決戦は金曜日
トレーニング施設〈平和台〉のクラブハウスには広々とした温泉浴場がある。
サウナやジャグジー、超音波風呂といった設備が整い、とりわけホログラムの天井プラネタリウムは女性陣に大好評だ。
同施設にほど近い球団寮に住む選手たちの中には、自室のシャワールームを使わず、日に何度もこの浴場に通う者もあった。
朝風呂には少し遅い午前十時過ぎ、脱衣所にふたりの選手が入ってきた。
川田と川村の「川川コンビ」だ。
「なして試合の日までレッスンあると~?」
「しかも先生、うちらが今日投げるの知らんやった!」
「それな!」
カラリと戸が開いて長身のシルエットがふたつ、湯けむりの中に浮かんだ。
ちらちらと見え隠れする肢体は首と肩を境にくっきりと色が分かれている。
日焼けしていないところはほんのりと紅く上気していた。
「ま、どうせ三軍相手やけん余裕よ」
「むしろ調整にもならん気がする~」
「――私も同意見です」
ふたりはぎょっと肩を反らして振り向いた。
ちょっと驚きすぎだろう。
朝倉優姫は浴槽の中で思わず笑みを浮かべた。
「川田さん川村さん、よかったら私に投げてくれませんか?」
ふたりは聞いているのかいないのか、湯船から出てきた朝倉の身体をしげしげと眺めた。こいつはどうして焼けていないんだろう、とでも思っているのかもしれない。
胸と胸、指と指、腿と腿、あらゆる隙間から水滴が滑り落ちるに任せ、朝倉はタイルの上をゆっくりと歩いた。
「期待はずれのドライチでも、練習台にはなると思いますよ」
川田と川村はさっと両手を挙げた。
「いや~……」
「やめとく~……」
「そうですか。――残念」
朝倉はふたりのあいだをすり抜け、アップにまとめていた髪をほどき、それからふと横の鏡に眼をやった。
濡れそぼった自分が剣吞な目つきでじっと見返していた。
◇
空からゴロゴロと不機嫌な音が聞こえる。降水確率はテッド・ウィリアムズと同水準だったが、バスの走行音から察するに雨は降っていないようだ。
マリーは眼を閉じたままゴーグルをはずし、オレンジ色の特製サングラスをかけた。
何度かまばたきをして、視覚系と機械が完全に同期したのを確認する。
そのあいだにバスはタイニーガーデンの敷地に入り、ビジターチーム用の入場口の前に停まった。
黄色と緑のユニフォームたちが一斉に動きはじめる。
「みんな、忘れ物しないでくださいね」と有町が言った。アカデミーで小学生たちを相手にしていたときの感覚が抜けないのだろう。
「マリー、見える?」
井上が隣の席から顔を覗き込んできた。
マリーはにっこりと笑い返した。
「ティント変えたの?」
「えっ」
「その色、わたし好きよ」
「う~……見なくていいよ」
井上はチークをのせたみたいに頬を染めて席を立った。
マリーも続こうとしたところ、うしろのほうから寝息の重奏が聞こえてきた。
シェイラと小方、そしてホアの三人が最後尾のシートでぐうぐう眠りこけている。
「三馬鹿! 起きなさい!」
真中の声で彼女たちはようやく目を覚ましたが、バスをおりたあともまだあくびをかいていた。
「三人とも、大丈夫なん?」と大学生アイドル、宮崎あやが見かねて声をかけた。
「大丈夫よ!」とシェイラはニッと歯を見せた。「朝練したから少し眠いだけさぁ」
「ほとんどみんな朝からいたけどね」と真中がちくりと言った。
マリーはその練習に参加できなかった。機械の使用制限のためだ。
練習時間を削られるのは本当にストレスがたまるけれど、何もできないということではない。体幹トレーニングで汗を流し、試合に役立ちそうなデータを頭に叩き込んできた。
チームメイトたちも各々準備をしてきたのだろう。口数は少ないが、胸に秘めるものがあるようだった。
「何これ……!」
ロッカールームの中からざわめきが聞こえる。
先に行った選手たちがホワイトボードの前に集まっていた。
スターティング・ラインナップ
1(右) 沖山 ハラ
2(三) 宮崎 あや
3(中) 真中 真心
4(二) シェイラ・ジャーナ
5(一) 新富 卯
6(捕) 花田 雪
7(指) アイス・アイクル
8(左) 野々村 君華
9(遊) 井上 百合
(投手) 美波 零
コーチたちがロッカールームに入ってきた。
「全員、集まった?」
「コーチ!」
選手たちは真っ先に有町を囲んだ。
「何なんですか、このオーダー!」
「うちら今日は本気で勝ちたいんよ! なのに……」
先発投手と指名打者に視線が集まった。
美波は肩をすぼめてうつむき、武者兜と面頬を着けたアイスは任せろとばかりに拳で胸を叩いた。
みんなの表情がさらに苦々しいものになった。
「意見は私に言ってください」
マリーはその声に驚いた。
「イブスキサン……ッ?」
そこにいたのは球団部門のトップ、指宿莉桜だった。
彼女はいつものソメイヨシノのスーツではなく、深緑のブレザーとひまわりの指環を身に着けていた。
「今日の試合、私がサンフラワーズの指揮をとります」
「えぇっ!?」
選手たちは眼を丸くし、二の句を継げない。
指宿の顔にはいつもの微笑はなく、真面目な口調で続けた。
「監督と投手コーチを派遣することができなくて、みんなには心配と迷惑をかけています。本当にごめんなさい」
頭を下げるGMを前にして、選手たちはただただ困惑するばかりだ。
「ラインナップの説明をしてください」と真中が前に出てきて言った。「わたしは、久礼さんが先発するべきだと思います」
言及された美波も久礼も、そのままの姿勢で動かない。
「色李には我々フロントが投球制限をかけています」と指宿は答えた。「先発で長いイニングというのはできない。中継ぎでいってもらいます」
指宿はホワイトボードの前に歩を進め、チームKの隣に書かれた相手チームの登録選手を目線で示した。
「チームBには一軍レベルのバッターが揃っています。ひとりの投手で抑えられるとは思いません。リリーフはどんどんつぎ込みます。継投策で目先を変える。これは勝つための作戦です」
GMは全員の顔を見渡し、真中のところで眼を止めた。
「納得してもらえた?」
「いいえ」
そう答えたのは、誰あろう美波だった。
美波は床を見据えたまま、振り絞るように声を出した。
「……あたし、マリーじゃなきゃ嫌です……!」
マリーは美波の顔をまじまじと見返した。
一同は騒然となっていた。
「あ、あんたね」と真中は困惑と怒りが混じった声で言った。「自分が何言ってるかわかってんの?」
「花田さんに失礼やろ!」
何人かが美波に詰め寄っていく。
マリーはとっさにあいだに入った。
「ノン! みんな待って――」
「却下」
指宿のひと声で場が静まった。
「零、そういうところ、なおさないと駄目だよ?」
GMの語りかけも美波の耳には入っていないようだった。
かすかに震えている彼女のことをマリーは見ているしかなかった。
◇
駅の改札を抜けると一方向への人の流れがあった。それに従ってしばらく歩くと、灰白色のドーム球場の偉容が遠目に見えてきた。
「あれやろ!」
「でけーっちゃ!」
はしゃぐサッカー部の連中の横で、雄吾もひそかに気持ちを高まらせていた。
いち観戦者として球場に足を運ぶのは、去年の夏以来、二回目だ。しかも今回はマリーをはじめ、個人的に知っている選手たちが試合に出る。だから入れ込み具合が違った。
それだけではない。客席の雰囲気も楽しみにしている。
またあのサンフラワーズ応援団の大合唱を聞くことができるだろうか。
チェリーブロッサムズにも同様の組織があるらしい。どんな応援スタイルなのだろう。
「何、あれ」と栗田が何かに気づいた。
見るとチケット売り場のところに、何本もの応援旗を掲げた黒ずくめの集団がいる。
彼らはスーツ姿の男ふたりを取り囲んで何やら言い合っていた。一瞬、犯罪現場と見紛うような光景だ。
「おい! チェリーズば俺らをのけ者にしよるんか!?」
「誰がきさんら支えよると思っとーと!?」
「ですから、そういうことではありません!」
対応しているのは球団職員のようだ。
身なりの雰囲気から、けっこう上の人じゃないかなと雄吾は思った。
そして抗議しているのは十中八九、チェリーズのファンだ。
「おまえら、見苦しいっちゃ!」
別の集団が横入りしてきた。それは雄吾にとって見慣れたサンフラワーズ応援団だった。
「新規向けのイベントやっち説明しよろーが。のう、職員さん?」
「しぇからしか! すっこめ、ひまヲタ!」
両集団はにらみ合った。
「帰って職ば探さんね!」と黒い集団。「親が泣いとうよ!」
「しゃぁしい!」と黄色い集団。「ぶちくらすぞ、きさんら!」
「やめんか!」と職員が怒鳴った。「警察を呼ぶぞ!」
双方ぴたりと動きを止め、今度は唸り声の大きさで張り合いはじめた。
一向は気を取り直して入場ゲートに向かった。
「あれ完全にフーリガンやろ?」
「こえーねぇ」
「福岡の応援団はちょっと過激なんだよ」と杉野が渋い顔をして言った。「球界でも有名なんだ。でも今日の試合、観戦できるのは招待客だけだから大丈夫だよ。一度も球場に来たことない人だけ」
練習試合なので入場は無料、球団の定めた観戦資格だけが問われる。
栗田やサッカー部の連中はファンクラブに新規入会してチケットを申し込んだが、雄吾は選手の家族に配られる招待券を利用した。
ヴィクトルと朱里絵がいないのには理由がある。
温厚な歯医者さんは球場に来ると、ひとり娘の活躍だけを求めるフーリガンに変貌してしまうから、朱里絵とマリーが当面の観戦禁止令を出したのだ。
「またの機会にするよ。シーズンは長いからね」と雄吾には言ったヴィクトルだが、心底無念そうな顔をしていた。
飲み物を買って指定の外野席に座り、ようやくひとごこちついた。
杉野の言う通り、来場者はライト層ばかりのようだ。仮相環境の観戦ガイドやルール説明をチェックしている人が多い。
初心者に限定したイベントで広いドームを埋めるのは難しいのだろう。スタンドには空席を隠す大きな幕があちこちに敷いてあった。
「見り、芝にハート書かれちょる!」
「芝桜だよ。遺伝子強化されてるんだ」
杉野たちがフィールドを見まわしているあいだ、雄吾はネットでスターティングラインナップを調べた。隣の席の栗田も同じものを見たようだ。
「妹ちゃん、スタメンにおらんね」
「うん……」
そのとき、一部の照明が落ちて、あたりが薄暗くなった。
「はじまる!」と杉野が叫んだ。
ビートを刻む音楽が繰り出され、色とりどりのビームが空間を幾何学模様に彩っていく。
スポーツ界ではILPだけが行っている演出、開宴曲だ。
フィールドの上空に仮相のカウントダウンが表示された。
雄吾はほかのみんなと息を合わせ、グラブをはめて立ち上がった。
「――よっしゃいくぞぉーっ!!」
まわりの観客の何割かは玄人の真似をして続きの合いの手を打ちはじめたが、スタメンの選手を呼び込む場内アナウンスの恰好いい声に掻き消された。
「ライトフィールダー、おつぅぅぅうつぅしまぁ!」
照明がついて色が見えるようになったフィールドに対馬おつうが飛び出してきた。
彼女は客席に大きく手を振り、一番目に呼ばれたことを喜んでいるようだった。
「センターフィールダー、――」
きた! と杉野は声を上げた。同時にわっと歓声が高まった。
「――ゆぅひぃぃぃあさくぅらぁ!」
朝倉が姿を見せた。
薄い桜色のユニフォームに身を包んでいる。
客席のあちこちに少し左手を挙げて見せながら、右中間の席にいる雄吾たちのところへ近づいてきた。
ホーム球団の選手は守備位置につく際、客席にサインボールを投げ入れる。
朝倉も例にもれず、右手のグラブにボールをいっぱい持っていた。
「おーい、朝倉ー!」
「ゆったーん!」
雄吾は朝倉と眼が合った。
いや、そんな気がしただけかもしれない。
少なくとも同級生たちの声は聞こえたようで、朝倉はこっちをめがけて投げてくれた。
しかし、そのボールは最も不当な輩のグラブに吸い込まれた。
「栗田てめぇ!」
「なん捕っとーと!」
「朝倉、もう一個ぉ!」
そんな喧騒もやがて過ぎ、野手がそれぞれのポジションで白球を投げ交わすと、ボールゲーム特有の静かな調べがフィールドに染み入った。
まるっきり別々のことをしていた審判、バッター、バッテリィがさりげなく集結し、ホームベースを囲んでにらみ合った。
「プレイ!」




