アイドル球団でアルバイト
放課後のチャイムが鳴った。
ほとんどの生徒はまだ座ったまま、おしゃべりの合間に帰り支度をしている。
そんなクラスメイトたちを横目に、雄吾はそっと席を立った。
「雄吾」
ぎくりと足を止める。
「久しぶりにゲーセン行こうや」と栗田が言ってきた。
「いやっ、今日はちょっと……」
雄吾は視線をボールゾーンに散らばせたあとで、「ごめん!」と言って走り出した。「また今度な!」
栗田は呆気にとられていただろう。けれど、もしあとで事情を聞かれても説明できない。
自分でも明確にできない理由から、雄吾はこれから向かう場所を秘密にしておきたかった。
北九州サンフラワーズの本拠地球場、サニーグラウンズ。
二十世紀半ばに建てられたこの歴史ある球場は、三塁側以外の三方を集合住宅やビルに囲まれている。
球場前の交差点を挟んだ斜向かいには、三萩野公園の緑地帯が広がる。
緑地帯の奥には、競輪場跡地を利用した芝生広場がある。
マリーが自由な光を失ったあの場所だ。
学校から球場に向かう際には公園の横を通る必要があり、雄吾は数か月ぶりにそこを訪れた。
木陰の中を小さな子どもが走りまわり、すぐそばのベンチで女性が仮相書籍を読んでいる。その光景を見たままの穏やかなものとして受け取ることができた自分にほっとした。
もしかしたら、ここに来るたびにおぞましさを感じてしまうかもしれないと不安で、ずっと足が遠のいていたのだ。
球場の様子を見るのも久しぶりだが、近くまで来て驚いた。
工事をしている。それもけっこう大がかりなもののようだ。
道端に立ち止まって見ている人がちらほらといる。
ひとりの老人がため息をもらした。「市民球場の面影がどんどんなくなっていきよる。ああ悲しい悲しい」
「この工事、市が費用持つっち話ぞ」とこちらは不満そうに話す夫婦。「一部の人らのために何でそんなことするんやろね」
作業マシンや監視ドローンが集まっているのはレフト側だった。レフトスタンドが取り壊されて跡形もなくなり、その付近にあったひまわり庭園も根こそぎ取り去られていた。
雄吾は工事現場とマンションのあいだの小路に入り、バックスクリーンの方角を目指して歩いた。
間もなく右手に門が見えてきた。ちょうど球場の真裏にあるので、裏門といえばいいだろうか。
背の低い門柱と緑色の格子扉の前に、ハィンが立っていた。彼女は雄吾に気づくとにこっと笑った。
「サニーグラウンズへようこそ」
ハィンは通用口を開け、雄吾を敷地の中に招き入れた。
開けたスペースが眼に入った。隅のほうに車やバイクや自転車が停められている。
おそらく門司の港を意識したのだろう、そこかしこにレトロなガス灯が並び、小さい倉庫のような平屋がいくつも寝そべっている。
最も目を引いたのは、球場と背中合わせに建つ三階建ての建物だ。
「あれが球団事務所です」とハィンは紹介した。
厳密に言えば、雄吾はまだ球場の中に足を踏み入れていなかった。敷地内ではあるが、そこからフィールドを見ることはできず、スタンドの外壁の上から、バックスクリーンの頭だけがひょっこりとのぞいていた。
「突然のオファーで驚いたでしょう?」
「いえ、そんな、オファーだなんて大げさな……」
雄吾は苦笑したが、目指す建物に下がった垂れ幕を見て、考えを改めた。
【GO! SUN-FLOWERS!】
文字の背景に、揺れるひまわりのモーションイラストが描かれている。
よく見ると、ガス灯の下や平屋の軒先にも、球団ロゴが記された三角旗がいくつも翻っている。
本物のプロ球団と、その球団事務所が目の前にある。その中に入っていく。
外階段を一段上がるたび、雄吾の緊張と興奮はいやおうなしに高まった。
二階の出入口まで来たとき、上階から人がおりてきた。
現れたのは四十がらみの強面の男。ワイシャツの首元からシルバーネックレスがのぞき、手首に高そうなアンティーク腕時計が光っている。
「ん?」とこちらに気づいた。「おい、ハィン」
「あら、カームラさん」
「その小僧は何だ?」
不審そうににらまれて、雄吾は思わず姿勢を正した。
「新しいお手伝いさんですよ」とハィンは言った。
「ほう……いつ採用になった?」
「十分後ですよ。今からGMに紹介します」
「その必要はない」と男は言った。「こいつは不採用だ」
「え、どうして?」
ハィンは、ちょっとなぞなぞをかけられたような、軽い感じで首を捻った。
「こんなちびっころが、球団の荒くれ仕事をこなせるわけなかろう!」
「そんなのわからないではないですか」
ああだこうだと言い合うふたりに、階段の下から誰かが声をかけた。
「どうしたんだ、河村」
振り向いた雄吾は眼を瞠った。
「大下さん?!」
立派な体躯に剃り上げた頭。そこにいるのはまぎれもなく大下だった。驚きに眼を丸くしていたが、やがてくしゃっと相好を崩した。
「はは、こいつはどうして」と言って、大下は階段を上がってきた。
「おい」河村と呼ばれた男は訝るようにハィンに耳打ちした。「もう大下さんに面通ししたのか?」
「彼は僕の友だちなんだ」と大下は言った。
「ともだちぃ?」
「ははは、そうなんだよ。しかしこんなところで会うとはね。君はサンズのファンだったのか?」
雄吾は一気にうろたえた。「いいいや、そういうわけじゃ……」
「ワタシが、です」とハィンは得意げに言った。「人手不足だと聞いたので。彼のお母さんとはお友だちなんですよ」
「そいつはいい」
「大下さん」と河村があわてた様子で言った。「まさか、こいつを雇うつもりですか」
「もちろんだよ」と大下は言って、雄吾の背中に手をまわした。「さぁて、まずはユニホームをあげような。寸法を測ろう」
「俺、選手じゃないですよ」と雄吾は一応言っておいた。
「ははは、わかってるよ」
「大下さん!」河村がうしろから追ってきた。「せめて人事を通してください!」
雄吾はデスクスペースの一角にあるガラス戸で区切られた小部屋に通され、仮相体の面接官AIと対面し、履歴書をもとに簡単なやりとりをした。
そのあとは、ボールを取り上げられたバッテリィのようにすることがなくなってしまい、小部屋の外にいくつも並んだデスクやら、仕事中のスタッフたちの姿やらをぼんやりと眺めていた。
そのうちにハィンがやってきて、ポロシャツとチノパンを雄吾に手渡した。
ポロシャツの色は緑で、胸のところにチームロゴがあしらわれていた。左腕のところに「一騎当千」と刺繍されている意味はわからないが、ともあれ、それを自前の黒い長袖Tシャツの上から着て更衣室を出た。
「似合っていますね」
着換えた雄吾を見て、ハィンは満足そうだった。
「この刺繍、ハィンさんが?」
「ええ。ワタシはサンフラワーズのチーフスタイリストですから」
「スタイリスト?」
「イエス。サンフラワーズは、パールボールとアイドルのチームです。だから、組織の中に球団部と芸能部があるのです」
なるほど、と雄吾はうなずいた。「じゃあ、ハィンさんは芸能部?」
「そうですね。でも、球団部のマーチャンダイジングにも関わっています。オフィスにいる人はあまりセクションの違いがありませんね。みんな、できることはなんでもやりますよ」
なにせ人手不足ですから、とハィンは付け足した。
うおっほんと咳払いが聞こえた。背後にさっきの強面が立っていた。
「俺の顔はおぼえたか?」
雄吾はうなずいた。
「アシスタントGMの河村といったら俺のことだ。この球団のナンバー3だ。本来ならきさまのような丁稚にかまけている暇などないのだが、大下さんに任されたことはいやでも全うするのが俺だ。ほれ」
河村はぼろの布切れを放ってよこした。よく見ると軍手だ。
「まずは園芸課を手伝ってこい。堆肥まみれになってくるがいい」
「あの」
「何だ」
「今日ってチームの練習は――」
「なーい!」
河村はその質問を待ってましたといわんばかりで、顔じゅうに笑いが洩れていた。
「しばらくはだあれも来んぞ! 選手に会えるなんて思うなよ。わはは! 辞めたくなったらいつでも言え」
ぽかんとしている雄吾を置いて、河村は行ってしまった。
◇
一塁側の外縁に広がるひまわり庭園。
河村が様子を見に行くと、新入りは園芸主任の指示を受けて堆肥袋を運んでいた。
ひとしきり見物してからアシスタントGMは事務所に戻った。
「小僧め、ひいこら言っとったわ」
スタッフたちは一様に苦笑を返した。
河村は事務所の隅にいる男に近づいた。
「どうだ、鍋島」
端末眼鏡をかけた河村は、鍋島と呼ばれたスタッフが作業している仮相ウィンドウをのぞきこんだ。
「一度だけ……観戦履歴がありますね」と鍋島はぼそぼそと答えた。
「やはりそうか!」と河村は腕を振った。「にわかヲタめ。運営にもぐり込めばアイドルと接点が持てると思ったか。そうは問屋がおろさんぞ」
「これだから簡単にヒト増やせないんすよね」と別のスタッフが笑って言った。
「まったくだ」
そこで鍋島が何か言った。でも、と言ったようだ。
「あん?」
「彼……マーケティング上はM2に分類されますよ」
競技そのものに興味があり、スタッツ解析などデータも多量にほしがる一方、選手との接触やグッズには食指が動きそうにない。
そういう客のことを、球団内のカテゴリー分けではM2としている。
「あんまり……アイドルには興味ないみたいです」
河村はいまいましそうにうめき、「たった一回の観戦データで何がわかる」と言ってのしのしと立ち去った。