学校で一番の美少女
【今日も夕飯食べてくるから】
【そう……わかったわ。試験勉強がんばってね】
雄吾は仮相のチャット画面を見つめながら、培養肉のサンドを頬張った。
食事を終えて休憩室から出る。
窓の外は真っ暗で、昼からの雨は上がっていた。しかし自習室には昼間と変わらない光景があった。
どこの進学校でもそうなのだろうが、朝から晩まで勉強する生徒というのはいるものだ。それもひとりやふたりではなく、ひとクラス、ふたクラスの単位で。
雄吾もその中のひとりではあったが、ほかの生徒の心象とはずいぶん違ったものを胸に抱えていた。
ふとすると、まぶたの裏に今夜ありつかなかった夕食の様子が浮かんでくるのだ。
食卓にはキッシュやミートローフが並んでいるだろう。ヴィクトルの料理の腕前はシェフ顔負けだという。
マリーみたいに明るい女の子がいればテレビをつける必要もない。朱里絵がいるからちょっとうるさくなりすぎるかもしれないけれど――
ぱん、と両手で頬を叩く。
隣の席の生徒がじろっとにらんできた。
雄吾は仮相の問題集を開いて、自習室の風景と自分を同化させていった。
◇
長い雨期がはじまった。気象庁は日本全国一斉の梅雨入りを宣言し、一部地域では断続的に十月まで続くおそれがあるとの予報を出した。
ラグランジュ歴以降、世界的に広がる異常気象の影響だ。五月雨という日本語はそう遠くないうちに滅びてしまうかもしれない。
「おい」
窓の外を見ながら歩いていた雄吾を、栗田が肘で小突いた。
廊下の向こうから、女子生徒たちが固まって歩いてくる。
真ん中にひとり、泣きじゃくって呼吸をおかしくしている子がいた。
雄吾と栗田は無言で彼女たちを見送った。
「降格くらったのかな」と雄吾は小声で話した。
「違いない」と栗田は言って、ため息ながらに歩き出した。「あーあ、かわいい子がまた減りよる」
「新しく来るやつに期待しろよ」
「どうせ男やろ」
小倉一校のような国指定の特別校には、ほかの普通校との生徒入れ替え制度がある。
年三回行われる試験で下位五パーセントに入った者は、有無を言わさず転校となるわけだ。
友達に肩を抱えられていたあの子も、今日のうちにロッカーを片づけて、転入してくる生徒に席を明け渡さなければならない。
追い出される生徒の悲哀は、マイナー落ちする大リーガーに近いのではないかということで、雄吾を含めた野球好きたちは「昇格」「降格」という言葉を使っていた。
掲示板の前は混雑していて、雄吾は自分の席次が見えなかった。
背の高い栗田は問題ないようで、にやりと笑みを向けてきた。
「さすがぁ雄吾くん。総合九位ち、やるやん」
雄吾は嬉しさを顔に出したが、それはこころからのものではなかった。
それなりの達成感と、これからどうしようか、とほとんど途方に暮れる思いとが混ざり合っている。
試験が終わった以上、勉強のために学校に残るという言い訳はもう使えないだろう。
「おす」と杉野が声をかけてきた。「ふたりとも、降格じゃなくてよかったな」
「ええ、おかげさんで」と栗田は慇懃無礼な口調で言った。「杉野さんはトップ5入りですごいですねえ」
「一位じゃなきゃ何位でもいっしょだよ」と杉野は伏し目がちに言った。
「そう言っておまえ毎回特進入り断っとんのやろ? 腹立つー」
栗田は杉野に固め技をかけた。
「雄吾、特進の女連中とええ感じなったら紹介しぃよ」
雄吾はふっと息を洩らした。「もう、遅いよ」
そのとき、誰かが驚きの声を上げた。
周囲に騒然とした気配が広がる。
雄吾はつま先立ちして、なんとか掲示板を見やった。
席次の一番上に見慣れない名前がある。
「朝倉……?」
朝倉優姫。
五十番以下のランキング外だった前回から、一気にトップに躍り出たその名前を、雄吾は調べてみようと思った。
端末眼鏡をかけ、校内限定アプリを起動して生徒一覧から検索をかける。
現れた生徒手帳の顔写真を見て、雄吾は「え?」と声が出た。
「なん?」と栗田が振り向いた。
「いや、あの」雄吾はためらいつつ、掲示板を指さした。「朝倉ってやつ」
栗田は、ああとうなずいた。「ゆったんね」
「ゆったん、っておまえ仲良いのか」
「全然」
栗田はあっけらかんと首を振り、教室に戻る道すがら、こう説明した。
「朝倉は男子のあいだでしょっちゅう話題になるけ、もう愛称呼びが普通なんよ」
「杉野も知ってるのか?」と雄吾は訊いた。
顔を逸らした杉野を、栗田が突っついた。
「こいつは相当詳しいけね。朝倉が芸能事務所に出入りしよるとか、パールボールの大会でMVPとりよったとか、全部こいつ経由で情報が来よる」
「パールボールって……」
雄吾は思いがけない言葉の出現に驚いた。
「うちの学校に、そんな部活ないだろ?」
「そらぁ真球部はねぇっちゃ」
雄吾は顔をしかめた。「しんきゅう、って何」
「パールボールの日本語訳」
「どうしてそんなことも知らないんだよ」と杉野がたまりかねた様子で言った。「朝倉は博多のクラブチームにいるんだよ。そのチームが賞金の出る大きな大会で三位になったんだ。高校大学でプレーしてきたセミプロたちに混じって打ちまくったんだよ朝倉は! 県のニュースにもとりあげられたのに見てないの? 数年後にはプロ入り間違いなしって言われてるんだぜ」
「おまえら……」
雄吾は裏切りにあった気持ちでふたりの顔を見た。
「そんなに詳しいなら、なんで今まで教えてくれなかったんだよっ」
「なんでち、おまえが興味なさそうやったけ。なぁ?」
栗田にうなずき返してから、杉野はにやっとした。
「雄吾はむっつりだったんだな」
「違う」と雄吾は語気を強めた。「俺はただ、パールボールについて知りたいだけだし、いきなりトップになるような人間がどんなやつか知りたいだけだ」
「本当かぁ?」と杉野はますますにやついた。
「でも、変やね」栗田は首をひねった。「朝倉、そんな勉強できんやったはずやけど」
杉野もうなずいた。「成績のことで、先生からよく注意されてるらしい。学外でスポーツとかモデルとかやってるのが悪いんだ、って」
雄吾はあの日、朝倉優姫が校長室から出てきたときのことを思い出した。
朝倉が話しかけてきたのは、彼女の人気者としての自負がそうさせたのだと思っていたけれど、もしかしたら、ほかにもっと感傷的な理由があったのかもしれない。
いずれにせよ、話しかける相手は誰でもよかったのだろうし、あのときの感傷はすでに蒸散して六月の雨になってしまっただろう。
彼女は見事に周囲の鼻をあかしたのだ。
「やけ、テストで一位とって見返したん? かっこよすぎやろ」と栗田は言った。
「この学校で一位なんて、そう簡単にとれるもんじゃないよ」
お腹にいるときから家庭教師がついているという杉野は苦い顔をした。
「天才っち、ほんとにおるんやねぇ」と栗田は遠くを見て言った。
当の朝倉はといえば、学校に来ていなかった。