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戦いの火蓋

「ストライク、バッターアウト!」


 見逃した最後の投球に対し、真中は一瞬アンパイアを振り返ったが、すぐに顔をそむけて打席から出た。

 サンフラワーズの初回の攻撃は三者三振で終わった。


 チェリーズBの先発ピッチャー、川村は余裕の笑みで一塁側ダグアウトに戻っていく。

 スタンドじゅうの大きな拍手が彼女を迎えた。

 同じ球団組織に属するチーム同士の、いわば紅白戦ではあるが、それだけに選手ひとりひとりの人気がスタンドの反応に直結するようだ。


「十八球か……二十は超えてほしかったな」

 三塁側ダグアウトに座った指宿GMが、仮相のスコアブックを見ながらつぶやいた。


 野球の場合、ダグアウトに電子機器を持ち込むことはルール違反だが、パールボールにその規定はない。監督、コーチだけでなく、選手も含め、仮相環境や無線の使用が可能だ。

 ただし登板中の投手だけは例外的に、情報機器の着用が一切禁じられている。


「ミナミ」

 マリーはフィールドに出ようとした美波を呼び止めた。

「ハナダサンのミットを信じてね」

 美波はうなずくことも何か言うこともしなかった。下唇をぐっと噛みしめ、踵を返した。

 45番は背中を丸めてピッチャーズプレートに走っていった。


「オーッホッホッホッホッホ!」

 チェリーズBの先頭打者、対馬おつうが高笑いしながら打席に向かった。

「さぁ、お投げあそばせ! わたくしの大きな胸を貸してあげましょう!」


「プレイ!」

 空振り。

 空振り。

 空振り。

「バラアウ!」


 野口あき二軍監督はがくっとこうべを垂れた。「ぜんっぶボールだまや……」

 対馬はふふふと笑みを浮かべてボックスを去り、次打者のカレイドとすれ違い際に言った。「キレてますわよ」


 両打ちの韓国系アメリカ人、カレイドは左打席に立ち、隙のない眼でピッチャーを見据えた。

「――ボール!」

「――ストライク!」

 キャッチャーミットの鳴る音とアンパイアの声だけが場内にこだまする。応援団がいないのでプレーの音がよく響くのだ。


「振りませんね」と満重あゆみがマリーに言った。ふたりはダグアウトの最前列にいる。

「ミナミはすみっこを狙いすぎよ」とマリーは歯がゆそうに言った。


 カウントは深まり、ツー・スリーになった(野球と違い、パールボールはストライクを先に言う)。

 もう額に汗をかいている美波は、六球目のフォーシームを外いっぱいに通した。

「――ストライク!」


 ヨシ、とマリーは拳を握った。

「ふふ、開き直ったかしら」と指宿は楽しげだ。

 サンフラワーズベンチの選手たちは手を叩きながら声援を送り、三振後のボールまわしをする野手たちにも元気が出てきた。

 スタンドも盛り上がっているが、こちらは意味合いが違うようだ。


 ウグイス嬢の声が響く。

「三番、センター、朝倉――背番号75」

 朝倉は黒塗りの木製バットを携え、ゆっくりと次打者待機場所オンデック・サークルを出た。


「75……」

 有町は訝しげにつぶやいた。彼女の背番号は73で、通常こういう大きな番号は監督やコーチがつけるものだ。


「朝倉ねぇ、自分からあの背番号を希望したんです」

 指宿が困り顔で説明した。

「オープン戦でつけてた1番を、私がほかの子にあげたから、拗ねちゃって」

 コーチたちはなんともいえない表情で互いを見交わした。


 指宿は話しているあいだもタブレットを操作し、マスクを被る花田の仮相環境に指示を送っていた。

 花田はコンタクトレンズ型のデバイスを通して、指宿が示した球種とコースを確認し、それからピッチャーにサインを出した。


 美波がモーションに入る。

 その指先からボールが放たれた瞬間、観衆はあっと息をのんだ。

 朝倉がおもいきりのけぞり、倒れ込むすんでのところで地面に手をついた。

 もう少しでヘルメットに当たるところだった。


「よしよし、いい子」

 満足げにうなずく指宿を、有町は信じられないような眼で見た。

「今のはGMが……?」

「さすがに頭を狙えなんて指示しません」と指宿はちょっと皮肉げに笑った。「でも、手に負えない子にはこれが一番」

 続く二球目もまた、朝倉の身体近くをボールが通った。


 場内はざわつき、初級観戦者たちのひかえめなブーイングも起こっている。

 それを遮るかのように美波はサンバイザーを深くかぶり、ちらりとバッターのほうに眼を向けた。


 朝倉の表情は動かない。大きな瞳が美波の視線をとらえている。

 美波はびくびくとグラブで顔を隠し、サインをうかがいながら、ぶつぶつと何か唱えはじめた。


「……打たれちゃダメだ打たれちゃダメだ打たれちゃ――」

 ワインドアップ。

「ボールだまボールだまボールだま――」


 美波のフォームをじっと見つめていたマリーが、不意にあっと口を開いた。

「ノン!」


 投じられたボールはまたもインコースへ。

 朝倉のしなやかな腰つきが折れそうなほどに反り、伸びきった両腕が宙に放り出され、木製バットがカランと地面に落ちた。

 ボールが消えた。


 誰もが空を見上げている。

 突き出されたいくつもの掌やグラブ。

 そのなかのひとつが衝撃にたわんだ。


「――うおぉぉぁぁぁぁああああああああ」


 球場じゅうを揺るがすような大歓声、拍手喝采。

 高音や濁音の混じった無数の叫び声に名前を呼ばれても、朝倉は振り返ることなくベースをまわった。


 チェリーズB、1点先取。



         ◇



 栗田とうしろの観客に助け起こされた雄吾は、グラブの中に白球があるのを見つけても、まだ信じられないような気持ちだった。


「やったな!」とまわりの客が声をかけてきた。

「すげえ! 朝倉すげえ!」同級生たちは肩を組んではしゃいでいる。


「いま打った球、140キロ出てたんだぜ!?」

 杉野がオープンビューの仮相ウィンドウを開き、観測装置のデータをみんなに見せた。

「へえええ! ……っち数字言われてもぴんと来んけ」と彼らは苦笑した。「俺らサッカー部やし」


「今の時代、MLBでは170キロが当たり前だぞ」と前の席の知らない男の子が口を挟んだ。「甲子園でも毎年160キロ台がいるぞ」


「ば、ばっかおまえ!」と杉野は食ってかかった。「パールボールの球速は野球換算したら10キロ以上増し増しなんだよ! 野球より短い距離でやってるんだからな!」

「それでも差があるぞ」と男の子は言う。

 杉野は耳まで真っ赤になった。「こんの……水差し野郎!」


「やめりぃって!」

 サッカー部の連中が杉野を羽交い絞めにした。

「そっちももう話しかけんで!」

 男の子はくつくつ笑ってどこかに行ってしまった。


 雄吾はそちらに構っている余裕がなかった。

 サンフラワーズの形勢が悪くなっている。

「美波……」

 雄吾は念じるように彼女の名前を呼んだ。



         ◇



 チェリーズBの四番バッター、森田が歩いて一塁に向かう。

 美波の顔はどんどん青くなる一方だ。


「フォームが乱れてる」と指宿はつまらなさそうに言った。

 彼女の仮相環境にはモーション解析が映し出され、普段の美波の投球動作メカニクスといま現在のそれとの差異を示している。

 さらにその隣のウィンドウには、ボールの軌道が表示されている。

「内を狙ったボールがシュート回転してるし……。打たれて当然」


「GMさんよぉ」と玉井コーチが口を開いた。「そいつは今すぐ本人に言ってやるべきじゃねえのか?」

「もう遅いですね」と指宿は肩をすくめた。


 十二秒の投球猶予グレイスがはじまっている。

 その間ランナーは動けないが、この時間を意識しすぎたバッテリィは、早く投球しようと焦ってしまう。

 特に投手はほかの野手と違い、デバイスの着用が禁じられているため、時計がわからず、投げ急いでしまう危険性がある。


 美波がワインドアップで振りかぶったとき、捕手の花田が動揺したのは傍目にも明らかだった。

「ちょ、まだサイン出してないからっ」

 花田は軽率にも、そう口に出して言ってしまった。

 バッターの眼光がくわっと鋭くなった。


 何の意図もない棒球がストライクゾーンへ。

 強振――快音。

「ユリィ!」

 センターに抜けようかという鋭い打球にショートの井上が飛び込んだ。


 捕まえたボールを離すまいと胸に抱えて起き上がる。

 二塁ベースで必死に呼び込んでいるシェイラに向かってトス。

 わっと歓声が上がったあとで、塁審が言うまでもないというようにゆっくりと拳を掲げた。


「やるやしぇ新人!」

 シェイラをはじめとした内野の先輩たちが、井上をねぎらいながらダグアウトに戻っていく。


 うつむいて歩く美波のもとに花田が近づいていき、ミットで口を隠して言った。「美波、サイン見てる? さっきは――」

 美波は早歩きになり、先にダグアウトに入った。

「ミナミ」

 マリーが呼んでも、美波は顔を上げない。


「……サインどおり投げたのに」

 そう小声で吐き捨てて、美波は裏の通路に引っ込んだ。


「幼いなぁ」と指宿がひとりごとのようにつぶやいた。

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