ショパンに相談
「ふわ……」
朝の日差しが差し込む廊下に朱里絵が姿を見せた。あくびを噛み殺している彼女の目の前を、バッグを背負った息子が通りがかった。
「あら、休みなのに早いわね」
「バイトなんだよ……。今日こそマリーに付き合えると思ったのに」
「あはは! もう散々言われてるじゃない、これからは友だちと行くからって。あきらめなさいよ」
そのとき、上階からかすかな振動が伝わってきて、親子は顔を上げた。
「早起きさんがもうひとり……」
二階のピアノ部屋の中、鍵盤を叩きつけるような強い調子が響いている。
ショパンのスケルツォ第三番。
この冗談みたいに深刻な『冗談』を、マリーは一心不乱に弾き鳴らしていた。
しかし、その演奏は不意に中断した。
「どうしたの?」
ビッキーは閉じていた眼を片方だけ開け、眉を吊り上げた。
重像機によって投影された仮相体である彼女の身体は、薄暗い部屋の中でもくっきりと浮かび上がっている。
「さっきから同じところで止まっているわよ」
「うまくいかないから」とマリー。「ここをきちんとしないと先へ進めないの」
「あたしには堂々巡りに見えるけれどね」
マリーは何も答えず、ゴーグルをはずして振り向いた。「ビッキー」
「あたしはこっち」
ビッキーの声は重像機のスピーカーから出ていたが、仮相体は別の場所にいる。声を頼りにしては居場所がわからない。
マリーは鍵盤の上に眼を落とした。
「ビッキーは、身体に機械をいれることについて、どう思う?」
「いいんじゃないかしら。脇に消臭チップをいれるの? カリフォルニアでなら保険がきくわよ」
「そういうのじゃなくて、身体の一部をそっくり機械にするの」
「サイボーグになるってこと?」ビッキーは眉をひそめた。「そうねえ、あんまりぞっとしないかしら」
「どうして?」
「こわい話ばかり聞くもの。機械が身体にあわなかったら悲惨らしいわ。生身の部分が腐っちゃうのよ。指一本の機械化で、肘から先を切るはめになったってひともいる」
「それ、三十年も前の事件よ。無免許の医師だったの。今は管理体制がずっと厳しくなってるし、そんなこと起こりようがない」
「……詳しいのね?」
マリーはゴーグルをかけなおした。
「何年か前に、病院で機械化を勧められたの。それでパパはいろいろ調べてくれた。だけど……」
「やめようって?」
マリーはうなずいた。
「無理ないわ、リスクに見合わないもの」とビッキーは言った。「自分の身体を何度でも再生できる時代に、わざわざ工場の世話になる必要ないし」
「でも、わたしの眼は……再生治療じゃ治らない」
そう言ってマリーは唇を噛んだ。
「パパが、わたしのことを考えてくれてるのはわかるわ。センセイたちだって、なんとかしようとしてくれてる。でも……」
ビッキーはふーっと息を吐いた。「ダ・カーポね」
「行ってくるよ!」階下から雄吾のやけっぱちな声が聞こえてきた。