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ファースト・ストライク

「前に乗ればいいのに」と母は言った。

「いいよ、別に」と雄吾は言って、ふたつ並んだ前の座席を一瞥した。「母さんこそ、助手席に座ったら?」


 母は返事をしなかった。かわりにイグニッションに触れ、BMWの眼を覚まさせた。

 ディスプレイ・ウィンドウに、今日の天気と外気温と湿度が表示され、母が行き先を告げるとそれは消え、モビリティAIの指揮で車は少しの揺れもなく街に出た。


 朱里絵は、雄吾の母は、車の免許を持っていない。大型バイクの運転資格ならある。だから自律運転の車には乗れる。


 といって、運転席に座る必要はまったくない。ひとりでにまわるハンドルを眺めているくらいなら。その席の空白をジーンズの下に押し込もうとするくらいなら。


「こんなところに何の用があるんだよ?」

「すぐわかるわよ」


 市内の運動公園だ。朱里絵は先に立ってなかに入っていく。雄吾はため息してあとに続く。

 車はふたりを降ろしてすぐ走り去った。何日かぶりのごはんにありつくようだ。


 園道の桜はとうに散り、灰色の雲がありとあらゆる景観から彩りを奪っていた。ここは先端都市の公園――遺伝子編集された草花が一年じゅう咲き誇る――とは比較にならない。

 花のない並木道を歩きながら、だんだん億劫になってきたそのとき、ある音が雄吾の鼓膜を打った。


 球音。

 それはなまの球音だった。


 向こうに貸しグラウンドがある。ダイヤモンドのまわりに、黒っぽい服の審判ふたりとユニホーム姿の女の子たちが散らばっている。

 ただし、そのユニホームというのは長ズボンではなくホットパンツで、腿から下は厚手のサイハイソックスに覆われている。


 ソフトボールの試合かと雄吾は思ったが、ピッチャーは肩の上からボールを投げ、それをバッターが木のバットで打ち返した。

 いきいきと跳ね踊る白球のゆくえに、つかの間、眼を奪われた。


「懐かしいでしょ?」と朱里絵が言った。

 はっとした雄吾は、むすっとして、さっさと先に歩き出した。


 一塁側と三塁側の防球柵の外にそれぞれのチームのベンチがあり、その脇にまたそれぞれちょっとした応援席が設けられている。楽に二十人は座れそうだ。

 

 実際、どちらの応援席にも観戦者が――選手の家族らしい――けっこういて、朱里絵は三塁側の人たちと親しげに挨拶を交わしていた。


 雄吾はそんな母を置いて列の端に座り、端末眼鏡をかけてボールゲームを観はじめた。本物の男の勝負を。


「こら、ちゃんと試合観なさい」


 朱里絵がそう言うや雄吾の端末眼鏡をとったので、MLB中継を映して宙空に浮かんでいた仮相ウィンドウが、雄吾の眼には見えなくなった。同様に、眼鏡の耳かけに備わった骨伝導スピーカーから流れる木と革の交響曲も失われてしまった。


 雄吾は舌打ちして母に振り向いた。「アマチュアの、それも女のスポーツなんて、つまらないよ。特に野球は」

「野球とは違うわよぉ」と朱里絵は言う。


 雄吾は目の前のグラウンドを指した。「これは野球だろ」

「違う違う。これはね――」


 カツッ、と音がしてふたりは顔を上げた。

 白い点が落ちてくる。


「雄吾! 捕って、捕って!」

 朱里江が雄吾の襟首をつかんで揺さぶっている間に、うしろにいたおばさんが身を乗り出し、このファウルボールを見事にキャッチした。


 両チームの父母たちの喝采を浴びながら、おばさんはそのボールを雄吾にくれた。

 ボールは雄吾の指先を跳ね返した。壁を押したような感触だった。


「硬球……?」

 静かな驚きとともに、父の言葉が不意によみがえった。


“どうだ、硬いだろう。こいつをただの木の棒でひっぱたくんだぞ……”


 ばきりとバットが折れる音。六・四・三とボールが巡る。しかし打者走者の足が速く、併殺は成らなかった。


「えっとお、あれ? ヴィクトルが教えてくれたんだけどなぁ。何だったかな」

「……その人と、これから会うの?」

「その人、なんて言わないの」


 朱里絵は笑ったが、雄悟はそうしなかった。なぜあのランナーは一塁ベースから離れないんだろうと考え、そのランナーと同じように膝に手を置いてじっとしていた。


「彼、いいひとよ」朱里絵はそっと言った。「本当に、いいひと」


 そうじゃない、と雄吾は言いたかった。その「ヴィクトルさん」がどういう人間かは問題じゃないんだ。

「あのさ母さん、俺は別に……」


 あっと朱里絵が声を上げた。それほど一塁ランナーが仕掛けた盗塁スティールは絶妙だった。

 しかし次の瞬間には、鋭い送球が宙を走り、二塁手のグラブに突き刺さっていた。


 塁審の腕が上がるや、三塁側から歓声が上がった。

「いいぞ、マリー!」

 朱里絵が立ち上がって声をかけると、マスクをはずしたキャッチャーの子が振り向いた。そして笑った。そう、笑ったのだ。

 花のように。


「ほら、雄悟も手振って」

「い、いいよ俺は」

 ぐずぐずしているあいだに、その子は白木のバットを携えて打席に向かった。


「あの子――」

 ヘルメットの下で三つ編みの金髪が揺れている。

「あの子が、俺の……?」


「そうよ。マリーはあなたのいもうと」

 わたしたち家族になるの、と朱里絵は言った。


 家族、と雄悟はつぶやいた。

 しかしその声は、ベンチから発せられる女の子たちの声援にかき消された。


 このチームは外国人のほうが多いようだ。髪は黒いが、面立ちと肌の色に少し日本人とは違う色彩がある。

 その中で金髪碧眼はマリーだけだった。マリーが目立つのはそのせいかと雄悟は考えたが、違った。


 快音。

 灰色の空に大飛球が飛んでいく。

 誰もが首をぐいいとまわしてアーチのゆくえに眼をこらしたが、板張りのフェンスを越えた打球はファウルとされた。


「えーっ! 今の入ってるよね? ねぇ?」

 朱里絵のように地団太を踏む人、助かったと手を打つ人、誰もかれもゲームに戻りきれていないのをよそに、マリーは早やばやと次の投球に狙いを澄まし、神経質に足元をならすピッチャーを見据えている。


 その曇りない眼差しを見たとき、雄悟は気づいた。マリーの違いは、髪や眼や肌の色ではなく、ひとりのアスリートとしての違いなのだ、と。


 再び右打席に入ったマリーは、薄い金色の愁眉をきりりと引き締め、バットの切先をわずかに揺らしながら投球を待った。

 そしてボールがやってくると、来賓を迎えるように丁重にヒッティング・ゾーンまで招き入れ、しかるべきタイミングでバットの美味しいところスウィート・スポットを食らわせた。


 ライン・ドライブが右中間を破っていく。

 マリーは一塁をまわり、二塁も蹴った。

 ボールが中継の野手に返ってきた。


 雄悟は思わず立ち上がった。


「滑れーっ!」


 送球が一瞬、走者と並んだようだった。土煙が上がり、全員の視線が塁審に迫った。

「――セーフ!」


 わっと悲喜こもごもの客声が上がる。

 はしゃぐ朱里絵の横で、雄吾は目の前で起こったこと、自分のしたことの何もかもに意識が追いついていなかったが、額に当たる陽光に、はっとした。

 何の騒ぎか、と太陽が顔を見せていた。


「ブイ!」と朱里絵が二本指を突き出した。

「ヴイ!」とマリーもこちらに向けてやってきた。

 避ける間もなく視線がぶつかり、雄吾は反射的に肩を引いて逃げようとした。


「ユゥーゴー!」


 心臓が跳び上がった。


「ヴイ!」


 マリーの突き出したVサインに、雄吾はどうやって応えたかおぼえていない。

 十五年、生きてきた中ではじめての経験だった。

 全然知らなかった。眼も眩むような笑顔。そんなものが本当にあるなんて。


 気づいたときにはもうマリーはそこにいなかった。ワイルドピッチで逆転のホームを踏み、ダグアウトでハイタッチを受けていた。

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