RESET
「ぅゆうぅぅごぉぉぉぉおお」
朝っぱらから騒々しい。
雄吾が顔をしかめて振り向くと、杉野が机のあいだを縫って突進してきた。青い顔をして、体じゅうわなわなと震えている。
「あああ朝倉が二軍だってよおおっ! どーするっ?!」
「あぁ……残念だったよな」
雄吾の返事は淡白なものになった。昨日発表を聞いた瞬間は愕然としたが、今はもうそのショックは通り過ぎていた。
「残念どころじゃないよぉー!」
杉野が悶えているうちに、雄吾は偏光眼鏡をはずし、机の上のキットといっしょに片づけた。
「何? 朝倉さん?」とクラスの女子たちが話しかけてきた。
「ほかに何があるってんだよ!」
杉野が怒鳴り返したので、彼女たちは話す気をなくしたようだった。
「あれ……会場の雰囲気、やばかったぜ」と普段は無口な男子が証言した。
「おま、現地いたの!?」と杉野はいちいちうるさい。
「俺らもおったよ」とほかのやつらも話に加わってきた。
「ファッ!?」
「ヴァーチャルボックス席が取れたけね」
「その手があったかぁぁああ!」
あああ、と杉野は悔しげに雄吾の机を拳で打った。
すると隣の席で寝ていた栗田がむくりと顔を上げた。「俺もびっくりやった」
「おまえが?」
栗田はうなずいた。「どのスポーツニュース見てもやっとったけ、驚かんといけんのやぁっち刷り込まれたんよ」
「何だよそれ」と雄吾は呆れた。
「もうあの映像は流さないでほしいよ」と杉野は憤慨した口調で言った。「うまくいった、って運営が勘違いするんだから」
「何がうまくいったん?」と栗田が訊いた。
「話題作りだよ!」と杉野はまくしたてた。「選手の気持ちも考えないでさ。悪い意味でサプライズだよ。朝倉は犠牲になったんだ」
熱くなりすぎやろ、と栗田はぼそっと言った。しかしILPのコミュニティにおいては杉野のほうが多数派なのだ。
朝倉のことだけではなく、福岡チェリーブロッサムズというチーム全体が、球界に大きな波紋を広げている。
例年、各球団は開幕日の前日を目途に、一軍とその下のクラスのメンバー編成についてプレスリリースを行う。
もちろん、内部での通達はもっと早くに行われるが、オープン戦も半ばというこの時期にすべての陣容を固めることはほとんどない。当落線上にいる選手たちのアピールの機会がまだ残っている段階で、その希望を潰してしまうことになるからだ。
チェリーズが無視したのはこのILPの通例だけではなく、もうひとつあった。そちらが今回の騒ぎの直接的な火種になった。それはまさに感情の問題だった。
ステージ上で涙に暮れるメンバーたちの映像がニュースや動画共有網を伝って拡散されると、メディアや識者やファンコミュニティから一斉に非難の声が上がった。内々に知らされるべきデリケートな事柄を、公の場でいきなり発表するというやり方は、選手たちに対してあまりに誠意がないとの批判を浴びても仕方なかった。
「朝倉、落ち込んどるやか……?」
「スタッフなら、何か知ってそうだけど……」
みんながこっちを見るので、雄吾は否定的に手を振った。
「俺がいるのはサンフラワーズだから、博多のことは知らないよ」
ちぇっ、とみんな視線をはずした。
「メッセージ送ったけど、返事なかったし――」
「何っ!?」
一斉に振り向いた彼らの眼はぎらぎらと危険な光を放った。
「いやっ、俺のいもうとの話だよ」と雄吾はとっさに言った。
「なーんだ」
別に、隠すことではないかもしれない。けれど、わざわざ吹聴することでもない、と雄吾は自分に念を押した。
朝倉優姫とのやりとりは本当に他愛ないものだ。会話の内容はほとんど雄吾の家族に関することで、とりわけ朝倉はマリーのことを聞きたがった。
そもそも朝倉が雄吾の通信IDを手に入れたのは、マリーと連絡をとるためだった。
率直なフランス人に連絡先交換を断られた朝倉は、雄吾にキャッチボールの中継役を務めるよう求めたのだ。
そういうわけだから、朝倉が雄吾だけを見て書いたようなメッセージなんてほとんどない。正確な数はわからないが、指折ってみれば片手で事足りるだろう。
あくまで朝倉の関心はマリーにあり、その兄とのやりとりは副次的なものに過ぎないのだ、と雄吾は理解している。
「雄吾くんのいもうと、マリーちゃんやっけ?」
クラスの女子たちが興味しんしんといった様子で雄吾を取り囲んだ。マリーに注目しているのは朝倉だけではないらしい。
「あの子めっちゃかわいいよね! あたし推してもいい?」
「私会ってみたーい! おうち行ったら会える?」
「あ! さらっと何言いよん!」
「きゅ、球場に来たら会えるよ……」
雄吾はそう答えるしかなかった。思いもよらず、バイト先やマリーとの関係が知れ渡ってしまったことに、軽くめまいをおぼえた。
「――雄吾!」
教室の入口から声が飛んできた。剛田だ、と振り向く前にわかった。
須根もいっしょにいた。ふたりは手に手にたずさえたグラブを示してニッと笑った。
雄吾はちょっとはにかみながら、彼らのもとへ駆け出した。
◇
「ディフェンス・コーディネーターを務めることになった有町です。よろしく」
「バッティングの面倒をみる玉井だ。あたしの指導は厳しいからな、覚悟しろよ」
「えー、バッテリィ・コーチの花田雪です。えー、このたび選手兼任ということで、現役に復帰しました。あのー、ブランクはありますが精一杯プレーしたいと思います。みんな、おばさんだからっていじめないでねー……?」
サンフラワーズ球団事務所の一室にて、新チームの顔合わせが行われている。
新たに就任した三人のコーチがそれぞれ自己紹介をしたが、選手たちの反応はどことなく冷めていた。何名かは拍手をすぐやめてしまったし、シェイラのように手を上げようともしない者もいた。そんな先輩たちの様子に、新人アカデミー生たちは困惑顔で、ひかえめに手を叩いていた。
同席している球団幹部たちにとっても、この活気のなさは想定を超えていたようだ。GMの大下は出鼻をくじかれたように苦笑を浮かべた。
「どうしたんだ君たち、元気がないぞ」と彼には珍しく、苦言を呈した。
「プロデューサー」と言って、シェイラがやる気なさげに手を挙げた。
「パールボールのときはGMと呼ぶんだ」とGM補佐の河村が横から口を出した。
「どっちでもいいけどさ」とシェイラはかったるそうに言った。「監督とピッチングコーチは? まだ決まってんわけ?」
「もちろん、決まっているよ」と大下はやわらかく答えた。「海外から招聘したので、いろんな手続きに少し時間がかかっているんだよ。開幕には間に合うから、君たちが心配することはない」
シェイラは小さく舌打ちし、ゆくさー、とつぶやいた。それは彼女の祖先の方言で「うそつき」を意味する。
「シェイラ、おまえはもう腐っているのか?」
部屋のうしろに控えていたマネージャーの山中が、静かだが厳しい口調で言った。
「アカデミー生に落とされて……、見返してやろうという気持ちにならんのか」
シェイラは山中をにらんだ。
「なんでシェイラだけ説教するば? ほかにも正規から落とされた人いるやっし!」
選手たちのあいだに緊張が走った。
シェイラと同じく、正規メンバーからの降格となった沖山ハラが憤然と立ち上がった。
「うちはあんたみたいにスキャンダルで落ちたんやないけ、いっしょにせんで!」
「えー? じゃあ沖山さん、なんで降格くらったんすかー?」
「この……っ!」
向かって行こうとする沖山を隣の新富卯があわてて止めた。
シェイラはへらへらと笑みを浮かべ、憂さ晴らしできる相手を待ち構えている。
「――くだらない」
バベル言語での痛烈なメッセージに、全員が振り向いた。
発言したのはマリーだ。
険悪ムードだった選手たちは、マリーの真っ黒のゴーグルをぽかんと見つめて、毒気を抜かれた様子だった。
「時間がもったいないわ」マリーは席を立った。「わたし、練習してきます」
近くにいた井上百合が小声で止めた。「マリー待って!」
「ノン」
「そっちは壁――」
遅かった。マリーはぼこんと壁に弾き飛ばされた。
「大丈夫!?」
わあわあ言いながら同期たちが駆けつける。
その刹那、頑なな態度を見せていた選手たちの表情に変化が起きた。みな下や横を向いて見えないようにしていたが、不安や焦燥が顔にはっきりと表れていた。
「うーん、どうしたものか」
大下は剃り上げた頭をつるりと撫でた。
「とにかく、選手のサポート体制を整えてください」と有町は直言した。「シーズンがもうはじまるのに、監督がいないなんてありえません」
「親部隊がよこしてくれんことにはな」と河村が横から答えた。
「そうでしょうけど、でも」
有町は部屋の中を見渡した。
「みんな、見捨てられたような気持ちになっていると思うんです。今までの頑張りを否定されて、どうしたらいいかもわからない。こんなときこそ、しっかりとした支えが必要だと思います」
大下は深くうなずいた。「どうにか、やる気になってもらわないとね」
◇
トレーナーの高梨の手伝いで、クラブハウス地下のウェイトルームに入った雄吾は、目の前の光景に呆気にとられた。
トレーニングマシンのところに陣取って、笑い声を立てながら談笑している選手たちがいる。
シェイラ、小方はたよ、レ・ティ・ホアの三人だ。彼女たちはまったく汗をかいておらず、シェイラに至ってはウェアに着換えてもいなかった。
ちゃんとトレーニングをしている選手たちは、三人組のことを無視していた。それだけでなく、自分以外の人間がいないかのようにふるまっていた。
あの真中真心でさえ例外ではなかった。彼女ならこの状況に口出しせずにはいられないはずだが、ガラス戸に囲まれた素振り部屋に篭もってまわりを締め出していた。仮相環境での打撃練習なら眼鏡かコンタクトレンズで充分なのに、かさばるヘッドセットをつけて視覚も聴覚も外部と切り離すという念の入れようだ。
ここにいないマリーや新人たちは屋外で汗を流している。だだっ広いフィールドに彼女たちしかいないというのはいかにもさびしい感じだが、ほかの誰も全体練習など望んでいないようだ。
この女の子たちの集まりはチームとしての体を成していなかった。それぞれが別々の方向に向かっていた。
雄吾は困惑した視線を高梨に投げかけた。
自らもスポーツに身を賭した経験のある女性トレーナーは、理解に苦しむといった感じでかぶりを振るだけだった。
「あんなにばらばらでいいのかな……」
バイト中ずっともやもやしていた雄吾は、帰り道でマリーと話してみた。
「しょうがないと思うわ」というのがマリーの回答だった。「プロの世界で生き残るには、まず第一に自分のことを考えないと。ただでさえわたしたち、いちばんうしろを走ってるんだから……」
そう言いつつ、唇が不服そうに尖っているのを雄吾は見た。その口ぶりは自分に言い聞かせているようでもあった。
思案がちに顔を横向けたマリーの、真っ黒のゴーグルをかけた姿が車窓に反射していた。
外はとっぷりと日が暮れて、市バスの車内はがらんとしている。
サニーグラウンズの道向かいの停留所から小倉南区の住宅街に向かうこの路線は、夕刻のラッシュを過ぎると利用客がめっきり減るようだ。
「でもさ、あのやる気のない人たちはなんとかしないと」
「そうね」
「今日、注意しようとしたんだよ。でも逆に俺が高梨さんに言われてさ、それはゆう坊の仕事じゃないよ、って」
「その通りね」
「ええっ?」
雄吾の抗議の声と、マリーの笑い声が重なった。
「ゴメンネ。でもユーゴ、あなたの口に言葉を託すのは危険よ。平気でビーンボールを投げるんだから」
「俺だって考えて喋れるよ……」雄吾はもごもごと言い返した。
ふと、マリーは宙を仰いだ。
「ユーゴ、オーシタサンから通信」
ゴーグルのAIがマリーにそう伝えたらしい。
「俺たちふたりにか?」
雄吾は端末眼鏡をかけて左腕の内側(受信チップを埋め込んでいる)を見つめ、浮き上がってきた仮相アイコンに指先で触れた。
耳かけに内蔵された骨伝導イヤホンから、大下の快活な声が聞こえてきた。
「やぁやぁ、お疲れさん!」
「お疲れさまです」
「デス」
「ちょっと前のほうを見てくれないか」
「前?」
雄吾は背筋を伸ばして車内前方に眼をやった。何かが床の上でぴかっと光った。
それは大下の生首だった。
「うあぁっ?!」
「?」とマリーは首を傾げた。
「はっはっは!」と床から首だけ飛び出た大下は満足げに笑っている。「やはり運転中の重像通信はいかんなぁ。位置情報がブレるブレる」
「子どもみたいなことしないでください!」
その子どもだましの手口にまんまと引っかかった雄吾は耳まで真っ赤になっていた。マリーの目に入らなかったのがせめてもの救いだ。
「まぁ本題に入ろう」と大下は言った。「明日、君たちに手伝ってもらいたいことがある」
◇
どの競技のどのチームのロッカールームにも共通して言えることは、そこに四季があるということだ。
毎年夏が来るように、試合に勝った後のそこはいつも熱気と活力で満たされる。
選手がユニホームに着換えているときなどは、生命が動き出す春にたとえられるだろう。
その観点にもとづけば、サニーグラウンズのロッカールームは季節が狂っていた。練習前だというのに、まるで敗戦後の冬のように冷え冷えとしていた。
選手たちは黙々と、あるいはだらだらと、まっさらなユニホームに袖を通している。
問題児の三人組は中央のソファにいた。
「オイ、Bチームの試合、また雨で中止になってるゼ」
ツイッターをチェックしていたベトナム出身の左投手、レ・ティ・ホアの報告に、シェイラはちっと舌打ちした。
「あいつら、楽してからに」
「ねー、ウケる!」と地元出身の右投手、小方はたよはケタケタと笑った。
スポーツブラにボクサーパンツ姿のシェイラは、ため息をついてソファの背にもたれかかった。
「めんどくせーっ、ここも雨降ればいいのによ」
練習開始の時刻になり、黄色と緑の集団はぞろぞろとロッカールームを出た。
「ん?」
通路の出口から、革と革の反発する音が聞こえてくる。
「なっ……!」
ダグアウトに出てきた選手たちは一様に目を丸くした。
フロントオフィスのスタッフたちが総出で、フリーバッティングの準備をしているではないか。
そこには球団幹部の姿もあった。大下と河村のふたりが打撃投手としてウォーミングアップをしていた。
「ふんっ……」
左腕からなかなかの速球を繰り出した大下は、選手たちに気づいて大きく手を振った。
「やぁ、君たち、もう練習の準備はできているぞ!」
言葉を失っている選手たちのうしろからコーチ陣が現れた。
「みんな何してるの、練習はじめますよ!」
有町コーチに尻をはたかれた選手たちは、ひとり、またひとりとダグアウトを飛び出した。
大下はまだ手を振っている。「おーい、早く来なさーい」
「うるせえ! アップぐらいさせろ!」
そう言い返す玉井コーチの顔は笑っていた。
外野の芝を駆ける選手たちの顔にも笑顔が洩れている。
サンフラワーズにようやく春がやってきた。




