兄としての決意
「失明……?」
愕然とする雄吾を、診察室に集まった大人たちは、それぞれの苦さを噛みしめるような表情で見返した。
「精確にいえば、弱視です」
ちえみはホロ・ディスプレイに表示されたマリーの眼のスキャン画像を振り返った。
「まったく見えないわけではありませんが、視野の欠けが著しく、矯正視力もあまり出ません」
画像の倍率が上がり、微細な体組織があらわになった。
「原因は、視細胞の働きが失われたこと。眼底の異常反応が収まった途端、次々に機能を停止しました」
「花火が燃え尽きるみたいにね」と館山は言った。
「でも……治せるんでしょ?」
雄吾は両隣の朱里絵とヴィクトルを交互に見やったが、ふたりとも難しい顔をしたまま黙っている。
「もちろん、再移植をすれば視力は戻る。網膜だけの病変なら、眼球全体を取り替える必要もない。ただ……」
館山は妻と視線を交わした。
「そのスペアの眼にも、今回の事態を招いた、未知の遺伝子損傷が刻まれている可能性が高い」
「つまり、再発のおそれがあるということです」
「じゃあ」と雄吾はどもりそうになりながら言った。「手術しないんですか? 再発すると決まったわけでもないのに?」
「……マリーが、手術を望んでいないのよ」
雄吾は信じられない気持ちで母を見た。しかし冗談を言っている顔ではない。
「どうして――」
「少し休みたいと言っている」ヴィクトルは静かに答えた。「あの子は今まで、度重なる手術に耐えてきた。いったんは治っても、またいつ病気になるかわからない、そんな不安と闘ってきた。眼を新しくすれば、それに終止符が打てると思っていたんだ」
館山は無念そうにうなだれた。「すまない。我々の力不足だ」
ヴィクトルは首を振った。「いや、君たちはよくやってくれた」
ちえみは椅子から立ち上がった。「まだ終わりではありません。この病の原因遺伝子を特定できれば……」
「しばらく保存療法をとってみてはどうだろう。もちろん、マリーの気持ちが変わればすぐにでも移植を――」
「雄吾? どこへ――」
朱里絵の呼びかけに答えず、雄吾は部屋を出た。
頭の中がごちゃごちゃになっている。
マリーの眼が見えなくなった。それだけでもショックなのに、本人が手術を拒んでいるというのはまったく考えられないことだ。
いくら再発のおそれがあるからといって、そのままでいいなんてありえない。
でも――そうだ、マリーは泣いていた。
震えながら「死んじゃう」と叫んだのだ。
それほどマリーが打ちのめされたのは、視力だけでなく、もっと大切なものまで奪われてしまうと思ったからではないか。
“わたし、プロになるのが夢なの”
雄吾はこころのどこかで、マリーの言葉を軽く思っていたのかもしれない。夢は夢であって、現実に日常生活を送れるようになるほうが大事じゃないか、と。
けれど、その見方は違うのだ。
マリーにとってパールボール以上に大切なものなどこの世界にない。
手術後のリハビリを経て日常生活に戻れたとして、パールボールの勘を取り戻すにはさらに時間がかかるだろう。
もし再発すれば、それをまた一から繰り返すことになる。
そうして築いたものを一瞬にして奪われる、という負のスパイラルから抜け出せなくなったら、一体どうなるだろう。
マリーの選手生命は、終わったも同然ではないか。
廊下の途中で雄吾は立ち止まった。あまりにも深い目の前の暗闇に足が竦んでいた。
この先に歩き出せなんて、そんな残酷なことを言う権利が誰にある?
ふと、にぎやかな声が聞こえた。
廊下を進むと、右側に広い部屋があった。
一面のガラス戸の向こう、運動器具やマットやスロープのあいだに、目隠しをした金髪の女の子の姿が見えた。
「じゃあ~次、これは誰でしょう?」
マリーが白杖をバットに見立てて構えをとっている。
医療センターの女性スタッフがそれを見て、困ったように首を捻った。
「そんな構えの人いるの……?」
「エ~ッ、有名じゃない! オネーサン、本当にパールボールやってたの?」
「やってたけどぉ……ていうかマリーちゃん、そろそろリハビリを――」
「じゃあ、次!」
「マリーちゃあん……」
ぽかんとしている雄吾のところに、朱里絵がやってきた。
「不思議よね。あんなに元気そうにして」
「……無理してるんじゃないかな」
「そうかもしれない。あの子、あまり弱いところを見せないから」
雄吾の眼には、はじめて会ったあの日の笑顔が焼きついている。しかし今のマリーの笑った顔とは重ならない。どこか曇っているような感じがするのだ。
見上げれば、水滴のついた透け天井から、ぼやけた灰色の空がのぞいている。
この雨の中を、眼をつぶったまま彼女はどうやって進んでいくというのだろう。
自分ひとりで行くつもりなのだろうか。少なくとも、傘を差してやる誰かが必要なんじゃないか。
「……俺、マリーの助けになるよ」
朱里絵は眼をぱちぱちさせた。あまりに小さい声だったので、聞き間違いだと思ったかもしれない。けれど雄吾の眼差しに気づくと、嬉しそうに笑った。
「よく言ったぞ、息子」
朱里絵が肩を組んできたので雄吾は離れようともがいた。
それから三か月が過ぎた。