おせっかい
そこは瓦屋根のレトロな日本家屋で、「大下」と表札が出ている門柱を抜けると、よく手入れされた庭がある。
その庭を見渡せる縁側に雄吾は腰を下ろし、廊下を渡ってくるそよ風に身を任せていた。
庭の真ん中で、マリーはラブラドール・レトリバーにフランス語で話しかけている。
しかし、ヒロシという名前のその犬は、口の横からだらんと舌を垂らし、会話を楽しむ気は微塵もなさそうに見えた。
「ふたりとも」
着物姿の女性が廊下を歩いてくる。大下の妻の碧だ。
「林檎をどうぞ」
「ありがとうございます」と雄吾は言った。「マリー、碧さんから林檎もらったぞ」
マリーは嬉しそうに笑い、ヒロシの垂れた耳を持ち上げて耳打ちした。
犬はのそりと動きだし、リードをつかんだマリーを縁側へと導いた。
その彼もまた、生まれつき麻痺した下肢のために、モーター式外骨格の助けを借りて歩いていた。
「手洗うだろ? 俺がいっしょに――」
「ノン・メルシー」
マリーは縁側に上がり、戸や壁に触れながら自力で廊下を歩いていった。
朝のトレーニングと同様、ひと夏をかけてのリハビリの成果がここでも発揮されているようだ。そのことを雄吾は喜ぶべきかどうか迷った。
しぶしぶ座りなおした雄吾を見て、碧が可笑しそうに笑った。「マリーはもうこの家の地図を持っているみたいね」
「すいません、いつもお邪魔しちゃって」
「いいのよ。私も主人もあんたたちが来るとうれしいの」
たしかに大下もそんなことを言っていた。そんな夫妻の厚意に甘え、雄吾もマリーも時間さえあればここを訪れている。
朱里絵とヴィクトルもまた、大下夫妻と交流がある。
特にヴィクトルは、大下のことを「長年ランキング一位だったオーギュスト・エスコフィエを抜いて、私の最も尊敬する人物だ」と言ってはばからない。
マリーは木から落ちたとき、そばにいたヒロシに受け止めてもらった。たくましいレトリバーはぴんぴんしていたが、彼の外骨格が調子を悪くした。
愛犬を「故障」させてしまったことについて、ヴィクトルはお詫びと法律的な話し合いをするためにこの家を訪ねた。ところが、大下は「気にしないでください」の一点張りで、どんな賠償も受けようとしなかったのだ。
ヴィクトルはそのことをとても恩義に感じているらしく、何度も食事に誘っているのだが、大下が忙しい身でなかなか予定がつかないことに気を揉んでいるのだった。
大下は自分のことを話したがらないので、どんな仕事をしているのか、こちらの家族の誰も知らない。どうやら、重要な役職に就いているようなのだが――
「大下さん、今日も会えなくて残念です」
「そうね。彼も電話で言ってたわよ、君だけずるいぞってぶーぶーと」
「ははは、俺たちのほうから会いに行きたいくらいですよ」
「そうねえ。でも彼がいるところは、いうなればサーカス団だからねえ」
「サーカス?」
「ええ。テントを張ってお客さん呼んで、あれやこれやと見世物で楽しませて、街から街へ転々とするあれよ。なかなか落ち着くということがないのが、あの人の仕事と似ているかしら」
「へえ、観てみたいな」
「あんたはだめよ」
「えっ、どうして?」
「もしもあんたがあのサーカスにハマってしまったら、私たちは親御さんに顔向けできなくなるでしょ」
「そうかなぁ……?」
名前を呼ぶ声がしたので雄吾は振り向いた。
マリーがぺたぺたと赤ん坊のような四つ足で近づいてきた。
「お手」とマリーが差し出した掌に雄吾は手を置いた。それを手がかりにマリーは雄吾のすぐ隣に座った。
「林檎食べさせてやるよ」
「え? わたし自分で食べれる」
「ほら」
マリーは困ったように唇を曲げていたが、結局はあーんと口を開けた。雄吾はフォークを持っていって食べさせてやった。
「ん~! おいしい!」
嬉しそうなマリーを見て雄吾がにこにこしていると、今度は碧が雄吾を呼んだ。
「あんた、やっぱりうちの人のサーカスに行ってみなさい」
「えっ、でもさっき」
「悪いこと言わないから」
口調こそ変わらないものの、碧はずいと膝を寄せてきた。
「行ってドハマりしといで。それがあんたのためよ」
「はあ」
「くれぐれもひとりで行くのよ。いいね?」
よくわからないまま、言葉だけ受け取って家に帰った。
マリーが二階で体幹を鍛えているあいだ、雄吾は家事にとりかかった。すると朱里絵が外出先から戻ってきた。
「雄吾、バイトしなさい!」
「何だよ、いきなり」雄吾は怪訝な顔を返した。「俺は忙しいんだ」
口を尖らせながら、マリーのボクサーパンツを丹精込めてたたんだ。
「そういうとこをなおすのよ!」
「だから、何なんだよ」
「とにかくね、私の友だちの職場が人手不足で困ってるの。手伝ってきなさい」
「中学生の俺が行っても意味ないんじゃない?」
「すぐそんなこと言う……」朱里絵はいらいらした様子で言った。「雄吾に何ができるかは大人が考えるわよ。とにかくやる気出して言われたことやったらいいのよ」
「ふうん?」
「それにそこ女の子もいっぱいいるわよぉ」
「え、無理。絶対行かない」
「どうしてよ! そこはウヒョーって狂喜乱舞するとこでしょ!」
「女だらけのとこなんて、気まずいし居心地悪いよ」
「妹の下着洗うのは気まずくないわけ?」
「マリーはほかの女とは違うんだよ」と雄吾は言った。「特別なんだ」
「と、く、べつ……」
朱里絵は頭を抱えて椅子にぐったりと座り込んだ。
雄吾はちょっと気にして、「そこって、何て名前のところ?」と訊いた。
「えっとお、んー……『ギャングスターズ』だったかな」
「どんな職場だよ」
「あ、違う! あれよ、あれ、あのー、花の名前でー、タンポポ、じゃなくて……」
雄吾ははっとした。「サン……フラワーズ?」
「そう! それそれ!」朱里絵はにやりとした。「何よー、知ってるんじゃないの」
「地元のチームだから」雄吾はぶっきらぼうに言った。「学校でもみんな知ってるし」
「へー、そんなに有名なんだ。じゃあなおさらやるべきよ。良い経験になるわよぉ」
雄吾の耳にあの大歓声が聞こえてきた。
黄色と緑で彩られたライトスタンドの熱狂は今でもすぐに思い出すことができる。
たたんだ服を手にして二階に行く前に、雄吾はきっぱりとした返事を置いていった。
「仕方ないからやるよ。仕方ないから」