの水道は問題なく使う事が出来た。水道局からの請求書も来ないようだ。

 しかし電気もガスも使えないのでシャワーは冷たかった。日当たりの悪い安アパートだが夏は蒸し風呂のようになるのでつめたいシャワーで十分だったが、夏から秋に季節が変わると水風呂では厳しくなってきた。


 実際に水風呂で風邪をひいた時は最悪だった。この奇妙な日々の心労も案外大きかったようで、2日ほど熱を出して寝込んでしまった。咳も出て鼻水も出て、ただただ苦しさに耐えるだけの時間が2日以上続いた。コンビニからティッシュを持ち出してこなかったので手近にあったタオルで鼻水と汗と涙を拭った。脂汗を流して咳き込み、しかし台所まで水を飲みに行く事も出来なかった。布団の中で悶え苦しみ、僕はこのまま死ぬのではないかと何度も思った。以前は僕など死んでも誰も悲しまない気軽な人生だ等と考えていたが、実際に誰もいない世界で死にかければ嫌と考えてしまう。僕は身勝手な人間なのだと思い知らされた。


 また風邪をひいている最中には幾度も夢を見た。他愛も無い昔の夢だ。高熱でうなされていたからか夢の中は暖かかった。厳格だが酒飲みの父と真面目だがヒステリックな母が、まだ酒で身体を壊さずヒステリーも控え目だった頃の姿だった。僕はいまと同じ40半ば過ぎの中年だったが両親は僕を幼い子供として扱った。昭和の雰囲気が残る実家で特に何をするでもなく平穏な時間が過ぎた。夢の中で僕は(安アパートでの時間と何が違うのだろう)と考え続けた。安直な答はいくつか思いついたが、本当の正解とは違うような気がした。風邪は4日目には何事も無く治っていた。


 食料は周辺のコンビニから、米や缶詰めを持ち帰って食べた。殆どの缶詰めは缶切りの入らないものだったのでとても手軽だった。魚の煮付だけでなく蒲焼や豚の角煮などもあって、もっと早くに持ち帰っていればと思った。街から人がいなくなった当初はレトルト食品ばかりで済ませていたが、冷凍せずとも保存できる食品は案外多かった。


 缶詰めの肉を食べると、もっと肉を食べたいと思ってしまった。電気が失われ冷凍保存の出来なくなっている現状で肉を手に入れるには、豚や牛を自分で解体して精肉にするしかないように思えた。


 ……しかし、あまり考えたくなかった事だが、もうひとつの可能性があった。


 自転車で海まで出かけた時に雑木林が落葉している事に気付いた。つまり木々は青々とした葉をつけていても枯れていたのだ。それは海近くの雑木林だけでなく、街の街路樹なども同様だった。

 そしてコンビニなどでも精肉は取り扱われている。僕は幾度もコンビニから勝手に商品を持ち出しているが、生鮮食品の腐敗臭を感じた事は一度も無かった。野菜なども乾燥してはいたが枯れたり腐ったりはしていなかった。湿度の高い夏だったのにドライフラワーのように干上がっているだけだった。


 そして僕は街から人がいなくなった頃から一度も「動物を見ていなかった」。

 空を飛ぶカラスの姿も、早朝のスズメの鳴き声も無く、不法侵入した家や路上でも犬や猫の姿を見ていない。人と同様に死骸も見かけていない。


 かつての忌まわしい災害の時でさえニュース映像では非難区域となった街には取り残されたペットや酪農の動物の姿があった。しかし僕は約3ヶ月ほどの間どの動物の姿も見ていないのだ。


 人だけでなく動物も姿を消し、生鮮食品は腐らず、木々も枯れている。

 つまり、僕のほかに生きているものがいないのだ。

 動物や植物だけでなくカビや細菌に到るまで、生命体が街からいなくなっていたのだ。


 では僕はどうして風邪をひいたのかと考えた。風邪も雑菌での事であろうし、僕の身体の中には常駐菌も多々いる筈だ。

 可能性としては僕の身体にいたウィルスによって風邪をひいたか、ウィルスとは関係ない体調不良だったかとなる。風邪の他には僕の身体は以前より健康的で、大腸菌が足りていないとか白血球が仕事をしていないという感じは無かった。つまり僕の体内の常駐菌や細胞は問題なく生きているが、他の生命体は尽く姿を消してしまったと考えられる。

 もちろん僕が考えただけの可能性で、どこかの研究所で精密に検査をすれば別の答があるのかもしれないが、僕の他に誰もいないのでは知りようが無い。


 僕はコンビニで3ヶ月も前から眺め続けていた豚肉を持ち帰って食べてみる事にした。乾いていたが柔らかく、本当に食べられるのか疑問に思える物体だったが、油で焼くと肉の匂いが立ち上がった。干からびた野菜を切り刻んで肉と一緒に煮込んでカレーにした。

 結論を言えばカレーは美味しかったし、腹を壊す事も無かった。これは僕の食糧事情が格段に改善した事を意味し、そして細菌さえいなくなったという恐ろしい可能性を強固なものにした。


 僕は世界に一人しかいなくなった映画があったかを思い出そうとした。「アイアムレジェンド」はどうだっただろうか? 人類最後の一人などという映画は多そうに思えるが、役者が一人で2時間もスクリーンに映し出されるのでは間が持たないようにも思える。「ゼロ・グラビティ」でさえ2人は役者が演じている。


 ともあれ僕は2ヶ月ほど安アパートの周辺だけで生活していた。

 問題となるのはゴミで、誰も処分してくれないので溜まる一方だ。ゴミステーションには僕が出した袋ばかり詰みあがり、分別する意味も薄かった。街には自動車の排気ガスの臭いも消えていたので、ゴミステーションの周囲は僕が出したゴミの匂いしかしないという状態だった。カセットガスの空き缶も相当な量になっていた。


 考えようによっては僕は世界中のものを手に入れたとも言える。僕以外の所有者が誰もいなくなったからだ。

 お金、高級な家電、ゲーム機やPC、街のあちこちにある自動車、住宅、ビルや施設さえ僕が自由に出来る。映画を観る為に映画館やレンタルビデオ店に不法侵入する事も出来る……電気がないので映画を観るのは相当大変だが。


 屋根にソーラーパネルをつけている一戸建て住宅は電気が使えそうだが、災害時用に配電システムを切り替えなければならない筈で、僕はその操作を知らなかった。そもそも他者が悪戯できないよう操作パネルが開かないようになっている。誰もいないのだから操作パネルの蓋を壊しても構わないとも思ったが、「物を壊す」という事に大きな抵抗を感じたので出来なかった。

 物を壊しても、誰もいなくなった世界では壊れたものを直せる人がいないのだ。


 僕は缶詰めの蓋を開けながら「この缶詰めも誰かが作ったものなんだな」と思った。3ヶ月前の僕なら絶対にそんな事は思わなかっただろう。節約生活で安アパートに引き篭もっていた僕が他人の労働で生かされていた事など気付く筈もないし、いまも他人の労働に感謝の気持ちは湧いていないが、缶詰めさえ新しいものが作られていないのだろうと思うとソーラーパネルの操作パネルの蓋さえ壊したくない気分になってしまう。


 そしてこの2ヶ月の間も、何度も「歪んだ丸い影」を見た。

 その影は確実に普通の影ではなかった。何かの物体が光を遮った事で生じている影ではなく、大抵の場合は他の影と重なって出現している事が多いが、稀に何もない日向の地面に水溜りのように張り付いている事もあった。太陽の動きとは無関係にゆっくりと動き、時々はアメーバーが微生物を捕食するかのように素早く動いた。

 歪んだ黒い影は音も無く気配もないので、意識して探して時々見かけるといった程度だった。もしかすれば僕が気付かないところで頻繁に遭遇しているのかもしれない。


 断定しようがない事だが、僕はこの歪んだ黒い影は常識とは違った異質な何かだと確信していた。

 音や光や振動などには全く反応せず、意思があるようにも見えないが、稀に素早く動いた時には映画のフィルムが途切れたかのように瞬間移動した。まるで物理法則や時間の流れさえ無関係のような歪んだ黒い影は、何かを探しているかのように僕の行く先々に現れては姿を消した。


 歪んだ黒い影は、誰もいなくなった街の中で僕以外に動く唯一のものだった。

 もしかすれば街から人がいなくなる以前から存在していたのかもしれないが、それを確かめる方法は無い。まるで幽霊のようだが影としてはっきり(または少しぼやけて)見え、しかし何処にあっても気付かないようなただの影にしか見えないのだ。

 なのでこの歪んだ黒い影が街から人がいなくなった事と関係があると思った。


 なによりこの歪んだ丸い影に感じる闇の恐怖。

 僕がこの影に取り込まれたら一体どうなってしまうのかと考えると心底恐ろしかった。高いビルから地面を見下ろした時に感じる理性では抑え込めない本能的な恐怖に似たものを、歪んだ丸い影から感じるのだ。


 もし僕の済む安アパートの部屋の中に現れたらと思うと恐怖で眠れないほどだった。もし影が僕を探しているとすれば追い詰められるのは遠くないようにさえ思えた。

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