芽生え
朱里絵が連絡してきたとき、雄吾はバスに乗っていた。
マリーと美波を連れてショッピングに行ってくるという。
女三人で楽しんでと答えた。
特に何かがあるわけではなかった。ただ時折、空を見上げた。
日が傾いてくると、雄吾は妙に落ち着かなくなって庭に出た。
焦げついたような雲がぽつぽつと浮かぶ茜色の空を見ていると、知らない番号から着信が入った。
「あ……たし、美波……」
「おまえ、声死にそうだぞ」
「今バスだから……」
「ああそ。マリーと母さんはもう帰るって?」
「それが……」
雄吾は廊下を走り抜け、「マリー迎えてくる!」と祖母に言って玄関を飛び出した。
駅に向かって走っている途中、左腕の受信チップが反応した。皮膚の上に浮かび上がってきた仮相アイコンをでこぴんで弾き飛ばす。
移動中に前方を隠さないためのセーフティ機能が働き、視界のやや右上に仮相のチャット画面が現れた。
【なんで途中でいなくなるんだよ!】
【だって仕事入っちゃったんだもーん】
アイコンのついた朱里絵の返事を見て、雄吾は自分の気持ちが揺らぐのを感じた。
もしかして俺は、大げさに心配しているだけなんじゃないのか。
頭を振り、ただ足を前に出すことだけに集中する。
秋の日は早い。地下鉄駅から表に出たときにはもう空は暗くなっていた。
土曜の繁華街は、これからプレイボールだというようにどこもかしこも光り輝き、通りは着飾った男女であふれている。
雄吾はマリーを捜した。電話をかけてみる手もあったが、そうしたところで「ダイジョブヨ」と返事が来るのはわかっていた。
実際、マリーはもう大丈夫なのだろうし、今まで大丈夫でなかった時期すらなかったのかもしれない。
それでもこの夏のあいだ、雄吾の手助けを受け入れていたのは、ひとえに彼女のやさしさだったのだ。
そう気づいたのに、今もこうしてマリーのもとに走っている自分は、まだエゴに突き動かされているのだろうか。
雄吾は自分の胸に問い、首を振った。わからない。だけど――
行き交う人混みの向こうに、きらきらと輝く金色の髪が見えた。
「マリー!」
声に気づいてマリーは立ち止まった。白杖を小脇に抱えている。福岡市では携行が義務づけられるので、とりあえず持っているのだが、普段はまったく使っていない。
今のマリーは、ガイドAIとの連繋にすっかり自信を持って、ひとりでどこへでも歩いていける。
けれど、他人にそんなことはわからない。ゴーグルをかけて白杖を持ったマリーのまわりで人の流れが変わり、一定の空間ができた。雄吾はその中に入っていき、胸を押さえて息を整えた。
「どうしたの?」マリーは可笑しそうに訊ねた。
ひとつ唾を飲み下して、雄吾はマリーを見つめた。
氾濫する川のような雑踏の向こうで、細いサイレンがかすかに聞こえて遠のいた。
「あのさ、……、マリーが、なんでもひとりでできるのはわかってるけど、でももし必要なときがあったら……俺のこと、呼んでくれよな」
マリーは何事かというような顔をして聞いていたが、やがてピンク色の頬に笑みを浮かべ、雄吾の前に手を差し出した。
「じゃあ、はい」
雄吾はほっとして、その手に触れた。するとマリーはいつものように雄吾の腕をつかむのではなく、手をそのままぎゅっと握った。
眼をしばたたかせている雄吾に、マリーはにこっと笑いかけた。
「行こっ」
ひと足先に歩き出した。
◇
月曜日にマリーの手術が行われた。
雄吾は学校を休むことを許され、直前までヴィクトルと朱里絵もいっしょに他愛のない話をしてマリーを送り出した。
手術中はどうも落ち着かず、病院の近くで壁当てをはじめたが、狙いをはずすと良くないことが起こりそうな気がして途中でやめた。
手術が終わるとマリーは眠ったまま病室に通された。目元には状態安定のための黒い外部機器が、ややオレンジがかったゲル状のアイマスクに包まれて接着されていた。
ハイテク寝台の計器類から伸びるいくつかの細いコードが、マリーの頬をかすめてゲルの中に差し込まれ、外部機器の表と裏につながっていた。
ものものしい見た目を朱里絵が心配し、看護師に頼んで清潔なタオル地のバンドを借りて頭に巻こうとしたが、その前にマリーは眼を覚ました。
「ん……」
マリーは鼻をひくひくさせ、点滴が刺さった手で鼻先をちょっとこすった。
「ヴィク……あなた!」
朱里絵が声を上げ、ヴィクトルは窓辺の椅子から立ち上がった。
「マリー」と雄吾は言った。「気分はどう?」
マリーはゆっくりと顔の向きを変え、ちょっとずつ口元に微笑をかたちづくった。そしてかすれた声で「ヴイ」と言って二本の指を立ててみせた。
「マリー……」
病室に笑顔があふれた。
「そっちは壁だよ」




