攻防
細長く立ち昇るロージンバッグの白煙を背に、プレート上の川田はサインにうなずいて振りかぶった。
食らいついていた井上のバットがついに空を切る。
ボールがホームベース手前でスッと高度を下げたのが、貴賓室の仮相テレビ越しにもはっきりわかった。
「フォーク……!」と付き人は眼を瞠った。
「そう。川田にはこれがあるのだ」と中久保は満足げに言った。「パールボールではマウンドがないために、投球の角度がつかず、縦の変化は効きが弱いとされる。実際、使う投手も少ないが、それゆえ打者が慣れておらんのよ。モノにできればこれほど強力な武器はない」
川田には140キロの速球もある。次打者の沖山に対し、高めの釣りだまで空振りを奪った。
中久保は独白する。「これほどの逸材、普通なら海外のリーグに獲られてしまうものよ。それを私が引っ張ってきた! 独自の情報網を駆使してな……」
天神にある焼肉店【肉久保】。
中久保が妻と営むその店に、コンビが揃って面接にやってきたのがきっかけだった。
「なぜ部活を辞めて働こうと?」
仮相環境の共有スペースに提示された経歴書を見ながら、中久保が訪ねると、ふたりの返答はこうだった。
「あっこにおったら監督にこき使われるけん、仕方なく」
「プロになるまでは消耗したくないっちゃん、あ、ないんです」
高校三年生のシーズンは海外の個人コーチを雇い、重像通信でやりとりしながら鍛えてもらうと言う。その費用を捻出するためのバイトというわけだ。
「それなら」と中久保は手をこすり合わせて言ったものだ。「もっと良い働き口があるぞ」
そうしてドラフトで競合することなく、ふたりの有力投手を獲得する運びとなった。他球団の首脳やファンは非難するがそれも羨ましさの裏返し。まさしく会心の補強だった。
黒革の椅子の上で中久保は思い出し笑いを楽しんだ。
「ふふふふふふふふ」
「でも」と付き人が口を出した。「実際に動いたのはGMですよね? 学校や高体連と話をつけて揉め事にならないよう取り計らったそうじゃないですか」
途端、カッと朱に染まった中久保は、憤然と立ち上がって大声を出した。「それがフロントの仕事だ! やって当たり前ではないか!」
「地雷だった」と後悔の声をあげ、付き人は部屋の隅に逃げた。
窓の下から観客の拍手と歓声が聞こえてきた。川田がこのイニングをきっちり抑えたのだ。
「ぐふふ、その調子だ!」
血走った眼をらんらんと光らせ、中久保は三日月のような鋭い笑みを浮かべた。
◇
「ナイスピッチ」と天保コーチが戻ってきた川田に声をかけた。
「こんくらい、当たり前です」と川田は答えた。
「けど、ちょっと気になるところが――」
「試合中やけん、あとでレポートにしてください」
ダグアウト裏に消えていく川田を天保コーチは吐息をついて見送った。
ダグアウト裏から現れた美波はまっすぐフィールドに出て行った。伏し目がちではあるが、足取りはしっかりしている。
「美波、どう?」と待っていた花田が声をかけた。「いける?」
「あの」とためらいがちに言って、美波は口元をグラブで隠した。「あたし、花田さんのこと、嫌いじゃないから」
一瞬眼をぱちぱちさせたあとで、花田はふっと笑みをこぼした。
「遠慮するな。もっと自分を出していいんだからね」
美波は花田のサインにうなずき、3イニング目の投球に入った。
「――ストライク!」
「うし」とサンフラワーズベンチで玉井コーチはうなずいた。「もう癇癪起こすなよ」
チェリーズBの七番、大越は二球目を打って出た。三塁線をゴロが駆ける。
サードの宮崎が逆シングルでキャッチし、ライン外から踏ん張って一塁へ遠投。
ツーバウンドしたこの送球をしかし、ファーストの新富がこぼしてしまった。
「ご、ごめん……」
そう言って新富は返球したが、浮かない表情の美波はボールを受け取ってすぐ背を向けた。
「切り替えよう!」とサンフラワーズベンチから声が上がる。
「バントありますよ」と指宿が言った。
「もう指示してます」と有町コーチはタブレット端末から眼を上げて言った。
パールボールでは、投手以外の守備選手はオプティック・デバイスを着用し、ベンチから仮相環境に送られてくる「B2」や「S11」といったプレーコードに眼をこらす。
この場面では、一塁と三塁がやや前に出るバント警戒のコードが出た。
打席に入った八番、納屋は美波が足を上げた途端、バントの構えに切り替えて投前に転がした。
「一塁、一塁!」と花田は言ったが、ゴロを拾った美波は二塁に投げた。
「――セーフ!」
あぁ、と球場じゅうに吐息が洩れた。サンズを応援しているからではなく、凡ミスに対する落胆のため息だった。
「アウトひとつくらい獲れよ」と観客は口々に言った。
「よーしよしよしよし!」と中久保は貴賓室で吠えている。「そのままずるずるいけ!」
サンフラワーズのバッテリィと内野陣はダイヤモンドの中心に集まった。
「とにかく、アウト一個ずつね」と言いながら花田は全員の顔を見まわした。「それと、エラーしたからってシュンとしないこと」
「お、おっす!」
シェイラと新富は気合をいれなおして背筋を伸ばしたが、美波は手にしたボールを見下ろしたまま動かなかった。しかし野手が互いに声をかけて円陣を解いた直後、美波は不意に小さい声で花田を呼んだ。
「ちょっと……お願いがあります」
試合が再開してすぐ、美波はセットポジションに入った。
九番、国久は一瞬おや、という顔をしたが、美波がモーションに入ったのであわててバントの構えをとった。
「――ストライク!」
打者はバットを引いて速球を見逃したが、球審は右手を上げた。
チェリーズBの首脳陣も異変に気づいた。
「あの子、ノーサインで投げよるん?」と天保コーチが信じられないといった様子でつぶやいた。
口元を隠した野口監督が、ヘッドセットで打者と走者のヘルメットに通信をつないだ。
「国久、も――」
もう一回、と監督が言いかけたところで通信が切れた。美波が足を上げている。
ピッチャーがモーションに入ったあとでは、ベンチと攻撃選手たちとの連絡手段はなくなってしまう。
国久のバントは空振りした。大きなカーブに翻弄されたようだ。
花田からの返球を美波はピッチャーズボックスの中で受け取った。
スコアボードの十二秒のカウントがすぐにはじまる。
国久は打席をはずそうとしたが、美波が早やばやとセットに入ったのを見て、あわてて構えなおした。
「打て!」と野口監督は時間内になんとか言ったが、ぷつっと通信の切れる音に顔をしかめてつぶやいた。「グレイスのせいで打席もはずせん……」
グレイスが発動するのは、ピッチャーとバッターが各々のボックスに入ってからだ。一度ボックスに入ったバッターは、その打席が終わるまで常に片足をボックス内に置かなければならないため、実質的にグレイスはピッチャー主導ではじまる。
そのあとは、ピッチャーがボックスから出る、もしくはいったん踏んだプレートをはずす等すると、効果解除となる。それまでは、バッターはボックスの中で準備を整えておかなければならないし、もし構えていなくても、ピッチャーの正規の投球はすべて有効となる。
またしてもノーサインで投げた美波の速球に対し、国久はなんとかカットして逃げのびた。
「オッケー、オッケー!」と両方のベンチから声が飛ぶ。
「次はカーブたい」と野口監督はヘッドセットを通して言った。「ノーサインで複雑な配球はしきらんやろ」
「投げたい球を投げるのよ」と美波はこのイニングの守備がはじまる前、マリーからそうアドバイスを受けていた。「サイン交換の時間を省いて、落ち着く時間をつくるの。一球一球ていねいに。わかった?」
「でも」と美波は気乗りしないふうに応じたのだ。「花田さんが捕れないんじゃ……?」
「大丈夫よ!」と自信満々に言ったあとで、たぶん、とマリーは小声で付け足した。
プレート上で美波はごくんと唾を飲み下し、三塁方向を見ながらセットポジションに入った。かすかに震える目じりの横を汗が流れていく。
次は変化球、と考えていたのだろう、外角に寄って低く構えていた花田は、コンマ何秒で飛んできた速球にぎゃっと叫び、のけぞって倒れた。
「――ストライク、バッターアウト!」
打席の国久は手が出なかったが、花田はなんとかミットで受け止めていた。
「いいよ、いいよ!」
「ワンアウトー!」
客席からぱらぱらと拍手が起き、サンフラワーズベンチの声も少し大きくなった。
「へえ」と指宿はやや瞠目して言った。「零ったら、時計の駆け引きができるんだ」
「きっとGMの入れ知恵ったい」と苦々しげにつぶやいた野口監督は、打席に向かう対馬に通信を送った。「おつう、青の一番よ。じっくり攻めるけん」
攻撃時の作戦伝達はコールと言い、さまざまなバリエーションが存在するが、色と数字の組み合わせを用いるチームが多い。
ここでは「一球待て」の指示が送られた。
「オーッホッホッホッホ! わたくしにそんな小細工は通用しませんことよ」
対馬は例のごとく高笑いしながら打席に入り、背伸びするようにバットを高く掲げたあとで構えをとろうとした。
「ご覧あそばせ! 美しきわたくしの――」
美波はすでに足を上げている。
「こらこらこら~! わたくしに注目しなさーい!」と対馬は激しい身ぶりで抗議した。豊満な胸がユニフォームを破らんばかりにぶるんと揺れた。
主審がタイムをとった。バッターが自分の事情でグレイスを止めることはできないが、審判にはその権利がある。
「まったく! いくらわたくしの美貌にめまいするからといって、まるでいないもののように扱うとは無礼極ま」
またしても美波が三塁方向を見ながら足を上げたことに、対馬は愕然とした面持ちになった。
「この……! わたくしを――」
タイムはない。美波の長い指先から放たれたボールは唸りをあげてスピンした。
「――お見つめなさい!」
対馬が突っ込んで打ち、あっとチェリーズベンチから声が上がったあと、ゴロを捕った宮崎が三塁ベースを踏んで一塁に投げた。
ワンバウンド。
キャッチ。
「――アウト!」
やったぁ、とサンフラワーズベンチの選手たちは跳び上がった。
ほう、と吐息をついて脱力した美波のもとに、宮崎が駆け寄ってきた。
「零!」
グラブタッチ。
はじめて人間を見た野生動物のような顔をしている美波に、ほかの野手も次々とグラブを突き出した。
「やればできるやっし!」とシェイラは美波と肩を組んだ。「獲り返すからよ~。見とけよ」
「あの!」とジヒョンが意気込んだ様子でチェリーズB首脳陣に言った。「ウチ、肩つくっとくけ、いつでも呼んでください」
「いや、あんたの出番は――ちょお、聞きぃよ!」
ジヒョンがグラブを持ってダグアウト裏に消えてしまうと、天保コーチはやれやれと頭を抱えた。




