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バッテリィ

 ブルペンに入ってきたマリーは防具を身に着け、左手にマスクとミットを持っていた。何のために現れたのかは明らかだ。

 しかし、その右手を球団職員の女性がしっかりと握っている。周囲が騒いでいるのはそのせいだった。


「ひとりで歩けないのか」

「大丈夫かよ」

 観客のざわめきが大きくなり、それを嫌って選手たちも手を止めた。


「雄吾、あれ……」

「指宿さんの命令だよ。ああしないとブルペンに入れないって」

 雄吾は悔しく思った。マリーもまた、この仕打ちを限りなく不服に思っているようだ。それは表情からわかる。

 やっと手が離れると、マリーは自分を落ち着かせるように長く息を吐いた。


「あんた、そこでなんしよん」

 その声はブルペンの中を静まり返らせた。

 投じたのはジヒョンだった。

「誰ちゃ、こんな茶番考えよるのは」

 ジヒョンは近くにいるスタッフひとりひとりをにらみつけていった。


 二軍ピッチングコーチ、天保てんぽう有里ゆりがなだめに来た。「なん、大きな声出して」

「天保さん、ウチ、あの子相手やったら投げんけ」

「何言いよんの、あんた」

 芸能部のマネージャーも来て説得をはじめたが、ジヒョンは頑なで、ついにはブルペンの出口に向かって歩き出した。


「キャッチャー変えてやれ!」

「どっちが主力だと思ってんだ!」

 雄吾は一瞬眼を疑った。観覧席から野次を飛ばしたのは、黄色と緑のグッズを身に着けたサンフラワーズファンだった。

 すぐさま対応に行ったサンズ所属のスタッフとも顔見知りのようで、つまみ出されるあいだもずっと言い争っていた。


にもならないんじゃ、もう居場所ないよ」と記者の声が洩れ聞こえた。


 マリーはそんな状況で、ただ拳をぎゅっと握って耐えていた。しかしその姿はあまりに惨めで、雄吾は思わず眼をそむけたくなった。


 そこである顔を見つけた。

 美波だ。選手用出入り口の小窓から、中の様子をうかがっている。


 考えるより先に、客席の柵を飛び越えていた。

 雄吾に気づいた美波は、身をひるがえして逃げようとした。


「美波!」

 ブルペンの外で捕まえた。

「な、何?」と美波は警戒した様子で言った。

「おまえ、マリーに投げてくれよ」

「やだ! なんであたしが……」

「頼む」雄吾は美波の右腕をぎゅっと握った。「おまえしかいないんだ」



         ◇



 まだスタッフと言い合っているジヒョンのもとに別のキャッチャーが近づいてきた。彼女がマスクをはずすと、涼しげな美貌があらわになった。


「ジヒョン、少し落ち着きなさい」

「カレイド姉さん……」

 先輩に諫められてジヒョンはおとなしくなった。

 同じコリア系で、年齢も入団期もひとつ上のカレイドのことを、ジヒョンは本当の姉のように慕っている。


「この子は私が受けます」とカレイドは言った。

「いや、しかし……」

 スタッフが何か言おうとしたが、ファンの大声がそれを吹き飛ばした。

「カレイドー! 頼む!」

「次の正捕手はおまえだーっ!」


 この様子を見てか、お付きの女性スタッフがマリーを退場させようとした。

「もう行きましょう」

 そのときだ。


「マリー!」

 ぐんと伸びてきた速球をマリーはとっさに受け止めることができた。

 鳴り響いたミットの音に、周囲は驚きと困惑でどよめいた。


「ミナミ……」

 恥ずかしそうにサンバイザーを深くかぶりなおして、美波はグラブを掲げてみせた。

 マリーはそのサインに、うなずきと返球で応えた。


「な、何するの! 危ないじゃない!」

 そばで尻もちをついた女性スタッフがわめいたが、美波は構わず二球目を投じた。ひいいと悲鳴をあげ、女性スタッフは四つん這いで逃げ出した。


 突然はじまったキャッチボールを、誰もがぽかんと見ていたが、やがて気づく者がひとり、ふたりと出てきた。

「あの子、ちゃんと捕ってるぜ」

 だが、もっと冷静な者はこう言う。

「いや、まだ本気で投げていない」


 マリーがマスクをかぶって座り、美波がフル・モーションで投球に入った。

 脚の上げ方に独特のリズムがある。そのリズムに合わせてマリーはミットを構える。


 投げた。

 伸びやかな速球がマリーのミットをしたたかに撃った。


「おお……!」

「やった」

 手を打ち、ざわめく観衆。しかしマリーには特別な感慨はないようで、美波のリズムを崩さないよう、さっと投げ返した。


 そこで天保コーチがパンパンと手を叩いた。

「みんな、自分の仕事に戻りぃ。スタッフさんも」

 スタッフたちはしぶしぶといった様子で関係者エリアに下がった。


 ほかの投手たちが続々と投げ込みを再開する中、ジヒョンだけはその場を離れようとしていた。

「投げないの、ジヒョン?」とカレイドが訊いた。

 ジヒョンは立ち止まり、背中越しにぽつりと答えた。「あいつの横で、投げたくない」


 美波の眼にはマリーのミット以外映っていないかのようだった。しなやかな腕の振りから放たれた速球は、隣の投手のボールを追い越すような勢いがあった。


「おい、今の……」

「速かったなぁ!」

「誰や、あれ」

 いつの間にか観客たちの視線はホームベースからプレートのほうへ移っている。


「ええ球……」天保コーチは眼を細めた。

 そこへトップチーム監督の中久保が取り巻きを引き連れてやってきた。

「どうですか、投手陣の調子は」


「監督、今年の美波は期待できますよ」

「はっはっは! ……あんたは相変わらずあれ・・が好きだね。賭けごとにハマるタイプだ」中久保は正面を向いて笑んだまま、ほかの人間には聞こえないようにささやいた。


「どういう意味です」天保コーチの顔から笑みが消えた。

「意識を変えなさいよ、天保さん。お互い、栄転した身でしょうに。もう小倉の不良品連中に慈悲を与えるのはよして、あんたの見るべき連中を見たらどうだね」


「わたしは選手全員に期待しています……!」

「ははは。そんなだからあんたは二軍止まりなんだよ」

 中久保はそう言って一軍のピッチャーのもとへ向かった。


 マリーのミットが高々といなないた。

「良いよ、ミナミ!」

 球威もコースも申し分なかった。その一球で満足したのか、美波はマリーのほうに歩いてきた。


 マリーは立ち上がり、軽くキャッチボールをしながら距離を詰めた。

「やっぱりミナミのボールはすごいよ」

 手の届く距離まで来ていた。しかし美波は、マリーが差し出したボールを受け取ろうとしなかった。


「……ごめん」

「え?」

 美波はうつむき、顔をグラブで隠した。

「あたし、本当はエースなんかじゃ――」


「なれるよ」

 美波はグラブの隙間から、マリーの眼をまじまじと見返した。

「ミナミは本当のエースになれる、絶対」


「……それこそ嘘だよ」

「信じて。ね?」

 マリーが右手を差し出すと、美波はグラブをはずしておずおずと左手を出してきた。


 マリーは笑ってミットをはずし、ぎゅっと握り返した。

 美波の顔がぱっと赤くなった。

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