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play by play 2

 揺れる、滑る、落ちる。

 ジヒョンのナックルボールに打者のバットは空を泳いだ。

 主審が三振をコールするより早くカレイドは腕を振った。その送球は盗塁を試みた一塁ランナーを追い越した。


「タッチ、アウトー! ふたつアウトをとりました!」

 実況アナウンサーの興奮した声にチェリーズファンの歓声が重なる。

 ダグアウトに戻る途中、ジヒョンとカレイドはグラブタッチをした。お互いにことさら喜ぶでもなく、当たり前のことを当たり前にやったという感じだ。


 マリーはそのシーンをブルペン内のモニタで観ていた。

 CMに入る直前、ILP2のロゴと【春季教育リーグ】の文字が左上に映った。


 開幕前調整試合プレシーズンマッチのことを日本では「オープン戦」と言うが、2部リーグのオープン戦は「教育リーグ」という別の名前がついている。ただ、リーグ公式ロゴは1部と2部でほとんど同じデザインだ。


 モニタがテレビ放送用の映像から関係者用の場内映像に切り替わった。

 外野席上方の巨大なスコアボードが映し出され、福岡チェリーブロッサムズB対四国クローバーズBの一戦が4イニング目に入ったことを示した。


 先発のジヒョンは快調にアウトカウントを増やしていた。そしてマスクをかぶったカレイドはジヒョンのナックルボールを難なく捕っていた。ワンバウンドになってもだ。

 ランナーが球速の遅いナックルを狙って盗塁を試みても、しっかりと刺せるだけのクイックネスも持っている。

 彼女がいるからこそ、ジヒョンは自分のピッチングに集中できているのだ。


 これほど強力なバッテリィが、日本というパールボール後進国にいる事実に、マリーはまず驚き、次いでそんな自分を恥じた。


 眼が覚める思いだ。全力でぶつかってもかなわないかもしれない相手が身近にいる。その彼女たちもまた、さらに上を目指して戦いに挑んでいる。


 マリーの望んでいたゲームがここにある。

 めらめらと闘志がわいてきた。


「マリー?」

 スタッフに名前を呼ばれて、マリーははっと我に返った。


 マネージャー兼ブルペン捕手の花田だ。直球派セットアッパー、池田エライザとのブルペンセッションを終えたばかりの彼女は、マスクとミットを手に持ったままやってきた。

 マリーは特製サングラスの通訳機能をONにした。


れいちゃん見なかった?」

「ノン」

「どうしよう……あの子、そろそろ肩つくんなきゃいけないのに、どこ探してもいないんだけど」

「嘘でしょう?」とマリーは思わず椅子から立ち上がった。

「だったらいいんだけど……いっしょに探してくれる?」

「ウィ!」


 選手ロッカールーム、素振り部屋、トイレと当たってみたが、すべて空振りだった。

「どこ行ったのかしら……」

 通路を歩いている途中、トレーナー室のほうから何か聞こえた気がした。

 開けっ放しのドアから中に入ってみたが、誰もいない。


「?」

 首をかしげるマリーの背後で、キィィ、バタンとドアが閉まった。

 ドアの裏側に細長いいきものが張りついていた。


「――わりだ終わりもう終わり終わり終わり終わりもう無理ムリ無理ムリ無理ムリ今度こそくびだくびくびくびくびくびくび……」

「何してるの?」

 美波はゆっくりと振り向いた。

 涙と鼻水とよだれで顔がぐちゃぐちゃになっていた。


「マリィィィィイイ」

 美波はマリーにすがりついた。

「どぼじよぉ! ウニボームなぐじじゃっだぁぁあ!」

 その叫びは未熟なバベル言語となってマリーに届いた。――ユニホームをなくした?


「落ち着いて、ミナミ!」とマリーは彼女の肩をさすった。「あなた、ユニホーム着てるじゃない」

 美波はぶんぶんと首を振り、いろんな液をまき散らした。「こで練習用でじょっ?!」

「それでいいのよ」

「へあっ?」

「調整試合だから、シーズン用のユニホームは着ないのよ」

 美波は蛇口を閉めたホースみたいに静かになった。



         ◇



 6イニング目に入ったジヒョンはピンチを迎えていた。

 一死ワンアウト、一・三塁。

 ピッチャーズボックスに野手陣が集まり、ダグアウトから天保ピッチングコーチが出てきた。


「ジヒョン」と言って天保は右手を出した。

 サウスポーは悔しげにボールを渡し、ダグアウトに向かった。

 入れ替わりに出てきた美波とすれ違うとき、ジヒョンはものすごい顔でにらみつけたが、美波のほうはずっと顔を伏せて見ていなかった。


「中久保さん!」

 ねぎらいのハイタッチを受ける前に、ジヒョンはいきなり大きな声を出した。

 そこには東京にいるはずの中久保監督がいた。


 彼はチームのロゴが入ったキャップとポロシャツを着ている。日本のパールボールにおける男性指導者はおおむねこのスタイルだが、パールボールの本場である欧州ではスーツを着る監督が圧倒的に多い。


 中久保は遠征中の身ながら、向こうはナイトゲームで昼は時間があるため、重像機レイヤーを使ってベンチに入っていた。


「なんでウチに代わって零なんか出すん? しかもこんなピンチに!」

「落ち着け」と中久保は言った。「これはオープン戦だぞ。おまえがおりるタイミングも継投の順番も最初はなから決まってるんだ」

 ジヒョンは舌打ちした。「んなの知っとぉよ」


 愚痴りながらジヒョンは中久保に向かって歩いていき、そのまま彼の首から下をつらぬいてベンチ裏に下がった。

 重像機レイヤーの波が乱れ、中久保の仮相の胴体はぐにゃぐにゃに歪んですぐには戻らなかった。


「こら、カメラに抜かれてたらどうする!」

 中久保の顔は紅潮した。メディアに「若い選手を操縦できないおじさん監督」呼ばわりされるかもしれないと思ったのだろう。

「なんで中久保さんおると?」

「暇なんやろ」

 選手たちはそう囁き合った。


「――プレイ!」

 美波はセットポジションをとり、肩越しに一塁ランナーをちらちらと見た。しかしランナーはリードをとるどころか、まったく動く気配がない。

 パールボールでは、投球猶予グレイスがかかっているあいだ、ランナーはベースから離れられないのだ。


 不要な警戒心があだ・・になったのか、美波の投球は二球続けてストライクゾーンをはずれた。

「何しよんかちゃ……」

 ダグアウトに戻ってきたジヒョンが呆れたようにつぶやいた。

 そこへマリーが息を切らしてやってきた。ブルペンから走ってきたのだ。


「ボール!」

 三球目もはずれた。

 チェリーズファンのざわめきとクローバーズファンのよろこぶ声が混じり合い、膨大な雑音となってグラウンドに降り注ぐ。

 クローバーズのベンチからも味方の打者にゲキが飛ぶ。

 視線の中心にいる美波は、隠れ場所を探すかのように下を向いた。


「ミナミ!」

 マリーの声が届き、美波は振り向いた。

「時計は気にしないで! ゆっくり!」

 美波は切羽詰まったように下唇を噛んでいたが、それでもしっかりとうなずきを返した。そしてキャッチャーに正対してグラブを構えた。


「ワインドアップ……!」

 チェリーズベンチからネガティブな驚きの声が洩れた。

 しかしその投球で美波はストライクをとった。


「グレイスが切れたらどうするんだ」中久保は眼を剥き、隣の天保コーチを非難するように見た。「二塁がフリーパスになるぞ」

「ホームに還さなければいいのよ」とマリーがグラウンドのほうを向いたまま言った。


 次も美波はワインドアップで投げた。そのボールは右バッターのふところに向かってグイと曲がった。

 打ち損じた。おあつらえ向きのゴロだ。

 五・四・三メリーゴーランドのダブルプレイ。


「やった!」

 マリーは飛び跳ねた。ダグアウトにいるほかの人たちは唖然としていた。美波もそうだった。

 彼女は無失点で切り抜けたのが信じられないかのようにピッチャーズボックスの中で立ち尽くしていた。


「ナイスピ!」

 ライトから戻ってきた真中に尻をはたかれ、美波はようやく我に返った。そしてスタンドからの拍手と指笛に気づいた。

 そのすべてが自分に向けられているという実感が少しずつ、少しずつ彼女の顔に表れていった。


         ◇


 左打席に立ったカレイドが左中間を叩き割り、一塁ランナーの対馬が長躯ホームを陥れた。

「よっしゃぁあ!」

「キャレイドー! つうちゃーん!」

 ダグアウト近くの観客の声は選手たちにもよく聞こえる。自分の名前を呼ばれた対馬は気を良くして、高笑いしながら戻ってきた。

「オーッホッホッホ! さすがわたくしですわ!」


 対馬と入れ違いに、二塁手のシェイラ・ジャーナがダグアウトを出た。彼女の褐色の肌とゴールドブラウンの髪はブラジルの太陽の恵みであったが、その表情はサンバの陽気さを失ってしまったかのようにひねたものになっている。


 ネクストバッターズサークルにいるシェイラに、数人の男たちがにやにやしながら近づいていき、フェンス越しに野次を飛ばしはじめた。

「シェイラ、おまえの記事見たぜ」

「全国デビューおめっとー!」

「今夜はどこのクラブに行くんだ?」

「今度はおれらもお仲間に入れてくれよ」


 シェイラは反応せず、バットのグリップに滑り止めスプレーをかけた。

「おい、聞こえてんだろ!」

「スルーしてんじゃねえよ!」

 いきなりシェイラは振り向き、スプレーを彼らに向けて噴射した。

 距離があいているので届きはしなかったが、連中はのけぞり、腕で防御する仕草をした。


「あ、何しやがる!」

「てめえ反省してんのか!」

「あびらんけ!」とシェイラは日本語の方言で言い返した。「な租チンたーや」

 警備員がやってきて揉み合いがはじまった。


「チッ……程度の低い連中め」

 ダグアウトの中で、中久保は人知れず罵りの言葉を洩らした。

「監督」

 天保コーチの声に、中久保はびくっと首をすくめた。


「美波が、次の回も行きたいと言っています」

「何ぃ?」

 中久保が見やると、美波は視線をはずして下唇を噛んだ。期待とあきらめが二対八の割合で表情ににじんでいる。

「この子は三月になってから点を取られてないんですよ」とコーチは続けた。「短いイニングだけではもったいないし、いまひとつ本人の自信にならない。私からも続投をお願いします」


 中久保は思案する仕草を見せたが、それは仮相体がそう見せかけたのであって、東京にいる実体は表情を一変させてぺっぺっと唾をまき散らしていた。


「苦渋の決断ではあるが……悪い」と申し訳なさそうに言う。「おまえのイニングを伸ばすことはできんのよ。ほかの投手の調整プランが狂ってしまうでな」

「それこそ、嬉しい誤算ではないですか」

「なっ……」

「プロは実力の世界でしょう。新戦力にチャンスを奪われたからといって腐る選手などうちにはいないはずです。結果を出しているのにチャンスを与えないことのほうがよっぽど、選手のやる気を削ぐことになりますよ」


 天保コーチに喝破され、中久保は一瞬、真顔になった。が、すぐに鷹揚な態度に戻った。

「はっはっは! こりゃ一本とられましたな。――よろしい。美波、次はおまえを先発で行かせよう」


「本当ですか!?」と美波は言った。

「うむ。そこで結果を出せば、一軍昇格も夢ではなかろう」

「一軍……!」


 美波の視線が宙に浮かんだ。輝かしい未来を想像しているに違いない。

 はっはっはと中久保は笑っていたが、彼は天保コーチの疑いの眼に気づいた。

 そこでシェイラが三振し、チェリーズBの攻撃が終わった。


「そういうわけだから天保さん、次は予定通り池田を行かせてください。私はちょっとトイレに……」

 ダグアウトから仮相体が消え、中久保の意識は実体のほうに向かった。


 そこは東京テディベアーズ本拠地球場内にある遠距離レイヤールームだ。この時間だけチェリーズが借りている。

 といっても、中久保以外には彼の付き人しかいない。


 付き人が持ってきた飲み物をごくごくと飲み干し、中久保は巨大なゲップを放った。

「いいんすか、あんなこと言って」と付き人が眉をひそめて言った。

「あ? あぁ……美波零のことか」

 中久保はフンと鼻を鳴らし、片側の頬を歪めた。笑みとも苦みともつかない表情がそこに浮かんだ。

「……私の知ったことではない」


 その夜の試合は投手戦になったが、チェリーズがリードを守り切ってふたたび勝利を収めた。

「くそ~、ホームで二連敗かよ」

「オープン戦だし気にすんな」

 テディベアーズファンが引き上げていく中、グラウンドではヒーローインタビューが行われた。呼ばれたのはまたしてもルーキーで、しかし昨夜の朝倉優姫とは違い、こちらは初々しいやりとりが展開された。


 インタビュアーがマイクを向ける。「最後に、シーズン開幕に向けての意気込みをお聞かせください」

「はい、えと、あの……明日コンサートやります! ぜひいらしてください!」

 チェリーズ応援団がやんやと騒いだ。「意気込みはどうしたーっ」

「本日のヒロイン、酒井投手でした! ありがとうございました」

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