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つばぜり合い

 貴賓室の窓に張りつかんばかりに中久保は身を乗り出していた。

「なな何だあれは……」


 それは深く鋭い眼差し。翼を広げた鳥のようなフェイスペイント。スーパーモデル顔負けのフォルムでベースをまわる190センチのトルコ人。

 もはや何なのかよくわからないその存在を、グラウンドレベルの人々はぽかんと口を開けてただ見つめた。


 守備についた可憐な少女たちのあいだをすり抜け、アイス・アイクルは悠々とホームベースに還ってきた。その姿はさながら花畑に舞い降りた一羽の猛禽類だった。


「みんな、出迎えよ!」

 女子大生アイドルの宮崎あやの一言で、思考停止に陥っていたサンフラワーズナインはようやく動き出し、ダグアウトの前に並んでハイタッチの手を出した。

おいエー! びっくりさせるなシカバサンケー!」

「……ん? なん、それ?」


 アイスはスタッフから渡されたホームランベア――客席に投げ入れるためのぬいぐるみ――をチームメイトの前に突き出した。

 ベアの短い腕のあいだにメッセージボードが挟まっている。

【みタカ へた糞ドモ】

 アイスは中指を立ててそのボードをこつこつ叩いた。


「何だとぉ!?」

 ナインのボルテージが上がった。特に沖山とシェイラは猛り狂った。

「あんなまぐれで調子乗るなちゃ!」

めっちゃデージむかつくーっワジワジーッ!」


 だがアイスにとっては馬耳東風、ぬいぐるみをひょいと客席に投げ入れた彼女は、同期の満重から武者兜を受け取って素早くかぶり、脱いだ深緑のヘルメットもスタンドに投げようとした。

「それはあげちゃダメ~!」とナイン総出でツッコんだ。



         ◇



 投手陣最年長二十一歳の右投手、植田望の速球を受けたマリーは、プレートの横に控えていた久礼に向かってボールを返した。

 ブルペンにひとりしか捕手がいないため、投手たちは交代ずつ投球練習をしている。


 そこへもうひとりの捕手、花田が防具姿でやってきて、代わるわとマリーに言った。

「美波をお願い」と花田は声をひそめて言い接いだ。「私じゃたぶんダメだから……」


 脚部のプロテクター以外の防具ははずして、マリーは通路を急いだ。

「ミナミ!」

 広いロッカールームに美波はぽつねんと座っていた。左手にグラブをはめたまま枯れかけの柳のようにうなだれ、近づいても無反応だ。

 マリーはソファの隣にそっと腰かけた。


「ミナミ、わたしを見て」

 美波はのろのろと眼を上げてかすかに視線をつないだ。顔が紙のようになっている。乾燥して色味がなく、精気が感じられない。

 メイクアップ――美容と心理のふたつの意味がある――の方法を知らないのだろう。自分を築き上げる術を持てば、こんな顔をすることもないのに。


 マリーは安心させるように微笑んで見せ、美波のサンバイザーをとって濡れた髪を横に分けた。

「着換えて。汗でびしょびしょよ」

 すると美波は身を預けるようにもたれかかってきた。蒼い顔の彼女の吐息は熱かった。それをストレートだと思ったマリーの見立ては間違っていた。

 気づいたときには、ふたつの唇のあいだはボール一個分も離れていなかった。



         ◇



 八番、ツインテールの野々村のバットが快音を響かせる。

 まさか、といった顔で振り向いた川村の見つめる先、打球は三遊間を抜けていった。

「うわあ!」

「連打!」

 活気づくサンフラワーズベンチを横目に、しっかりオーバーランを決めた野々村は、「やったやった」と飛び跳ねながら中継カメラに目線を送り、「いえい☆」とポーズを決めてウィンクした。


「野々村ー! うしろうしろ!」

「うしろ?」

 びゅーんとボールが飛んできて一塁手のミットに収まり、そのまま野々村はタッチされた。

「――アウトーッ!」


 野々村は呆然とし、サンフラワーズベンチは意気消沈した。その二者を除けば、球場じゅうがげらげらと笑いに包まれた。

「何やってるば!」とシェイラが戻ってきた野々村に言った。

「ちょっと」と真中が止め、「そんな言い方したら……」と新富がかばった。


「――んやぁぁぁあああ」

 いきなり泣き乱した野々村にシェイラは眼を丸くし、真中は「はじまった」とつぶやいて頭を抱えた。

「みみみんな暗いけう、う、うちが盛り、盛り上げちゃろ思ってえ、ええええええ」

 来年二十歳になる先輩が泣きじゃくる姿にほとんどのナインは狼狽するしかない。


「あんたもエラーしたっちゃろ!」と沖山とシェイラが喧嘩をはじめた。

「言うなや! ワァだって気にしてるばーよ!」

 あまりのやかましさに玉井コーチは顔をしかめた。「ここは幼稚園かよ」

「違うとでも?」と返した指宿はタブレットを操作し、宙空に浮いた仮相のスコアブックをじっと見つめた。「そろそろ五十球……良いペースね」


 打席に入った井上はよくボールを見定め、追い込まれたあともファウルで粘り、フルカウントに持ち込んだ。

 プレート上の川村は肩で息をしながら、井上への七球目のモーションに入った。

「この……!」

 歯を食いしばって腕を振った。しかしボールは伸びない。この球を井上は一塁側にカットした。


「ええよ!」とサンフラワーズベンチから声援が飛ぶ。「粘れ粘れ!」

 捕手のカレイドが主審から新しいボールをもらい、投げようとしたところで手を止めた。

 苦しそうな表情の川村が両腕でバツ印をつくっていた。


 天保コーチとトレーナーに肩を抱えられ、川村はプレートを離れていく。それを貴賓室の窓から見ながらグラスをした中久保は、ハァと息を吐いてまずそうな顔をした。

「足がつったか……。指宿め。体力のない川村に球数を投げさせるとは卑劣」

「そんな弱点があったら、すぐほかのチームにばれますよ」と付き人は言った。「GMは課題に気づかせるためにあえてそこを突いたのでは?」


「ほう」

 中久保はぎょろりと眼を剥いて薄笑いをした。

「すごいなぁ、君は。一軍監督である私が知らないことを知っているなぁ。なぁ?」

「と、とんでもない」

 付き人は首と手をぷるぷると横に振った。


「君はもちろん知っているだろうがね」と中久保は神経痛のように鼻をひくつかせながら言った。「これから出てくる川田には、川村のような弱点は、ない」



         ◇



 マリーは左手で美波のくちづけビーンボールを受け止めていた。鼻と鼻はほとんどくっついていた。

「……!」

 美波の痩身を押しやり、命からがらといったていでソファから離れた。頭の中がクエスチョンで埋め尽くされている。


「マリー……」

 美波がゆらりと立ち上がった。

「あたしと結婚して」

クワ?!」

 “Marry me.”……? まさか、単に「マリー」と言ったのだ、特製サングラスの機械通訳が間違えたのだ、マリーはそう思いたかった。


「あたしを……養って……」

 まるで古いジャパニーズホラーだ。髪で顔が隠れた美波がぶつぶつ言いながらじわじわ距離を詰めてくる。


「結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結婚結」


「待ってちょうだい!」とマリーは掌を突き出した。「どうしてそんなこと言うの?」

「……だって」

 ぺたんと美波はその場に座り込んだ。

「あたし今日で完ぺき終わったし……もう先がないよ」


 マリーは少しむっとした。何を馬鹿なことを。

「ミナミ、顔を上げて」

 おそるおそる眼を上げた美波と向かい合わせにマリーは膝をついた。


「まだ終わりじゃないわ。あなたがどう思おうと、わたしたちには明日がある。明後日もある。ちゃんと前を向いていればそれが見えるの。うつむいてちゃ何もはじまらないわよ」


 隠れ処からのぞきこむように美波はじっとマリーの眼を見つめた。

「わたしの言う意味、わかる?」

「でも」美波はふいと顔をそむけてつぶやいた。「クビを決めるのは大人たちだし……」

 マリーは息をついて言った。「美波がいなくなるなら、わたしも辞める」


 驚いている美波を横目に、マリーは床に腰をおろした。

「パールボールはどこでだって続けられるもの。あ、でも今日の試合をあきらめてもいいわけじゃないわよ? 自棄やけにならないで、今あなたができることのすべてをこの試合にけてちょうだい。いい?」


 美波は完全には踏ん切りがつかないようだったが、だんだん顔に色を取り戻して、最後にはこくんとうなずいた。


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