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スカウト襲来

「ほーんと、笑っちゃうわよね」

 朱里絵がひーひー笑い転げているのが聞こえる。

 雄吾は羞恥心に耐えながら、マリーの病室の風呂場で手短に着替えを済ませた。

「母さんめ……」


 すぐそこで動画を撮っていた朱里絵に気づかなかったのは本当に不覚だった。わざわざ老舗の寫眞館から記念撮影用ドローンを借りていたのだ。

 これがまた最高級の代物で、映りは抜群、スロー再生も自由自在で、雄吾がすっ転ぶ瞬間が顔の肉の振動や汗のしぶきまでつぶさにとらえられていた。


「あっはっはっは!」

「もういいだろっ」雄吾は風呂場を出て抗議した。

「だぁって可笑しいんだもん。ねぇ、マリー?」

 朱里絵はベッドに入っているマリーに振り向いた。


「ええ」とマリーはうなずいて、ふわぁと大きなあくびをした。「時間が残ってたら、わたしももう一度見たのに……」


 おそらくゴーグルの下のまぶたはとろんとしていることだろう。昨夜から気持ちが昂って、あまり寝られなかったという。

 リハビリ中も、マリーにとっては軽すぎる運動なのに、だいぶ汗をかいていた。

 それだけ張りつめていた気持ちが、先ほどの検査で一気に緩んだのかもしれない。結果が出たときは、雄吾も膝の力が抜けた。


 心配されていた眼の異常は、どこにも見られなかったのだ。


 とはいえ、太陽の下に出たあと、マリーの視覚系がどんな反応を起こすのか、神のみぞ知るといった状況に変わりはない。


 ここが最も注意すべき段階だとして、医師たちの勧めでこれから一昼夜の検査入院をすることになっている。


 マリーはそれすら必要ないと思っているようだけれど。


「ジュリエ、監督に言っておいてくれる? わたしはもう準備万端よって。いつでも試合に出られるわ」

「ええ。でももうちょっとの辛抱よ。明日まで何もなければ小倉のおうちに帰れるから」

 朱里絵はそう言ってマリーの頬を撫でた。


 そのとき、仮相環境上に展開していたビデオの画面が切り替わり、病院の受付から通信が入った。オープンビューなので、雄吾の端末眼鏡にもそれが見えた。


「何かしら――はい」

 朱里絵がコールを受け付けると、レセプトの女性職員が顔通話に現れた。

「面会の方がいらしてます」

「へえ? 誰かしら」

「それが、球団の関係者といえばわかるとおっしゃっていて……」


「サンフラワーズの人かも」と雄吾は言った。「俺ちょっと見てくるよ」


 一階の待合ロビーではちょうど病院のロボット・サービスがピアノの演奏を終えたところで、聴いていた患者や見舞客がうるさくない程度に拍手していた。


 雄吾がきょろきょろしていると、知らない男が手を振りながら近づいてきた。

「やぁやぁ、おにーちゃん」と男は言った。関西の訛りだ。

「おにーちゃん?」


 この人は誰だろう、と思っているうちに肘をつかまれ、「向こ行こ、向こ」とひとけのないところに連れていかれた。


「こういうもんですぅー」

 男が差し出した紙の名刺を雄吾はしげしげと眺めた。

 アイドルリーグの西の雄、浪花レパーズのロゴが記されている。そしてこの男は「編成部アマチュア部門 西日本担当スカウト」ということらしい。


「ね? あやしいもんやないでしょ?」

「はあ……」

 この男、にこにこしてはいるけれど、目尻や口の端にこわばりが見て取れ、ちょっと心を許せない感じがあった。小ぎれいなビジネススタイルで身を固めているが、てかてかした茶髪と薄いフレームの眼鏡の奥の眼がどうも胡散臭い。


「そこに書いてある通りのもんなんやけど、実はおにーちゃんに相談があんねん」

「その『おにーちゃん』って何です?」

「自分、マリーちゃんのおにーちゃんやろ」

「何でそんなこと知ってるんですか」


「そらスカウトやからなぁ」ととぼけたことを言う。「あ、でも今日は仕事で来たんちゃうで。ちょーっとお見舞いさせてもおたろ思うて」

「だ、だめですよ今日は」と雄吾はあわてて言った。

「あ、そ? ほんだら別の日ぃにおばあちゃんちか小倉のおうちにお邪魔させてもらいますわ。いつなら大丈夫です?」

「いや、いつとかじゃなくて、その……」


「何や」

 男の声がいつの間にか高圧的になっているのに気づいて、雄吾はだんだん声が小さくなった。「そういうの、困ります……」


「はぁ~?」スカウトマンは眼を剥いた。「なんでそんなんおにーちゃんが決めんの? え? なんでなんでなんで?」

「それは……」


「あっ! もしかしてあんたがた、もう北九州と契約したんやないやろね!」

 いきなり大声を出されて、雄吾はきゅっとのどが詰まった。


「あかんでぇ、それは。あんたがた、キタキューのGMさんと家族ぐるみの付き合いなんやろ? そないなところと契約したらあかんて。癒着やで、それは。立派な紳士協定違反!」


 紳士協定?

 それにどの程度の拘束力と権威と罰則があるのかわからないが、ILP球団のれっきとしたスカウトがこれだけの剣幕で言うのだ。よっぽどのことなのだとしか考えられず、雄吾の頭は今にも恐慌状態に陥りそうだった。


「してないです、そんなこと」とやっとの思いでそれだけ答えた。

「ほんま? あ~~~えがったぁ」

 スカウトマンはおおげさに胸をなでおろした。


「幹部と付き合いがあるアマチュア選手が、その球団に入団するいうんは球界の掟に反するからね。球団も選手もみぃんなが困んねん。それだけは絶対あかんよ、ほんま」

 ぐっと顔を近づけてきて、にんまりと笑い、急に猫なで声を出した。

「悪いこと言わんさかい、キタキューはやめとき。な? な?」


「――いけませんよ、柿崎さん」

 不意に声がして、雄吾はそちらに振り向いた。

 あっとスカウトマンは声を上げた。「か、かのえさん!」


 ガラス戸から差し込む光の中に庚まなかは立っていた。

 このチャイナドレスの一風変わった女性は、地面から染み出したかのように何の気配もなく現れたのだ。


 男は明らかに狼狽していた。「ちゃうんですよ……。ぼくぁただ、お見舞いさせてもおたろ思うただけで……」

「それは結構ですけれど」庚まなかは男の眼をじっと見つめた。「ご家族や本人のご迷惑になっては、この仕事はやっていけませんよ」

「そらぁ……」

 男は表情を歪め、やがて観念したようにうなだれた。


 上司には黙っておきますと言った庚まなかに、スカウトマンは何度も頭を下げ、そのまま下を向いて病院を出て行った。


「浪花レパーズは、先のドラフト会議で思うような指名ができなかったようです。首の寒くなった彼は独断でこのような挙に出たのでしょう」

 彼女はそう語ったが、雄吾の耳にはあまり入らなかった。男のどすのきいた声のせいで、まだ鼓膜が震えていた。


 庚まなかは綺麗な和紙に下半分を包まれたプラント・カプセルを抱えていた。アイリスの花だという。

 朱里絵がそれを病室に飾るあいだ、庚まなかはベッドのそばの椅子に腰かけてマリーの寝顔を見つめていた。

 ふと、雄吾の不安そうな視線に気づいて、にこりと笑った。


「大丈夫ですよ。あのスカウトの言ったことに真実はほとんどありません」

「じゃあ脅しってこと?」と朱里絵は憤慨した様子で言った。「たち悪いわねえ。マリーをよそにとられないためにそんなことするなんて」


「アイドルリーグには」庚まなかはため息するように言った。「強引なやり口で交渉を迫るスカウトも中にはいます。リーグ全体の規律を取り締まる立場としては本当に残念なことです」


「取り締まる? あなたが?」と雄吾は訊いた。

「はい。いつ白状しようと思っていましたが――わたくし庚は〈フェアライン〉のアンバサダーであると同時に、アイドルリーグのコミッショナー付スカウトでもあるのです」


「コミッショナー付……?」

 雄吾にはぴんとこなかった。スカウトというのは他チームを出し抜いて自チームの戦力強化に努める職業であって、リーグ全体を公平に総攬すべきコミッショナーのために働くというのは、どうにも変な気がした。


「ILPは創設五年目の新興組織ですから、各球団のスカウトもまだまだ未熟、それゆえわたくしが各地をまわって彼らをサポートしているのです。――まぁ、彼らのルール違反を未然に防ぐという意味合いもありますけれど」

「さっきの人みたいな」と朱里絵が口を挟んだ。


「あれは、グレーゾーンということに」庚まなかは苦笑して答えた。「わたくしも見極めに苦慮しています。ただ、絶対にやってはいけないのは、学校側と衝突してしまうことです。アイドルリーグに入ってくるのは学生が多いですから」


「教育への冒涜ってやつでしょ」と朱里江は鼻息が荒くなっている。「あたしも学生モデルやってたころ、何回も注意されたわ」


「そうです。今の日本では、学校側が不適切とみなした活動には厳しい取り締まりが待っています。その点、アイドルリーグは存在そのものが教壇を刺激してしまうのです。すべては児童減少に対する国策ですから是非もありません。コミッショナー事務局はリーグ全体にルールの遵守を徹底させようとしてきたのですが……」


「トラブルがあったんですか?」

「幾度となく」

 庚まなかは無念そうに眼を閉じた。


「今のアイドルリーグは混乱期にあります。アイドルリーガーになりたい少女、アイドル球団が欲しい自治体、その他不逞の輩や横暴なファンまで、どんどん押し寄せ、グラウンドになだれ込んでファウルラインを掻き消そうとしているのです。このままでは、満足のいくボールゲームができなくなってしまいます。もちろん、コミッショナー事務局は総力をあげてそれを食い止めようとしていますが……この揺れは当分収まらないでしょう。もし、これからこの業界に飛び込もうとする少女がいれば、考え直してほしいというのがわたくしの正直な気持ちです」


 雄吾と朱里絵は顔を見合わせた。

 庚まなかはマリーの寝顔を見つめている。


「……マリーにはわたくしから会いに行きました。才能豊かな彼女がこのまま競技を離れてしまうのは忍びないと思ったからです。ただ、アイドルリーガーへの道を示すつもりはありませんでした。マリーには時間が必要です。しかし、今のアイドルリーグではその求めに応じることはできないのです」

 彼女は雄吾と朱里絵のほうを見た。

「むしろマリーが、リーグの求めに応じることになるでしょう……否が応でも」


 マリーは鼻の頭をこすり、眠ったまま微笑んだ。どんな夢を見ているのだろうか。

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