最初の壁
夕食の片づけを終えた雄吾は、リビングの壁掛け時計を確認した。
さっき見たときから五分も経っていない。しかし時刻はもう九時を過ぎているのだ。
「ねえ、マリーから連絡ない?」
ヴィクトルは読みかけの本から眼を上げ、首を振った。「まだないね」
「きっと疲れて寝ちゃったのよ」と朱里絵は言った。
雄吾は自室に戻り、博多の選手寮にいるはずのマリーに電話をかけてみた。
出ないようならすぐ切ろうと思ったが、二回のコールでつながった。
「あ、マリー?」
「じゃないんだよね」
その声に雄吾はぎょっとのけぞった。
「朝倉!?」
「あはは、私の声わかるんだ?」
顔通話の初期設定であるのっぺらぼうのシルエットが切り替わり、ぱっと朝倉優姫が現れた。
「なんでおまえがいるんだよ!」
「え、知らないの?」
「いや……おまえがチェリーズに入ったことは知ってるよ」
「そうでしょ?」
「違くて、マリーはどこ行ったんだよ」
朝倉は悪戯ぽく笑って横を向いた。「お兄さんが呼んでるよ」
相手側のカメラが動いてちらりと室内が映り、そこがまさしく寮の一室であること、横にいるのが風呂あがりのマリーだということがわかった。
「二度目は許さないから」とマリーはぴしゃりと言った。
「スリーアウトまでは許してほしいかな」
余裕のある朝倉とは対照的に、マリーの態度には少し角ばった感じがあった。椅子に腰かけ、カメラ越しに雄吾と向い合せになってもなお、じっと朝倉を見ていた。
「ユーゴの友だちってああいう人ばかりなの?」
「いや、友だちっていうほど仲良くは……」
「アトンデ。髪乾かすから」
あとで、と言ったのかと思って雄吾は気まずく口をつぐんだ。しかし「アトンデ」はフランス語で「ちょっと待って」という、ただそれだけの意味で、別に悪い言葉ではないのだということを思い出し、気をとりなおした。
マリーは乾燥機能のついた細胞療化ヘアブラシで髪を丁寧にすいていた。熟練のグラウンドキーパーが整地を行うのを見るときの、あの得もいわれぬ気持ち良さを雄吾は感じたが、その感覚をマリーに伝えるべきではないということはわかっていた。そういう空気ではないのだ。
やがて手を止めたマリーははじめて雄吾と眼を合わせ、ちょっと困惑したように型どおりの微笑を見せた。自分でも感情を持て余しているといった感じだ。
そこで雄吾は気づいた。「マリー、機械の電源切ってないのか?」
リハビリを経た今、機械の起動時間は大幅に伸びている。とはいえ、それが八時間を超えたことはない。
あまり長く機械を使いすぎると、その翌日に眼ヤニが固まってまぶたが開けられなくなったり、しばらくしみるような感覚に襲われたりといった症状が出る。
しばらくは五時間が限度だろう、と言った館山医師の指示をマリーもよくよく頭に叩き込んだはずだ。なのに――
あ、とマリーは口を開けた。しかしすぐに鼻を鳴らすような噴き出し笑いをした。
「大丈夫よ。練習のあとはただ眼を開けていただけだから」
見るべきものは何もなかった、ということか。パールボールが近くにあるとき、マリーはこういう皮肉を言ったりする。
「そういう問題じゃないだろ」
マリーは一瞬機嫌を損ねた目つきになったが、何も言わずに視線をはずし、自分の左手にじっと眼をこらした。
機械が手相を読み込んで認証を行い、自ら電源を落とすのだ。ものの数秒で完了する。
マリーは何度かまばたきして雄吾のほうに向き直った。「機械を眠らせても、少しのあいだは見えるの。電気を消すみたいにパチッと真っ暗になるわけじゃない。毎回のことだけれど、自分がどこまでプラスチックになったのかわかる気がして、とても興味深いわ」
「俺も興味あるよ。マリーはどこまでがマリーなんだろうって。キャッチャーミットやバットだって身体の一部みたいに見える。マリーにはそういう才能があるんだよ」
雄吾がこういうことを言うとマリーはたいてい笑ってくれるのだが、このときはそうしなかった。顔を曇らせ、ちらと部屋の向こうを見た。
いや、ほとんど見えなくなっているであろうその視線の先から、朝倉の鼻歌がかすかに聞こえてきた。
「ユーゴ、わたし……」
雄吾は言葉を待った。しかしマリーは振りかぶったところで止まってしまった。その手には白球が握られているはずだった。
うすい桃色の唇が閉じていくのを見届けて、雄吾はそっと声をかけた。
「今日は疲れたんじゃないか? もう寝たほうがいいよ」
「ウィ」
「じゃあ……また明日。何かあったら、いつでも言ってくれよな」
雄吾は精一杯元気づけるような笑顔をつくったが、マリーにはもう見えていなかった。
そして雄吾は気づかなかった、自分もマリーの表情が見えていないということに。
少し考えてみればわかる。マリーのような負けん気の強い選手が、競争相手がいる前で弱気や不安を口にするはずがない。
雄吾がそのことに気づいたのは数日後、マリーが練習中に怪我をしたという知らせが届いたあとだった。
◇
機械化病棟のロボットサービスが廊下を走らないよう注意するのを無視して、雄吾とヴィクトルは診察室の前まで辿り着いた。待合のソファに座っていた朱里絵が立ち上がった。
「母さん、マリーは?」
そこで診察室のドアが開き、館山夫妻や看護師といっしょにマリーが出てきた。
器具で目隠しをされたマリーは、三人のほうに顔を向けて力なく微笑んだ。
「球団の医療スタッフから聞いた話では」と館山医師は言った。正確には、彼の姿を投影している重像機が神戸から届けている音声だ。「短距離走の最中に広報スタッフとぶつかってしまったらしい。すぐ近くでカメラをまわしていたそうだ」
「どうしてそこまでして撮らなきゃいけないのかしら」と朱里絵は憤慨して言った。
「まったくだ」と館山医師もうなずいた。
「打撲がありますが、数日で治るでしょう」ちえみ先生の声は重像機を通すとさらに冷ややかに響く。「問題は、やはり眼です」
この日、マリーは朝から調子が良くなかった。それでなくとも、日を重ねるごとに動きが悪くなっていた。ほかのルーキーたちはどんどん調子を上げていく一方だから、マリーの低調ぶりは余計に目立っていた。
やはりぼろが出てきたか――そうささやく声があちこちから聞こえた。
その結果起こったのがあの激突だった。身体の異変が焦りとなり、マリーを30メートルダッシュのコースから逸れさせたのだ。
「眼がちかちかして物が見えにくくなることを羞明と言います。晴眼者でも、疲労がたまるとこの症状をおぼえることがあります。マリーは二日前から、この羞明の症状が昼夜問わず断続的に起こるようになったそうです」
「マリー」
なんで言わなかったんだ、と雄吾が言う前にマリーは答えた。
「今日も続くようなら言おうと思ってたの」
「でも、急にどうして」
朱里絵の疑問に、ヴィクトルは苦い顔をした。
「〈フェアライン〉のスポーツ倫理担当者から助言を受けたんだ。恒常性に作用するナノマシンを体内に残したままプレーするのは、ドーピング規定にひっかかる可能性が高いと」
「それで、体内に常駐させていた抗炎症ナノマシンを引き上げさせた」館山医師は坊主頭をせわしなく撫でた。「代わりに特製の目薬を用意して、この半月ほど慣れさせておいたんだがなぁ」
「何も問題なかったのよ」マリーはぽつりと言った。「練習がはじまるまでは」
「プロのトレーニングか」館山医師は腕組みした。「いつもどおりとはいかなかっただろう。普段とは違う環境に置かれたとき、マリーの眼がどのように反応するか、はっきりとつかめていないのが現状だ。太陽光が最も影響するのはたしかだが、ほかにも小悪党がいると考えたほうがいいだろう」
ヴィクトルは座っているマリーの肩に手を置いた。「解決策は?」
「すぐできることは、休養ですね。たっぷりと眼を休めることです。そしてこれからは競技中もなるべく休憩を挟んで、あまりプレッシャーがかからないような状況で――」
「それじゃゲームにならないわ」とマリーは言った。
「でも、マリー……」
「大丈夫」とマリーは雄吾の声に振り向いた。「わたしがもっと強くなればいいのよ」
「よし、それでいこう」館山医師は妻が何か言う前に宣言した。「まだ開幕まで時間がある。少しずつ準備を整えていけばいい」
「そうよ。早くに課題が見つかってよかったじゃない」と朱里絵も言った。
「うん!」
屈託のないマリーの返事に、雄吾だけでなくちえみ先生までふっと笑みをこぼした。




