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呆れた事に、僕はその大異変にしばらく気付かなかった。
大異変に気付かなかったのは、僕が非常に落ちぶれた人間だからだ。
僕が落ちぶれた人間である事を誰かに責任転嫁するならば、90年代の大不況が一番の原因であり、その頃に正しい事を教えてくれる人間がいなかった所為だ。僕は世間の情報に何度も騙され、何度も就職に失敗を繰り返し、年齢を重ねる毎に生活はどんどん貧しくなっていった。不景気が収まり求人倍率が回復したとニュースが報じても、それは新社会人に用意された椅子の数であり、就職に失敗した人間に譲られる椅子ではなかった。
当時まだ若かった僕は努力すればいつか報われると思い込み、幾つかの職場で過酷な労働を低賃金で担い、そして使い捨てられた。そういった事を何度も繰り返しているうちに僕の人格は何度も歪んで迷走し、すっかり疲れ果ててしまった。
そういった事で僕は人生のうちの若さがある時期を使い果たしてしまった。気付くと同世代の知人は次々と成功し結婚し、マイホームを建てたり子育てに専念したりと、僕とは違う人種になっていった。歳を取るほど成功とか結婚とかという事と縁遠くなっていく事に気付いたのは40代になる頃で、僕は人生設計と言う事を一度も真面目に考えてこなかった事に気付いて後悔した。努力すれば報われるのではなく、報われる為の目標に向かって努力しなければ結果が得られる筈など無かったのだ。中年になってから自分の幼稚さに気付く事ほど恥ずかしい話はない。僕は人目を避けて生活するようになった。
それから数年後に両親が亡くなった。先に母が亡くなり、その一周忌が済んだ後に父も亡くなった。
縁遠かった実家は手放す事となり、片田舎の僅かな土地を売った事で諸々の諸費用を差し引いた幾許かの遺産金を手にした。生前贈与などをしていればより多くの遺産を得られたのだろうが、就職の失敗を繰り返し将来も無い中年となった僕は実家に顔向けできなかったので遺産の話など出来る筈が無かった。
手にした遺産は数百万円で、僕の落ちぶれた人生を立て直せる程の金額ではなかったが、節約すれば2~3年は生活できる金額でもあった。
すっかり疲弊した僕はそれまでの低賃金の仕事を辞めて安いアパートに引っ越し、歪んだ僕自身の何かが回復する事を願いながら、息を潜めて生活した。
節約しての生活でも、コーヒーはレギュラーを飲んだ。
毎朝コーヒーメーカーに細引きの豆をセットし、ドリップし終えるのを待った。安アパートにコーヒー豆の香りが満ちる。1日に5本と決めている煙草の最初の1本に火をつけ、日当たりの悪い部屋の窓の外を眺める。安アパートの一室でもBGMにジャズでも流せば小さな喫茶店の雰囲気に近くなるだろう。
しかし僕はBGMもラジオもテレビも見聞きしない生活となった。ラジオやテレビは落ちぶれていない人達の為のもので、また若者や流行を気にする者の為のものだからだ。ニュースや天気予報さえ僕には関係の無いものだと気付いた時ラジオもテレビも処分した。
BGMも、ささやかな枚数のCDを繰り返し聴いていれば飽きるし、名盤であっても耳に焼き付いているので、わざわざ聴く為に手間をかける気力が湧かなかった。
時々響く騒々しい他の住人の足音や、近くの道路を走る救急車の音や、遠くから響く暴走族らしき騒音が、僕が暮らす安アパートでの日々のBGMとなった。それでもテレビで目立つ為に大袈裟に騒ぎ立てる芸人やタレントの声よりはマシだった。
貯金頼りの節約生活も慣れるまではいささか楽しいものだった。近所のスーパーの安売りを調べ、インスタントばかりではなく質素な自炊を増やし、家計簿の数字と通帳の残高で節約の成果を確認した。数ヵ月後には国産食材しか買わずに月の食費を1万円以下に抑えられるようになった。もちろん国産品の無いコーヒー豆などは例外だが。
慣れてくると次第に節約の楽しさは頭打ちとなっていった。度を越した節約は生活のレベルを下げる事でもあり、生活のレベルを下げればこの生活の本来の目的である「疲れ歪んだ自分自身の何かを回復する」という事から遠のくような気がした。
朝にコーヒーを飲み、テレビもラジオも見聞きせず、3度の自炊をする他には、ただ遊び呆けたり寝るばかりの日々だったわけではない。資産家でもないのに貯金だけでの生活を送る事は緩やかな自殺と同じで、何かが良くなる事もないし、不安ばかりが日々強まっていくばかりなので、せめて貯金残高の減り具合を抑える程度でもとネットでの副業を探し続けた。資格も無く専門の技術も持たない僕が貯金残高を守るには丁度良いように思えたからだ。しかし現実は甘くは無く、雇用者が労働者を安く仕入れたいという目論みが正当化された世界では副業に1日24時間の時間を割いても小銭しか稼げないのだ。
安アパートで節約しながらの迷走し続ける生活を1年ほど続けた頃には「疲れ歪んだ自分自身の何かを回復する」という本来の目的さえ見失っていた。
ただ職を失った中年が日当たりの悪い安アパートに引き篭もっているだけだった。
預貯金で生活しているので、節約生活とは言えども優雅な暮らしである事が僕を混乱させた。朝に時間に追われるストレスも無く、夜に残業する疲れも無い。時間を気にせずドリップコーヒーを飲み、静かな部屋でネット副業を探し、自炊の料理を作る。買い溜めた食材が揃っている時には昼食のパスタの見栄えも優雅なものになる。
そのような日々の生活は傍目には成功者の暮らしに見えるかもしれないが、実情は人生に失敗し追い込まれた中年の末路でしかなかった。何かの勉強をしたり資格を取れば再起の道筋もあるのかもしれないが、それに取り組む余裕が無かった。生活費を安く抑える為の自炊には時間がかかり、貯金を崩して自己投資しても元が取れる見込みは薄い。
そうして自分は落ちぶれた人間だという事から目を背けられなくなっていった。
若い頃であれば「それは自分を卑下しすぎだ」と反発の気持ちも湧きあがっただろう。しかし既に40代の半ばを過ぎ中年になった僕にはただの現実でしかなかった。
しばらくはこの状況から脱却する方法を考え続けたが、とっくに取り返しのつかなくなった過去を反省するばかりとなり、次第に考える事も嫌になっていった。反省は次に生かせればこそ役立つものであり、次など無い身にとってはただの後悔でしかないのだ。
脳裏に映画「スキャナー・ダークリー」が浮かぶ。頭を掻き毟れば虫が出てきそうな陰鬱な気分だった。
安アパートでの生活も2年を越えた頃には僕の中の歪みは歪んだまま定着し、どうすれば良いのかもわからないままコーヒーを飲み、1日5本の煙草を嗜み、食べて寝るだけの毎日となった。
特に精神を病むのが冬場で、日当たりの悪い安アパートの冷え込みは相当なものだった。風邪をひかぬよう暖房を使うと光熱費が驚くほど高くついた。入居者が業者を選べない事に付け込んでアパートの提携業者がガスや灯油の基本料金を高く設定しているからだ。それが商売というものなのだろうが、カモにされる側としては納得がいかない。
なので結局「風邪をひいたほうがマシ」という考えに行き着く。助力になってくれる友人もいなかったし、両親も亡くなっている。僕が風邪をひこうが命を落とそうが誰にも関係が無いのだ。自殺願望があるわけではないが生きる活力も無く、布団に包まって惰眠を貪って季節が暖かくなるのを待った。食欲もなくなったので食費が減り、浮いた食費が副業の僅かな稼ぎと大差無かった事で、馬鹿馬鹿しくなって副業を辞めた。
すっかり心が荒みきったまま、朝にはドリップコーヒーを飲んだ。
食材の買出しの他には外出する用事も無かったが、身だしなみは一応の体裁を取り繕った。すっかり落ちぶれているとはいえ一線を越えると戻れなくなる気がしたのだ。
貯金残高が尽きるまでの優雅な日々を過ごす生きた屍。僕はすっかり自分を見失っていた。
……なので、僕はその大異変にしばらく気付かなかったのだ。
梅雨の季節の曇り空の夕方、増税で値段が上がり続ける煙草をひとつ買う為に久しぶりに外出しコンビニに行ったが、店員がいなかった。誰もいないコンビニの中で10分ほど店員が来るのを待ち続けたが、結局誰も来ないので諦めて岐路に着いた。
帰り道でようやく誰の姿も見かけない事に気付いた。
夕方なので学生や犬の散歩をする人がいるのが普通だったし、高齢者の姿はいつの時間でもどこかで目にする。そういえば車も見かけない。閑静と言うには静か過ぎるようにさえ思えた。
それから2日ほど経って食材の買い出しに出かけた時に、僕はようやく「街から誰もいなくなっていた事」に気付いたのだ。