見えない気持ち
「日本のパールボールはユニークだね」
サンフラワーズ発行のブックレットを見ながら、ヴィクトルは大いに興味をそそられたようだった。
「選手はパールボールのほかにゲイシャの訓練もするようだ。それにユース世代への期待がすごいね。下部組織がこんなに取り沙汰されるのは珍しい」
雄吾はうなずいた。「サンフラワーズは球場もすごいよ。今度リニューアルするんだ」
「是非お目にかかりたいな。オーシタさんにも挨拶せねば。球団の上役なんだって?」
「うん。ジェネラル・マネージャー。でもMLBのGMみたいに選手を集めたり、ダグアウトの中のことに関わったりはしないんだ。球団商売が僕の仕事だ、って大下さん言ってたよ」
「CEOに近いのかな。しかし、あのオーシタさんが経営とは」
ふたりは顔を見合わせた。笑いをこらえようとしたができなかった。
家の戸を開けっぱなしにして、いつでも誰でも飲み食いしたり遊んだりできるよう、コックロボットやゲーム機を用意している大下。
ワルガキに落書きされた自宅の塀を「すごい才能だ!」のコメントを添えて画像共有網にアップする大下。
移動販売のクレープ屋を見つけ、雄吾とマリーに「奢ろう」と言い出し、いっしょに並んでいた赤の他人の分まで代金を払ってしまった大下。
そういう姿ばかりを見てきた延長線上に、帳簿とにらめっこしてきちきちっと収支を成り立たせるような大下の姿を透視することなど、いったい誰にできたろうか。
「それでさ――」
雄吾は口を閉じて振り向いた。
帰宅した朱里江がリビングに現れた。
「なんだ、母さんか」
「なんだとは何よ。わたしじゃ都合悪いわけ?」
「その逆だよ」と雄吾は言った。「マリーだったら、どうしようかと思った」
「どういうこと?」
「マリーには、こういう話は聞かせないほうがいいんだ」
朱里絵は眉根を寄せた。「雄吾、前も言ったけど、その見方は間違ってるわよ」
「どこがだよ? マリーは毎週観ていたカナディアン・リーグの試合をちっとも観なくなったじゃないか。クラブチームの子とも全然会おうとしないし」
「テレビを観ないのは、眼に負担をかけないようにしているだけよ。試合結果はチェックしてるし、友だちとも連絡をとってるわ。マリーは何も変わってないのよ」
「そういうふうに見せてるだけだよ。母さんにはわからないんだ」
「わかってないのはどっちよ」
「まぁまぁ」とヴィクトルがあいだに入った。「ふたりとも、マリーをとても心配してくれている。私もあの子もそれはよくわかっているよ。それで充分じゃないか、そうだろ?」
雄吾と朱里絵はうつむいた。ヴィクトルに諫められるのは何度目になるだろうか。
「ごめん」と雄吾は言った。
朱里絵は何も言わず、手を伸ばして雄吾のうなじの下を撫でた。
◇
家の奥の暗がりでマリーはじっとしていた。
家族の声が聞こえなくなると、彼女はおりてきたばかりの階段を静かにのぼり、部屋に戻っていった。
ドアを閉めたあと、そこでしばらくうつむいていたが、やがてゴーグルをはずし、暗い部屋の中に振り向いた。棚や椅子を手掛かりにして、壁に立てかけられているバットを探る。
グリップをつかみそこねて、フローリングの床にコッとくぐもった音がした。バットは月明かりの差す向こう側にするすると転がっていった。
マリーは床に膝をつき、右手をうんと伸ばした。
薄闇から伸びた腕が、月光の中に入り込んで白く浮かび上がる。
しかしマリーはそれ以上進まなかった。
光に浸されるすんでのところで睫毛が震えていた。
伸ばした手はいつまでも宙をさまよい、次第に動きを止め、薄闇の中に引き戻されていった。