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マリーの反抗期

「ただいま~……」

 家の中は灯りがついておらず、誰もいないようだった。

 よく晴れた休日のおやつどきだから、恋人たちはカフェにでも行っているのかもしれない。

「ああ疲れた」

 雄吾は肩を揉みながらバスルームのドアを開けた。


 薄闇の中に、白く浮かび上がるものが見えた。

 金色の髪がきらきらと輝いた。

 そこにいるのがマリーだと雄吾が気づいて、誰かいることにマリーが気づいて振り向くまでのあいだに、雄吾は二度まばたきをした。


「うわっ!」

 あわてて閉めたドアにぴたりと背中をくっつけた。

「ごごごごめん! 気づかなかった!」

「ダイジョブヨ~」

 マリーがドアを少しだけ開けた。

「先に入る?」

「いや……あとでいい」

「そう」

 ドアが閉まった。雄吾は走ってダイニングに行った。


 水を一気飲みし、はぁ、と大きく息を吐く。

 落ち着いてくると、さっきのマリーの様子に違和感をおぼえた。

 なんだか顔も声も表情が乏しく、考えごとに憑かれているような感じではなかったか。

 特に気になったのが、その身体。

 左肩に、黒々としたあざが見えたような――


 マリーはそのあとも、やはりどこか様子がおかしかった。そして夕食のときに突然、こんなことを言った。

「わたし、明日センセイのとこ行かない」


 食卓の空気がぴたりと静止したようだった。朱里絵の手から箸が落ち、カチャンと音を立てた。

 雄吾はマリーの眼を見ようとしたが、伏せたまぶたと睫毛のかげりでよく見えなかった。


「どうしたんだ、急に」とヴィクトルが落ち着いた声で訊いた。

 マリーはぽつりと言った。「だってきっと、この前と何も変わらないもの」

 朱里絵が何か口走りかけたのを、ヴィクトルは手を向けて制した。

「わかった。……診察はまた今度にしよう」



         ◇



 マリーは部屋に入ってすぐゴーグルをかけた。それは何よりも安心できる防具だった。もしこれがなかったら、なんて想像することさえ今はできない。


 手探りで机にたどり着き、あの不思議な女性からもらった名刺をAIに読ませた。

「カノエ・マナカ」と機械音声がイヤホンに流れた。

「カノーさん……」マリーにはそうとしか発音できない。


 名刺の下のほうに記載された連絡先を指でなぞる。しかし今日もまた電話をかけることはできそうにない。


「ウェブサイトへのリンクがあります」と機械音声が続けた。「ジャンプしますか?」

「ノン」とマリーは答えた。


〈フェアライン〉のオフィシャル・サイトなら、もう隅から隅までチェックしてある。【about us】のページに書かれた文章をAIに読ませて軽く百回は聞いた。そらで思い出すことだってできる。


「今日、世界人口の約20%が、なんらかの機械化をその身に施しています。にも関わらず、機械化を施したアスリート――全アスリート中6%にも満たない――は健全クリーンでないという不当な評価を与えられているのです。機械化アスリートはオルタネイティヴな・・・・・・・・・オリンピックに閉じ込められる存在ではありません。私たち〈フェアライン〉は彼らの誇りと権利のために活動しています。」……


 マリーはため息をついた。

「リンケージにつないで」

 デバイスはマリーの声に応えて、机の上に仮相ウィンドウを開いたはずだ。それを見ることはできないが、把握する手段はほかにもある。


 可視板(visiboard)を手元に引き寄せ、その上に指を置く。

 形状記憶素材で自在に凹凸を作り出すビジボードは、トップページのレイアウトを表面に反映し、すべての文字を点字に変換して浮かび上がらせた。


 リンケージ(rink-age)は、月も含めた全世界的規模で展開する会員制のユビキタスネットサービス(UNS)だ。その中にパールボール専用のエントリがあり、競技者と指導者、愛好家やメーカーが相互に交流できる場が設けられている。


 選手の競技データを管理している世界パールボール連盟との共同事業なので、リンケージの競技者専用個人ページには、生涯に渡る成績スタッツや表彰の記録なども載っている。


 ただ、これはときに困りものだ。十五歳以下の全州大会であるカナディアン・カップでベストナインに選ばれてはじめてマリーはそのことに気がついた。


 W杯優勝三回のパールボール伝統国カナダでは、州対抗戦で活躍した選手――といっても、どこにでもいるティーンネイジャーだ――が数千のコメントと数万の親指をもらったとしても、たいして珍しいことではないらしい。けれど、マリーには狂っているとしか思えなかった。


 インド洋の小さな島国でパールボールをはじめたマリーには、ホームランに得点以外のものが付いてくるという考えがなかったのだ。


 すぐに記録関係を非公開にしたが、騒音は大きくなるばかりだった。マリー・ラヴァリエールの名は、カナディアンリーグ公式サイトの特集記事に載り、月と地球の百ヵ国以上で刊行されている『スカイ』発表のU‐15期待株プロスペクト世界ランキングにも加えられていた。


 この一連の出来事は長らくマリーに苦みを味わわせてきた。

 しかし最近になって、当時の記憶を噛みしめたマリーはその意外な甘さに驚いた。

 認めるしかない。あのときの自分は、注目されるのを楽しんでいたのだと。


 職業としてのパールボールを意識しだしたのも同じ頃だ。

 ランキングやネットニュースやグーグル検索の波に乗って、どんどん広がっていく自分のサムネイル画像の先に、プロ選手への道が続いているような気がして、夢中でその方角に駆け出した。

 

 止まることなんて、考えられなかった。


 手術のあと、とりかえた新しい眼がときどきかすむことがあった。それでも誰にも言わず、検査に行くのも避けてきた。そうして陽だまりのグラウンドで何イニングも過ごしてきた。

 今の自分の状態を考えれば、まさしく自殺行為だったとわかる。

 

 そう、わかったはずなのに、自分はまた日の差す場所サニーサイドに戻ろうとしている。

 ちっとも治っていないのに、性懲りもなく。


“あなたはばかよ”


 ルーの泣き声が耳にこだまする。けれど、やっぱり立ち止まっていられないのだ。

 こうしているあいだにも、夢はどんどん遠くに行ってしまう。


 リンケージのメッセージボードには、今まで渡り歩いてきた国々の友だちから、たくさんの励ましの言葉が寄せられている。

 しかし今、マリーがほしいのは別のもの。この手に生きている感触を思い出させてくれる、そんな力強いボールがほしかった。


 ビジボードに指を這わせながら、マリーはさっきより長いため息をついた。

 何日も前からずっと練習相手を募集しているのに、誰からも真剣な連絡をもらえずにいる。

 指先に意識を集中し、点字に変換された文章を懸命に読み取ったところで、この手につかめるものは何もないのだ。


 いや――マリーは首をすっくと伸ばした。

 インスタントメッセージが一件ある。

 一時間で消えてしまうものだ。マリーはすぐに中身を確認した。


 名前らしきものと、電話番号らしきものがあるだけで、ほかには何も書かれていない。

 スパムメールの典型的な手口だとはわかっていた。

 けれど、ほかに選択肢はない。



         ◇



 雄吾はキッチンであくびを噛み殺した。

 仕事でこんなに疲れたことはなかった。真中にバッティングピッチャーまでさせられたせいだろう。

 洗い機がやっと止まったので、食器を棚に片づけていく。


 ヴィクトルと朱里絵がソファで話すのが聞こえる。

「マリー、大丈夫かしら……」

「我々はサインを見落としていたのかもしれない。いま思えば、あの子が目隠しをはずしているのをほとんど見なくなった」

「きっとこわいんだわ」


「私は今でも、あの子なら打ち克てると信じている。しかしそこに父親としての甘えがあったのかもしれない。こういうときこそ家族で支えなくては」

「そうね。私もなんでもするわ。どんなにお金がかかったって……」

「まずはハートだよ。それがなければ何もはじまらない」

「うん……」


 雄吾は二階に上がった。途中、気にかかってマリーの部屋に寄ってみた。

 ノックしようとしたところ、かすかに声が聞こえた。

 ためらいより好奇心が勝った。そっとドアノブをまわしてみる。

 マリーが机に向かっているのが見えた。


「うん! 明日、高台の公園に来てほしい……」

 電話をしているのかと思ったが、違った。音声入力だ。


 端末眼鏡をかけて見てみると、マリーの前方に仮相ウィンドウがあり、UNSのチャット画面になっている。

「……ありがとう! 見ず知らずの人に、こんなお願いを聞いてもらえるなんて思わなかったわ」


 雄吾はそこでミスをした。こらえきれず、あくびをしてしまったのだ。

 マリーが振り向いた(やばい!)。ドアをしめる。


 マリーが廊下に顔を出したとき、雄吾は暗がりで息を殺していた。

 それでなんとかしのぐことができたが、マリーが見えないのを利用したことで自己嫌悪の念がわいた。


 それにしても、と雄吾は自室で考えた。マリーは誰と連絡をとっていたんだろう?

 大きなあくびが出た。もう頭がまわらない。

 ベッドに倒れ込むと、そのまま眠りに落ちた。

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