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家族

 宵闇を感知したモビリティAIが灯すヘッドライト。

 その光の照らす先に雄吾はぼんやり眼を向けていたが、不意に背もたれが揺れて、右耳の上からなじみのないアクセントの英語が聞こえた。


「ねぇユーゴ、わたしのプレーどうだった?」

 金髪の女の子の気配をすぐうしろに感じる。

 雄吾は視線をあちこちに動かしながら、学校英語でぎこちなく答えた。「君は、良い選手だと思う」


「アリガト」とマリーは嬉しげに言ってサングラスをはずし、座席にもたれた。「でも、まだまだよ。変化球は早く振っちゃうし、速球には遅れちゃう。まわりのレベルに追いついてないの」


「でもあの子たちみんな、マリーより年上なんでしょ?」と横から朱里絵が言った。


 隣に座っていた父母のひとりが教えてくれたのだ。今日の対戦チームのどちらも、十四歳から十七歳で構成されていて、スタメンで十七にならないのはマリーだけだ、と。


 どうしていちばん上が十七歳という中途半端な年齢なのかというと、ほとんどのメンバーが通うインターナショナルスクールが十七歳卒業だし、ユース・ワールドカップもU17、U19という区分けだから、それに合わせていると言っていた。


 ユース? ワールドカップ?

 雄吾には疑問符しか浮かばなかったが、マリーがつい先日、十五歳になったという話題で「えっ?」と何もかも吹っ飛んだ。


 いもうとって、同い年なのか。


「そうよ」とマリーは澄まし顔で言った。「でも、グラウンドじゃ誰も手加減してくれないわ。だからわたしも負けないようにいつも全力だし、たくさん練習するの」その口ぶりは逆転勝ちをおさめた試合の熱にまだ火照っているようだ。「わたし、プロになるのが夢なの。オリンピックにも出たいわ」


 雄吾は眉を上げて、ちらりと仮相バックミラーを見やった。

 ラグランジュ歴――人類の生活圏が月に及んで以降、西暦(A.D.)に代わって使われている暦――になってからこっち、野球はオリンピック正式種目に一度も採用されていない。


 もともと、一部地域にしか普及していないとの理由から五輪に縁遠いスポーツではあるが、近年その衰退は著しく、各地でプロ球団が全盛期の五分の一にまで減っている。

 MLBでさえ生き残るのに必死で、極東やカリブ海のリーグを傘下に収める一極集中によって、どうにか存在感を保っている状態だ。


 マリーが言っているのは野球ではない。だとしたら何か。

「何の種目で、オリンピックに?」

「パールボールよ」当然、といわんばかりにマリーは答えた。


 駐車場に近づいた車の前方に誘導係が現れた。

 そのどこか浮遊感のある人影は、父が好きだと言っていた『銀河鉄道999』に出てくる不気味な車掌にそっくりで、現実に存在しないという点では正しく同類といえる。


 仮相の駐車係に導かれたAI車が鼓動をやめると、雄吾がシートベルトをはずすより先にマリーは外に飛び出した。


「パパ!」

 髭面の大男がマリーを抱きかかえた。雄吾は車の傍でぽかんとしていた。


 大学生のときに雄悟を産んだ朱里絵は、まだ三十代で、雑誌のファッションモデルの経験があり、今はそのモデル時代の仲間と新しい事業の準備をしている。

 そんな朱里絵の隣に、マリーを抱いたその男が立った。


「仕事は片づいた?」と朱里絵が訊ねた。いつもと違う話し方だと雄吾は思った。いつもと違う言語だからだろうか。


「ああ」と男は答えた。温和そうな声。「マリーを迎えてくれて助かったよ」

 そしてこちらを向いた。身体に不釣り合いな小さい丸眼鏡の奥で、青灰色の瞳が笑いかけた。

「おお、ユーゴ。会いたかったぞ」


 雄吾は一瞬のどがつっかえたようになった。日本語か英語ならこんなことにはならないのに。

 

人類共通語バベルなんて。「インコのほうがもっとうまくしゃべる」とコミュニケーション学の講師に笑われるほど、大の苦手なのに。


「……はじめまして。ヴィクトルさん」

 もごもごしたバベル言語での挨拶を、相手はにっこりと笑顔で受け取った。


 朱里絵より一つ年下で歯医者の「ヴィクトルさん」は、がっしりした腕を雄悟の背中にまわした。ハグのあいだ、雄悟の頭のなかでぐるぐる、ぐるぐると思いが渦巻いた。


 この人が、マリーのパパ?

 この人が、俺の父親にもなる……?


 四人で住むための家はすでに見つけられていた。

 すぐに引っ越しが始まった。


 タワーマンションの最上階から大きな家財をいくつも運び出すのは、その道のプロでも骨が折れる作業のようだった。もっとも、鋼の外骨格が折れるわけはないのだが。


 パワーアシスト装備を遣ってソファや食器棚を運び出しているのは、中古家具屋の従業員たちだ。


 その指揮を執っている老鑑定人が、それこそアンティークなタブレット端末を節くれだった指で操作し、査定額が表示された画面を朱里絵に見せた。


「いかがですか……?」

「いいわ。持ってってちょうだい」

「ありがとうございます。――おうい、誰か来てくれ」


 朱里絵はすっきりした顔をしていた。

 父からプレゼントされた――しかしほとんど父が運転していた――BMWのAI車を中古市場に出したのと同様、祖父が遺したこの住まいも手放そうとしている。しかしそれにまつわる葛藤にはもうケリをつけたようだ。


 このペントハウスはもともと、今は亡き雄吾の祖父が終の棲家とするために手に入れたものだ。

 長らく博多で事業をしていた祖父だが、病気で倒れてからというもの、生まれ育った小倉の町が恋しくなったという。会社も家も清算して、残りの人生を紫川の流れに任せることを選んだ。


 東京から見舞いに訪れた雄吾に「小倉城のふもとで暮らすんよ」と言ったときの祖父の顔は、今の朱里絵に負けないくらい晴れやかだった。


 実際には、移り住んだこの部屋のほうが城よりずっと高いのだが、当時の雄吾にはそんなことはわからなかった。

 いっしょに来ていた父が先に東京へ帰ったのに、母と自分がいつまでたっても福岡を離れない理由も、まるでわからなかったのだ。


「よいしょ、と」ヴィクトルが段ボール箱を抱え上げた。

「パパ、これも!」その上にマリーがもうひと箱追加した。

「それじゃ前が見えないでしょう」と朱里絵が笑いながら言った。

「ダイジョーブ」とヴィクトルは日本語で言って、そのまま歩き出した。


 通り道にいた雄吾は慌てて自室に引っ込んだ。そこはまだ手つかずの荷物が残っていた。


 あの日――何の前触れもなく自分の持ち物が東京から送られてきたときの光景が頭を過ぎる。

 その凍りついたイメージが溶けてなくなってしまうまで、雄吾の脳は眼に入るものを映さなかった。

 やっと視界が戻ってくると雄吾はのろのろと荷造りを再開した。


「ふたりとも手際が良いわね」朱里絵の声が聞こえる。

「毎年のことだもの」とマリーは澄ました調子で応じた。「でもパパが言うように、これはプロになる訓練のひとつだと思うわ。パールボール選手に移籍はつきものだし」


「関西のほうが、競技が盛んなんでしょ?」朱里絵は申し訳なさそうだ。「マリーのためには、向こうに住んだほうがずっと良いってわかってるんだけど……」

「わたし、この場所が好きになれると思うわ。本当よ」

「マリー……」


 ふたりがお互いに笑いかける様子が雄吾の頭に浮かんだ。結構なことだ。それより、自分の仕事を片付けなくちゃいけない。


 段ボール箱の口を閉じる。それだけで済むのに、一度容れたものをまた出して眺める、ということを繰り返してしまうのは、全体どういうわけなんだろうか。


「ユーゴ」

 心臓がジャンプした。振り向くと、部屋のドアからマリーがのぞいていた。

「お手伝いが必要?」

「い、いいよ。大丈夫」


 マリーは不思議そうに首を傾げた。その横から朱里絵が顔を出した。

「あーら雄悟、背中に隠してるのはなーに?」

「なんでもない」

「ユーゴ、何か隠してるの?」


 朱里絵はマリーの肩に手を置いて振り向かせた。

「マリー、いいこと? 彼も男だから、私たちに見せられないものの一つや二つはあるもんなのよ」

「――母さん!」

「あはは! たいさーん」


 雄吾はため息をついた。背後に置いていたそれを手にとり、胸の前に持ってきて、じっと見下ろす。


 野球のグラブだ。型をつけるため、ポケットにボールを挟んである。そのボールはあるときを境に、ずっとそこに閉じ込められたままになっている。


〝さぁ、ここだ。ここに投げろ〟

 父の声がよみがえる。


 このグラブは、中学に上がったお祝いにと父がくれた。「お前は背が低いし、この先も伸びないだろう」と言って、二塁手用の小造りなタイプを選んできた。


 父のそういう独断的なところが、母にはだんだん我慢ができなくなっていたのかもしれない。ふたりには歳の差もあった。たとえ父の浮気が発覚しなくても、いつかはこうなっていたのだろう。


 とても長い――雄吾にとってそれは年月で測れない――別々の生活の末、父と母は離婚した。雄悟は母の名字を名乗ることになった。


 けれど、雄悟は今になっても、父のことを悪者だとはどうしても思えない。もともと誰も悪くないのだという気がしている。


 小学生のとき、先生が言っていた。この世界にはもう戦争の二文字はない、と。

 争いがないなら、悪者だっていないことになる。

 だから父も母も、どちらも悪くない。悪くないのだ。


 長い逡巡ののち、そのグラブを段ボール箱の奥に押し込んだ。

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