アイドル球団
帰り道、雄吾はいつもの場所で栗田と別れたが、もう少しぐずぐずしたかった。
通ったことのない道をぶらぶら歩いていると、左の前腕の内側がぴくと震える感じがした。
雄吾はそこに通信端末と連動したナノチップを埋め込んでいる(宗教上の問題がない場合ほとんどの人がそうする)。
端末眼鏡をかけて、その箇所を数秒見つめると、腕の中から電話の仮相アイコンが浮き上がってきた。朱里絵からだ。
「ハーイ、雄吾。テストはどうだった?」
「まぁまぁだったよ」
「そう、よかったじゃない! じゃあ……今日はうちでごはん食べるでしょ?」
雄吾は立ち止まった。
「最近みんなとごはん食べれてないじゃない? だから――」
「ごめん」
来た道を戻り、ファストフード店の前で足を止めた。
「今日はクラスの打ち上げがあってさ……焼肉、食べてくる」
「あら、そう。じゃあ」言葉を探している。「気をつけて帰ってくるのよ」
「わかった」
ごめん、ともう一度言いそうになる。
通話は切れた。
空中に浮いた仮相の時刻表示を見る。
普通の中学生のありきたりな打ち上げが終わる平均的な時刻は何時なのだろう?
見当もつかないけれど、とりあえず九時までは粘ろうと思い、店に入った。
今日のMLB全試合のボックス・スコア、バーガーセット、仮想球界の選手価値の値動き、トイレ、テスト範囲の復習、ウーロン茶、課題図書のムラカミ、トイレ、やれやれ、トイレ、トイレ、
瞑想……
陽がだいぶ傾いて、人の顔がぼやけるほど外は暗くなっている。しかし時計の針はまだ六時を過ぎたばかりだ。
空中に投影した仮相書籍に指で触れ、半時ぶりに新しい頁を繰ったが、文字がおたまじゃくしみたいにあちこち泳いでいってしまう。
疲れているみたいだと思い、ため息をついた。
そのとき、雄吾の耳に、別のおたまじゃくしが入り込んだ。
店の前の歩道に、キャップを被りユニホームの上着を羽織った男たちの姿が見える。応援タオルを掲げ、メガホンで音頭をとりながら、音程のあやしい合唱を響かせ行進している。
その一団の中には、きっとハーメルンの笛吹き男が紛れていた。そうでなければ、雄吾の足が勝手に店を出たことについて説明がつかない。
とにかくついていかなくちゃ。ぼんやりとした頭でそう思い、雄吾は彼らの背中を追いかけた。
男たちはしばらく直進し、古い給水素スタンドがある十字路を左に折れ、またしばらく道なりに歩いた。
「立ち上がりが不安だな」とか「今日はカンナちゃん投げるかな」とか話す声が聞こえた。人通りの少ないところではまた合唱がはじまった。
男たちはジーンズやチノパンをはき、やせたのも太ったのも筋肉質なのもいるが、年齢はよくわからない。話しぶりや笑い方だけを見るなら高校十年生といった感じだ。
小さい居酒屋や無人機宅配ステーションの前を通り過ぎ、やがて煌々と光を放つ大きな建物が見えてきた。
賑やかなマーチが耳に入り、歌詞が聞こえたと思った途端、それはさざ波のような歓声にかき消された。
じわじわと鳥肌が立つのを雄吾は感じている。
交差点に立ち、信号を待つそのときにはもう、目の前にそびえ立つものの正体がわかっていた。
ボールパーク。白球に魅せられた者たちの楽園。
煉瓦の壁に覆われた、古いとも新しいとも見えるその球場のファサードに目を奪われていると、信号が青に変わった。
男たちはさっさと横断歩道を渡って球場前の広場を突っ切り、レトロなネオン文字で【SUNNY GROUNDS】と出ている正面ゲートに向かった。
ゲートを抜けるとすぐ、二階部のコンコースへと続く階段があった。コンコース内は和洋ごった煮の売店が並んでいて賑やかだ。
しかしチケットのない雄吾はそこで立ち止まるしかない。
きょろきょろしていると警備員がじろっとにらんできた。けれど何も言ってはこない。
その辺に何人も手持ち無沙汰な若い男たちがうろうろしていて、雄吾の不審度は彼らよりぐっと低いとみなされたようだ。
【TICKETS】――その光文字が眼に入り、雄吾は吸い寄せられるように足を向けた。
三つの窓口のうち、ひとつしか開いていなかった。試合がはじまっているからだろうか。
「はい、こんばんは」
透明な仕切りの向こうで、おばちゃんと言っていい歳の女性スタッフがにこやかに笑みかけた。
「おひとりですか?」
「え? あ……」
「座席はどちらになさいます?」
「あのっ……これって、野球ですか」
「いえ」女性スタッフは、もう慣れっこといった苦笑を浮かべながら言った。「こちらはパールボールですよ」
「パール……」
端末眼鏡が反応し、仮相環境に貼られたARポスターを雄吾に見せた。
「九州シリーズ」と銘打たれたこのカード、ホームの北九州サンフラワーズがビジターの南九州フレックルズを迎え撃っているところらしい。
どっちも聞いたことないな、と思っていると、ぽつぽつと人がやってきて雄吾のうしろに列ができた。
「どうしますか?」
「あ、が、外野席ください」
すると女性スタッフは眉をひそめ、こそっと言った。「やめといたほうがええよ」
どういうことかと訊ねかけたとき、ワァ――――と尾を引くような歓声が上から降ってきた。
見上げると、球場光が夜空を薄めるほどに輝いている。
カクテル光線だ。父からそう教えてもらった記憶がよみがえった。
気づくと雄吾は、けっこうイイ値のする内野席のチケットを握り締め、一塁側ゲートに向かっていた。
チケット売り場から近いのでそこにしたのだが、スタンドまでは逆に遠まわりのようだった。
ゲートの先に、広場から地続きになった外縁の小道が見える。そこから内野スタンドに上らなければならない。
やきもきしながら係員にチケットと荷物を渡し、探知機の横を通り抜けた。
ビー!
「えぇっ?」
「ちょっとこっちお願いしまーす」
脇につれていかれ、探知手袋をはめた係員ふたりに胴体や手足を撫でられていると、またもスタンドの歓声が押し寄せてきた。
無数のオクターブが重なった声の波は、雄吾の気持ちだけをカクテルの海へとさらっていく。
やっと通してもらった。
ゲートの先の小道に出た雄吾を、夜風に揺れるたくさんのひまわりが出迎えた。
煉瓦造りのスタンド外壁の半ばまで土が盛られ、そうしてできた斜面が、この太陽の花で一面埋め尽くされているのだ。
ランプが照らす植え込みのそばを、試合そっちのけで散策している人もいて、小道の先のほうに屋台が出ている。
興味深い光景ではあった。しかし今、雄吾が求めているのはもう少しアクセントがあるものだ。
先を急ぐと、植え込みのあいだに、スタンドへと続く階段があった。
頂上に煌々と輝く入場口が見える。
階段を上りながら、雄吾は考えた。ここに辿り着くまでに何人の打者が倒れ、または何グラムのロージンが費やされたのだろう。ゲームはもう終わってしまったのではないか。
息を切らして階段を上り切り、雄吾はそこで立ち止まった。
ピッチャーが振りかぶる。足を上げ、踏み出す瞬間、飛び立つ大鷲のようにぐわっと四肢が広がり、スリークォーターの腕の振りから白球が放たれる。
一秒の半分もなく飛来するツーシーム・ファストボール。その軌道も位置すらもバッターは精確には見えていないが、何十万回と繰り返し鍛えたリズムとスイングで、白木の強部にボールを激突させる。
悲鳴を上げた白球が三遊間を襲う。もう少しで外野の芝に逃げられる、連盟公式球がそう縫い目をほころばせたところで、皮のグラブに抱きすくめられ、三塁手のランニングスローによって一塁へと送り届けられた。
ボールをまわす内野陣。ショートストップがサードベースマンを讃えるように二度送球を交換したあと、白球はピッチャーのもとに戻ってくる。
手元のボールに傷がついていないか確認するピッチャーの仕草はそっけない。スコアボードの赤いランプがひとつ増えたことにもまるで興味を示さない。
なにごともなかったかのようにピッチャーはまた振りかぶる。
投げる。打つ。守る。
永遠に続くかのような、この果てしないいとなみ。
自分でもわからないうち、笑顔になっていた雄吾は、ふと、グラウンドに出ている選手たちが全員女性だということに気づいて、ぎょっとした。
いや、あれは女性というより、少女だ。
体格を見れば、審判の男性よりずっと背の高い選手も中にはいる。しかし、顔つきや雰囲気は総じてあどけない。
少女たちは、ホットパンツにふとももの半ばまである分厚いソックスという出で立ちだ。そのユニホームの隙間からのぞく肌はナイター照明のもと、やけに白く浮かび上がっている。
それこそ、まさに真珠のように――
そうだ、正確には、この競技はパールボールというらしい。
けれど、この際どうでもいいという気持ちになった。
バットとボール、緑色の芝とココア色の土、インターフェアとストライク・コールさえあればいい。それがこの世界のすべてなのだ。
早く自分の席に行こうと歩き出した雄吾は、しかし突然の警笛に足を止めた。
局地ネットがアクセスしてきたことを知らせる表示が視界の右上に現れたかと思うと、冷静な声が端末眼鏡を通して聞こえた。「ファールボールが来ます」
前方の夜空に仮相のターゲットマークが現れ、それが向かってくるボールを示しているのだとわかったときには、もうほとんど猶予はなかった。
雄吾は悲鳴を上げ、横の壁に蝉のように張りついた。
「ゲットォォォオオ!」
すぐそこで誰かが破れかぶれのダイビングキャッチを試みた。しかしボールは一足早くその守備を突破し、雄吾のそばを通り過ぎて階段でコーンと跳ねた。
「おい!」別の男が雄吾の肩をつかんで振り向かせた。「きさん、ボールとったんか!」
雄吾は思いきり首を振った。
「どこちゃ!」
あっち、あっちと指を向ける。
男は一目散に階段を下りていった。そのうしろにまた何人かの男たちが続く。
「あきよん、あきよん!」と熱に浮かされたような奇声を上げるビジターチームのファンらしき男が、ホームチームのファンらしき男に怒鳴られている。「こん田舎モン! 一塁側に来るなちゃ!」
呆然とする雄吾の耳に、うううとうめき声が聞こえた。
さっきのダイビング男だ。膝に手をつき、つらそうに立ち上がっている。
「大丈夫ですか?」と雄吾は訊ねた。「うわ、血が出てますよ」
男は左肘に触れ、手についた血を見てなぜか誇らしそうに笑った。
「なあに、これくらい屁でもない」
「でも……」
「彼女を見ろ!」男は二塁ランナーを指差した。
「あんな華奢な身体で、石みたいなボールをぶつけられてもなお! へこたれず! 素っ晴らしいスッティールを決めたんだぞ! なのに俺がこれくらいの傷で負けてたまるか!」
たしかにそのランナーは線が細く、打者用防具以外の場所に死球を受けたのだとしたら、それはまぁ気の毒ではある。
とはいえ、あの選手が受けたヒットバイピッチと、この男の自損行為に、全体何の関係があるというのか。
「うおおおおお! 打て対馬! みゆちゃんの頑張りを無駄にするなあ!」
あああ、と叫んでいる男から雄吾はそっと離れていった。
場内の局地ネットが案内用の仮相アイコンを出してくれた。
矢印のうしろを歩きながらスコアボードを確かめる。試合は三回裏まで進んで1対0、後攻の北九州がビハインドを追いつこうと攻撃中だ。
打席に立っているのは七番バッターの対馬おつうという選手で、高めの釣り球にあっけなくひっかかってしまい、あぁ、と球場の三分の二をため息に包ませた。
熱心な観客たちはそれでもまた声を励まし、立ち上がって声援を送っている。その声量に圧倒され、雄吾は試合よりそちらに目が行った。
特に外野席がすごい。スタンドを黄色と緑に染めたファンたちが、引きも切らずに応援歌を歌い、大旗をうち振り、楽器をかき鳴らしている。
音の大渦の中を、雄吾は中腰になって進んだ。スタンド下部へと続く細い階段に差しかかったところで、快音が響いた。
おお、と大きなどよめきが聞こえて顔を上げると、ランナーが三塁をまわっている。
センターが良い球をキャッチャーに放ったが間に合わない。
同点。
「っしゃああああ!」
若い男たちが狂喜しながら身体をぶつけ合い、勢い余って雄吾にもぶつかってきた。
なんとかバランスをとって階段を転げ落ちずに済んだが、たたらを踏んで止まった先で、知らない人たちにかわるがわるハイタッチを求められた。
人波の隙間にちらり、点滅する矢印とその上の【HERE】の文字を見つけ、雄吾はそこへふらふらと歩いていった。
席にどさっと身体を放り落とした直後、バッターが打ち上げて北九州の攻撃が終わり、応援団が未練がましい退却曲を奏でた。