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start

 大きく振りかぶって、雄吾は渾身の球を投げた。

 しかし、マリーはそれをいとも簡単に芯でとらえた。


「うわ!」

 強烈なピッチャー返しに眼をつぶってしまったが、打撃投手用の防球ネットが盾になってくれた。死んだボールは人工芝の上にぽとりと落ちた。


 眼を開けた雄吾は、信じられない気持ちでボールとマリーとを見比べた。

 マリーは左打席に立っている。その滑らかなスイングは本来右打ちのバッターとは思えないものだった。


「ユーゴ、次はマシンで打つわ。準備手伝って」

「う、うん」


 端末眼鏡をかけ、アプリを操作する。

 待機していた豆戦車のようなピッチングマシンが目を覚まし、所定の位置に向かって行った。


 雄吾はふと時間を見た。

 パイプだらけの天井の下、周囲を取り囲んだ緑色のネットの向こう、コンクリートの壁にひし形の時計がかかっている。

 午後七時四十分。


 平和台トレーニング施設の地下練習場には、常駐の管理人と医療ロボットがいる。だから練習時間の心配をする必要はない。

 だが――

 雄吾はマリー自身の時間を案じていた。つまりはスタミナ切れを。


 練習場への移動中やブルペンでの待機中など、不要なときはこまめに機械の電源を落とすようにしている。

 けれど、そのやり方で眼の調子が維持できるかどうか、まだはっきりとはわからないのが現状だ。


 バン!

 最新鋭の打撃練習用機アイアンマイクが放ったボールは、捕手代わりのゴム板に食い込んで大きな音を立てた。

 もしもショッピングセンターか遊園地でこんな音が聞こえたら、一大パニックを引き起こすだろう。


 雄吾は思わず、隣にいるマリーに振り向いた。

「大丈夫か」

「え?」

 マリーはちょっとまばたきをしたあとで、事情が呑み込めたように眼で笑った。

「今それを確かめてるところよ」


 そういうことだ。

 暗闇の中を転ぶまで走り続ける。それがマリーと支援者たちの選んだ道なのだ。

 とはいえ、傍から見ているほうは本当に気が気でない。


 さらにもうひとつ、雄吾には心配事があった。

 技術的なことなので、素人の自分が口出しすべきでないと頭ではわかっているが、雄吾の口はそれほど利口ではなかった。


「どうして左で打つんだ?」と、つい訊いてしまった。「まさか、転向するわけじゃないよな」

「それも良い考えだけど、違うわ」とマリーはおどけた感じで肩をすくめた。「左に立つのには目的があるの。ボールをしっかり見る、新しい感覚でスイングする。このふたつを身体に教えるためよ」


 話しながらマリーが向かったのは、右打者用のバッターボックスだ。

「右で打てなかったのはその逆。ちゃんとボールを見ずに、昔の感覚で振ってたから」

 打席の土にスパイクの歯を噛ませながら、マリーの言葉はだんだんひとりごとのようになった。

「そう、昔と今のわたしは違う……」


 マリーが構えをとったのを感知し、アイアンマイクが動き出した。

 やや外寄り、130キロのまっすぐ。

 マリーはスイングしたが、こすった打球が真上のネットを波立たせただけだった。


 二球目。

 さっきと同じような投球がホームに侵入し、そのまま通過していった。

 仮相環境に表示されている観測装置からの報告によると、マリーのバットはあと数ミリというところで間に合わなかったようだ。


「球速落とそうか?」と雄吾はついつい口を挟んだ。

「そのままでいい!」

 邪魔をしないほうがよさそうだ。

 雄吾は飲み物を取りに行った。すると背後で快音が響いた。

「当たった?!」


 振り向いた雄吾には、きれいなフォロースルーの残身が一瞬見えただけだった。

 しかしマリーはすぐにリプレイのような快打を見せてくれた。


「やった!」雄吾は思わずガッツポーズした。

「球速上げて」

「えっ?」

「はやく!」怒鳴るついでみたいにマリーはまた打った。


 雄吾はあわててマシンの設定をいじった。

 果たして、アイアンマイクの吐き出した140キロの速球を、マリーはさらに速度を加えて叩き返した。

 観測装置によれば、その打球は150キロを超えていた。

「すごい……」


 アイアンマイクは次の投球の前に停止した。マリーが構えをといていた。

「スイングが強くなってるの。新しい感覚だわ。バットが軽く感じる」

 マリーは振り向いて、にこっと笑った。

「夏のあいだ、雄吾とトレーニングしたおかげね」


 雄吾は眼をしばたたかせた。

「あの夏は、無駄じゃなかった……?」

「見てて」とマリーは言った。


 もはや練習ではなく、ショウを見ている気分だった。マリーがバットを振るのはボールに当てるためではなく、新しい打楽器をつくりあげるためであるかのようだった。


「おい、シスコン」

 はっとして、雄吾は振り向いた。

「だ、誰が……っ」


 真中真心だ。

 なにか言いたげな眼でじろーっと雄吾を見ている。

 そのままの表情で、親指をくいと背後に向けた。


 要は打撃投手バッピをやれということだった。

「強引なやつ……」

「ほら、肩慣らし!」

 真中はいきなり投げてきた。それを雄吾はとっさに受け止めた。


「あらま」と投げたほうが驚いている。「よく捕ったわね」

「いっつも付き合わされてるからですよ」

 雄吾はカーブを投げた。


「良いわね。しつけ甲斐がある」

「何?」

「明日から朝練も来なさい」

「どういう理屈だよっ」


「時間がないのよ!」と言って、真中はぐんと伸びるボールを投げた。

 雄吾は顔を逸らしたが、まぐれでグローブに収まっていた。


 真中はヘルメットを被り、バットを手にして左打席に立った。

「もうオープン戦は半分を過ぎてるんだから……」



         ◇



 同時刻、東京、お茶の水。

 解説席。


「ILP1、東京テディベアーズ対福岡チェリーブロッサムズのオープン戦ナイトゲームをお送りしています。

 ただいま客席ではセブンスイニング・ストレッチが行われている最中ですが、ここまでの試合の流れ、いかがですかハリーさん」


「喝だ!」

「と、いいますと?」


「決まってるでしょう、テディベアーズに喝ですよ。これが去年の女王のする試合ですか、え? 相手のエースを打てないのはしょうがないにしても、ルーキーに2本も大きいのを打たれて」

「はい。十五歳の新星、朝倉が今日もホームランを放っています」


「まぐれだよ、あんなの」

「ほお、まぐれ」

「あの子はブンブン振り回すでしょ。それにフォロースルーで片手が離れる。あれじゃ精密なスイングにはなりませんよ。三振も多いでしょ?」

「ホームランと三振でオープン戦トップですね」


「そうでしょう。身体ができてないのに大きいのしか狙ってないんだから。今はまぐれでバットに当たってるけどね、まだ一軍で使うレベルじゃありませんよ。でもほかにいないんでしょう。山本が抜けたしね」


「指宿も今シーズンからフロント専任になっています。三、四番が抜けたチェリーズ打線の救世主となれるでしょうか、朝倉、三打席目のバッターボックスです」


 打音と歓声が轟き、放送席のふたりはまったく同じような表情と首の動きで、放物線のゆくえを追った。



         ◇



 雄吾は祖母の家に戻るなり、座る間もなく荷造りをはじめた。

 そんな息子を、朱里絵は不思議そうな面持ちで見ていた。


「え、小倉に戻るの?」と朱里絵は驚いた顔で言った。「今から?」

「明日、朝からバイトなんだ」と雄吾は言って、祖母がつくり置きしてくれた夕食にありついた。「いただきます」


「ねえ」と朱里絵は廊下のほうに声をかけた。「マリーは明日、博多ここで試合なのよね」

「そうよ~?」

 風呂上がりのマリーがタオル一枚の格好で顔をのぞかせたので、雄吾は食事をのどに詰まらせそうになった。


「母さん!」

「なによ、やかましい」

 朱里絵は怪訝な顔。マリーはぺたぺたと廊下の向こうに歩いていった。


「……マリーと俺は別のチームになったんだよ」

「ふうん? じゃあ」

 朱里絵はテレビを――骨董趣味の祖母が維持費に数十万もかけている平成初期の代物を――流し目で見やった。

「あの子も今から、福岡に戻るわけ?」


 なかなか興味深い映像だった。お立ち台に上がった朝倉優姫がフラッシュの一斉砲火を浴びている。

 その表情たるや、苦笑と冷笑と嘲笑とを混ぜたら奇跡的にできあがったというような完ぺきなトクガワ・スマイルだった。


「向こうのチームは明日も東京」

「えぇ? 意味わかんない」

「俺もよくわからないけど、あっちはあっちで、マリーにはマリーの戦いがあるんだよ」

 雄吾はコップを持って立ち上がり、冷蔵庫に向かおうとした。


「じゃあ、雄吾はどこに行くの?」と朱里絵が不意に言った。

「だから、俺は大下さんのところで――」

「違う。進路の話よ」

 雄吾は不意をうたれた。

「河田先生が心配してたわよ。クラスで進路希望出してないのは雄吾だけだって」


 違う、と言いかけたが、なんとか口を閉じた。ここで母に言ってもしょうがない。

「まだ決めてないの?」

 雄吾は首を振った。

「じゃあ早いとこ先生に伝えなさい。私は……私もヴィクトルも、雄吾が決めることにとやかく言うつもりはないから」


 朱里絵はぶきっちょな微笑を浮かべた。

「雄吾がどんな道を選ぶのか、楽しみ」

「……わかってるよ」

 雄吾にはそれだけしか言えなかった。


 もっとうまい返事があったろうかと、小倉に帰るヘリの中で考えたが、別のことが頭に浮かんで邪魔をした。

「おまえの推薦状は書けん」

 河田の言葉だ。

 夕日が差し込む進路室で、担任教師は背中越しに雄吾をちらりと見やった。


「高校スポーツは、中学までの部活とはわけが違う。特に高校野球はな。あそこはおまえの考えているような甘い世界じゃない」

 雄吾はきつく噛んでいた奥歯を開放し、なるべく平静に声を出した。

「……そう言うと思ってました」


「まぁ聞け」と河田は言った。「おまえはよくボールを捕り逃がして頭にぶつけていたな。軟式だからよかったものの、あれが硬球だったらどうなっていたか、考えたことはあるか?」

「…………」


「眼医者に聞かされただろう。立体視のできないおまえは、ボールがどこにあるのかわからない。遠近感や空間把握の欠如はボールゲームでは致命的だ」

「斜視の人間は球技をやっちゃいけないんですか」と雄吾は反射的に言い返した。


「ヒロインぶるな」と河田は一喝した。「おまえの頭は、グローブ代わりにするよりもっと良い使い道があると言っているんだ」

 雄吾は押し黙った。


「……あんたが正しいことくらい、わかってるよ」

 こんな負け惜しみしか出てこない。早々に部屋の扉に向かった。

「失礼します」

「高梁」と河田が声を投げてきた。「野球は続けろ。――おまえの野球をな」

 

 雄吾は眼を開けて、前の座席をぼんやりと眺めた。

 輸送ヘリの性能か、J軍パイロットの操縦の腕か、機体はほとんど揺れもなく、静かに夜空を飛んでいる。


 窓の外には弧を描く月が浮かんでいる。

 あの月が円のかたちになるころ、雄吾は中学校の制服に別れを告げる。


 マリーの進歩と真中の焦りを思い、そして自分の歩みが向かう先に眼を向けて、雄吾はあるひとつの教訓を胸に刻んだ。

 時間は誰にも同じ速さで流れるのだ、と。

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