ふたりのバラクラバ
頭部全体を覆うキャッチャーマスクの下、カレイドの艶やかな長い睫毛がぴくりと動いた。
彼女の冷徹な視線は、打者の挙動をつぶさに観察している。
グリップを指二本ほど余して持ち、打席のうしろのほうに立ち位置を変えているサンフラワーズの二番、宮崎に対し、川田は初球からフォークを投じた。
高めに抜けたかと思われたボールが急降下、外いっぱいに決まる。
げ、とサンフラワーズナインの顔がたちまち曇った。
「あのフォーク、カウントだまにもなるのね……」とオンデックサークルで真中は苦い顔をした。
「それでも振ってかないと」と指宿は歌うように言う。「追いこまれる前に……」
だが、ことはそう簡単ではないようだ。
宮崎は速球に差し込まれてセカンドゴロ、続く真中はフォークに合わせたがショートへの危なげないハーフライナー。
速さも軌道もまるで違うふたつの球種に対し、当てるのが手いっぱいといった様子で、続けざまに二者が打ち取られた。
普段とはうってかわって引き締まった表情の川田は、四番打者を迎えてもまったく動じる気配がない。
左打席に立ったシェイラは眉間にしわを寄せ、ぐっと腰を入れて構えた。
強振。
押し出したような打球がセカンドの頭を越え、右中間にある芝桜のハートマーク付近ではねると、サンフラワーズベンチは一気に盛り上がった。
「ナイスバッチー!」
「あれ……?」
「おいおい」と玉井コーチはあわててヘッドセットを口に引き寄せた。「シェイラ! 戻れ!」
スパイク一体型の分厚いサイハイソックスにくるまれたシェイラの脚は、一塁をまわっても緩むことなく土を蹴った。
「――遅い!」
ですわ、とライトの対馬が強肩を発揮する。
滑り込み、祈るように見上げたシェイラの視線を、塁審は右拳で殴り返した。
「うそでしょ!?」
シェイラは立ち上がって抗議するが、スタンドは歓声と拍手に包まれ、チェリーズBナインは早々にダグアウトへ引き揚げていった。
「やめなさい」と三塁コーチャーの有町が飛んできてシェイラを連れ出した。「焦りすぎですよ」
「絶対セーフだし……」
悔しげに歯噛みしているシェイラをちらりと一瞥し、美波は緊張感を増した面持ちでピッチャーズボックスに向かった。
「零は立ち直りかけとる」と野口監督は仮相スコアブックを見ながらつぶやき、打席の準備をしているカレイドに振り向いた。「すいすい行かせたらいけんよ」
カレイドは静かにうなずき返した。
美波と花田のバッテリィはツーシームで打ち損じを誘ったが、カレイドはことごとくカットし、際どい球にはけっして手を出さず、フルカウントに持ち込んだ。
「――ボール、フォア!」
決めにいった八球目だった。美波は天を仰いだ。
続く三番、朝倉が打席に向かったとき、不意にスタンドから手拍子と合唱がはじまった。
「あーさくらっ」
「あーさくらっ」
それはみるみる内外バックネット裏に波及していく。
「あっさくら!」
「あっさくら!」
この大合唱が聞こえないのは呼ばれている当人だけのようだった。表情が動かない朝倉とは対照的に、異様な雰囲気にサンフラワーズナインは顔を強張らせ、美波に至っては金縛りにあったようにセットポジションのまま動かない。
とにかく投げろ、と花田が身ぶりで催促したが、美波はかぶりを振って右足をプレートからはずした。
【BREAK!】
という仮相通知が両ベンチの首脳陣とすべての観客の目の前に現れ、続けて
【PENALTY -3s】
という表示とともに、グレイスのカウントダウンが消えた。
いったん構えたセットポジションを解くことは、投球の仕切り直しを意味する。迷っている、あるいは動揺しているピッチャーがよくやってしまう動作だ。これにはルール上のペナルティもあり、グレイスが3秒削られてしまう。
逃げ腰なピッチャーに対し、観客の「朝倉」コールがブーイングと拍手に変わった。
「どうしたのっ?」
タイムをとって駆け寄った花田の呼びかけに、美波は眼を上げたが、その揺れる瞳は花田の肩越しに朝倉へと向けられ、しかしすぐに脇へと逸らされた。
「無理」とか細い声で美波は言った。「打たれる気しかしない……です」
朝倉は打席のそばでじっと待っていた。他を寄せつけないその端正な顔立ちが仮相モニタに映った途端、サンフラワーズ投手陣が一斉に息を呑んだだために、いきおい、ブルペンじゅうに静けさが漂った。
「ボクがやる」と久礼色李がグラブを叩いて言った。「左対左なら、まだ、分があるっちゃ」
花田の視線はベンチに向けられた。それに気づいた指宿がマスクの骨伝導イヤホンに指示を返す。
「敬遠も交代もなし、だって」と花田は伝言した。
一瞬にして蒼白になった美波は、力なく顔をうつむかせた。しかしその眼は反対に、開き直ったようにぎらぎらしはじめた。
「だったら……花田さん、代わって」
「え?」
「あたしだけクビなんて、いやだ」と美波はぶつぶつ、ひとりごとみたいに言った。「マリーもみちづれに……」
「よし、わかった」
花田はマスクをはずし、驚き固まっている美波の肩に手を置いた。
「私は美波を信じる。美波が信じている、あの子のこともね」
それからしばらく、ほとんどの観客はグラウンドで起こっていることに気づいていなかった。
「あれ? キャッチャーが下がってく」
「あの子はコーチ兼任やけ、ベンチで相談するっちゃろ」
「――サンフラワーズ、キャッチャーの交代をお知らせします」
ウグイス嬢の声が場内に響き、観客個々の仮相環境に、交代選手の顔写真とプロファイルが現れた。
「――花田に代わりまして、背番号42……マリー・ラヴァリエール」
大きなどよめきと局地的な歓声が上がった。雄吾の同級生たちはその両方の一端を担っていた。
「出てきたぁ!」
「っち雄吾おらんやん!」
「あいつトイレ行きよった」と栗田が言った。
「あぁほぉーっ!」とみんな口を揃えた。
「……美波は打たれるし、真中は打てないし」
トイレの個室に座り込んだ雄吾は、ため息をついて顔を覆った。
「もう見てられないよ……」
◇
ダグアウト裏に下がろうとした花田を、指宿がじろりと横目で見た。
「どこ痛めたんですか?」
花田はあははと笑った。「腰か膝か」
「その両方かも」と横に付き添った高梨トレーナーが、しかつめらしく言い接いだ。「無理はさせられません」
もういいと手ぶりで示してから、指宿はむすっとしてフィールドを見やった。
ピッチャーズボックスのそばで、バッテリィが向かい合っている。
マリーの眼はちらとスコアボードを見た。
グレイスのカウントが12秒から9秒に減っている。一度ペナルティを受けたこの持ち時間では、ランナーのリードを防ぐことは難しい、というのがパールボールのコモンセンスだ。
「ごめん」と美波はぼそぼそ言った。「マリーまでクビになっちゃうなんて……」
「何のこと?」とマリーは首をかしげた。
「でも、その」と美波は構わず、ちょっとはにかんだ様子で続けた。「ここを出たら、ずっといっしょにいられるんだよね……?」
「そんなわけないじゃない」
美波の眼から光が消え、奈落の底のようなどす黒い闇が噴き出した。
「ここからはじまるのよ、ミナミがエースになる道が」
そう言うマリーの眼は、わくわくを抑えきれないというようにきらきらと輝いていた。
「――プレイ!」
試合再開直後、いきなりチェリーズBのダグアウトは困惑にざわめいた。美波がプレートに両足を置いて立ち、ワインドアップの構えを見せたからだ。
「ランナーおるよ?」
「グレイスも削られよる」
実際、美波が足を上げたところでグレイスは切れた。
自由になった一塁走者のカレイドが、さっと注意深くリードをとる。
「――ストライー!」
初球の外角速球を朝倉が見逃したのは、手が出なかったのではなく、チームとして考える時間を持つためだ。
マリーの返球を受けた美波は、またもホームに正対してサインをのぞきこんだ。
「あほだな」とバックネット裏の観客たちは口元を隠してくすくす笑った。「ランナー、フリーパスじゃん」
美波がモーションに入り、足を上げている途中でグレイスが終わった。
その瞬間、カレイドが脇目も振らずに飛び出した。
デッドラインスタート――モーションではなくグレイス切れのタイミングを見て走り出す盗塁だ。
ようやく投じられたボールはぐぐっとブレーキがかかった。朝倉は手を出しかけたがタイミングを嫌って見送った。
「よし決まった!」と観客が声を上げ、ガッツポーズをしたのと同時、塁審も拳を握り込んでいた。
「――アウトォ!」
「んな!?」
わっ、と驚き叫ぶような客の声。
それとは対照的に、グラウンドレベルの人々は口をあんぐりと開けて絶句した。
「マリー、ナイス!」とボールを持った井上だけが興奮気味に声を上げている。
「何だ、あの送球は」と口々に言って、観客たちは顔を見合わせた。
場内に、返すさざ波のようなどよめきが広がる中、打席の朝倉はゆっくりと背後に振り返った。
「わざと走らせたの?」
「そんなことより」とマリーはマスクのズレをなおしながら言った。「あなた、ストライクの数を思い出したらどう?」
そこではじめて、戦場に立ったふたりの視線が交錯した。
「――ゲームはこれからよ」
◇
雄吾は走りながら、サングラスを端末眼鏡にとりかえた。通路口の先に、大いに沸き上がる観客席が見えていた。
【早よう来いちゃ!】と栗田のテキストメッセージが仮相環境に現れる。
「わかってるよ……!」
やっとフィールドが見えるところまで辿り着き、膝に手をついたそのとき、スタンドの歓声が爆発するように高まった。
顔を上げた雄吾の視界をシャッと白線が横切り、そのままライトポールの根元付近に吸い込まれていった。
「いったばぁぁぁぁぁあい!」
「三打席連発ゥー!」
雄吾にはまわりの声が信じられなかった。淡々とベースをまわる朝倉の姿はさっきとまるっきり同じで、ただのリプレイなのではないかと思われた。
しかしホームベースのうしろを見れば、さっきまでとは違う、黄色と深緑の防具で身を固めたマリーの姿があった。
「おう、雄吾」と栗田は言い、膝を引いて通り道をつくってくれた。「ちぃっと遅かったね。妹ちゃんが盗塁刺しよったんに」
雄吾が席にどさっと身を置くと、それまで小躍りして喜んでいた杉野が急に神妙な顔で振り向いた。
「悪い、雄吾。この試合は朝倉のものみたいだ……にひっ」
「――ストライク!」
端末眼鏡のスピーカーに、アンパイアのコールが観戦用の補助音声として流れた。
反射的に雄吾は、仮相環境に試合データを呼び出して見た。
内角の速球だ。
サンズのバッテリィはこの球を続け、四番の森田をあっという間に追い込んだ。
「朝倉に打たれたのと同じ球だ」と雄吾はつぶやいた。
三球目も同じ球。
「――ストライ、バッターアウ!」
腰を引いて見逃した森田が、がくっと首を垂れて打席を去った。
次の五番、藤井に対してもバッテリィはどんどんストライクを投げ込んでいく。カーブでタイミングをはずし、速球で押してファウルを稼ぐ。
「マリーは美波を試してるんだ」と雄吾は気づいた。「狙ったところに投げる、緩急、変化球の動かし方……」
最後はツーシーム。微妙に動いたこの球はピッチャーゴロになった。
美波は一瞬びっくりしたように手の中のボールを見つめ、それからあわてて一塁に投げた。
「あっという間……」
杉野が眼をぱちぱちさせている横で、雄吾は端末眼鏡をサングラスにとりかえた。
「おい」と同級生たちに言う。「おまえらもサンズ応援しろよ、地元だろ」
「えぇ?」
「ゴー! サンズ、ゴー! ほら」
「お、おれはやらないぜ」と杉野は腕組みして言った。
「いいよ、別に」
「んなっ!?」
チェリーズBの選手たちが守備に向かっていく。
センターの位置についた朝倉が、ふと顔を上げてスタンドを見やった。
「ゴー! サンズ、ゴー! ゴー! サンズ、ゴー!」
雄吾だけでなく、栗田もサッカー部の連中も声を張り上げている。
「…………」
朝倉は肩慣らしとは思えない強烈なスローイングを繰り出し、ボールを受けた対馬のグラブに甲高い悲鳴を上げさせた。
「――ウフフ」
余裕の笑みを浮かべた次の瞬間、対馬は芝の上にくずおれて悶絶した。




