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いもうととの距離

 はじめてのパールボール、はじめてのボールパーク、はじめての風船飛ばし。


 どれもこれも奇妙な戸惑いと興奮を雄吾に教えてくれた。夜に咲くひまわりもなかなか悪くないと本当に思えた。


 退場口が混雑するのを心配して、ゲームセットの瞬間を見ずに球場を出たことを後悔さえしている。


 球場前で市バスに乗り込み、小倉南区の住宅街にあるバス停に着いた。辺りは本当に静かで、夜空には毛皮ファーのように雲を巻いた月が浮かんでいた。


 家まで歩いて数分の距離だが、雄吾はなかなかそこを動かなかった。耳の奥でまだ球音が響いているせいか、すぐホームに還るのでなく、一塁、二塁とまわりたい気持ちがあった。


 しかし、身体がついてこない。眠気に襲われ、観念して歩き出した。


 我が家の風見鶏を見上げながら角を曲がろうとしたとき、暗がりからにゅっと伸びてきた何かにつまずいた。


 うわっという自分の声と、女の子の短い悲鳴。


「いってぇ……」

「ごめんなさい!」女の子がそばにしゃがんで言った。「大丈夫ですか」


 苛立ちと痛みが、彼女の顔を見て驚きに変わった。「マリー?」


 はっと見開かれたその瞳は、暗がりでもはっきりわかるほど蒼く透きとおっている。


「ユーゴ?」マリーは手を伸ばし、雄吾の顎に触れた。「ああユーゴ、ごめんなさいね。痛かったでしょう?」

「いや……別に」


 雄吾が立ち上がると、マリーは制服のズボンをはたいて汚れを払った。

 自分でもそうしながら雄吾は、そこに転がっているバットと、さっきマリーがいた暗がりとを順に見た。


 どうやらマリーは、隣家の塀にぴったりとくっつき、バットを地面すれすれに突き出していたらしい。

 それは角を曲がってくる通行人を闇討ちするための完ぺきなやり方に思えた。


「カーブ打ちの練習?」

「うん」とマリーは決まり悪そうに言った。「庭でハネ打ってたら外に出ちゃって」

「羽根?」

 雄吾は辺りを見まわした。


 路地のこちら側は視界が悪いけれど、向こう側は街灯の明かりで暗闇が切り取られている。その光と闇の狭間に何か落ちている。

 歩いていって拾い上げてみると、それはバドミントンのシャトルだった。


「あったの?」

「うん。ほら」

 雄吾は手を上げてシャトルを見せたが、マリーはそこから動かない。

 近くまで行って、「どうした」と訊くと、マリーは何も言わずに雄吾の右腕に手をかけた。


「な、何?」と雄吾は言ったが、お構いなしにマリーは身を寄せてきた。


 仕事帰りらしいスーツ姿の若い女性が右の角から現れ、暗がりにいる雄吾たちに気づいて不自然な方向転換をし、足早に左の角に消えた。


「お願い」マリーはささやき声で言った――雄吾の視界の死角から。「わたしのバット、拾ってくれる?」


 バットは一、二歩の距離にあったが、マリーは手を離すつもりがないようので、雄吾は一塁手みたいにうんと身体を伸ばした。うまくグリップをつかむことができたが、この状況はあまりにつかみどころがなかった。


「ごめんなさい」とマリーは言った。

「暗いとこ、苦手なのか?」

 マリーは答えず、身体の向きを変え、雄吾の肘に両手をかけたまま横に並んだ。


 このまま歩けということだろうか。確かめようとするも、マリーの顔がすぐ横にあって振り向くこともできない。鼻がぶつかってしまうかも。


 ぎゅっと眼をつぶったあとで、母さんに見られませんようにと念じながら、雄吾はぎこちなく歩き出した。


「……母さんとヴィクトルは?」

「パパは道場に行ってて、ジュリエはお風」

 あっとマリーが声を上げた。雄吾の足を踏んでしまったのだ。


「ごめんね……」

「いや、気にしなくていい」

 しかしマリーはさっきより身体を離して歩くようになった。


 雄吾はなるべく互いの歩調を合わせようとしたし、マリーもまたそうするつもりのようだったが、よろよろと蛇行してしまい、調和がとれない。


 自分だけじゃないんだ、という思いを雄吾は強くした。マリーもまた、親の恋人の連れ子に対して、一定の距離を置いている。


 あるいは、気を遣っている、と言ったほうがいいかもしれない。マリーの場合はそうだろう。本当にうまくやるのだ、このよくできた妹は。

 カレンダー上の兄よりもずっと成熟している。

 だからこそ、雄吾はより困惑していた。


 あのマリーが、こんなに余裕のないところを見せるなんて。いったいどうしたというのだろう。


 家の正面を通る道に出ると、マリーは手を離して先に行き、振り向いて感謝と謝罪を示すような微笑を浮かべた。


「もう大丈夫。メルシー、ユーゴ」

「うん」と雄吾は笑顔を見せたつもりだが、うまく表情をつくれた自信はない。


 立体身体認証で守られた門を抜けて玄関に行こうとしたところ、マリーがシャトル投げのマシンを見せてあげると言った。

 雄吾は返事を考えたが、答える前にぐいぐいと庭につれていかれた。


 リビングの灯がたっぷりとこぼれた芝の上にその合成樹脂のかたまりは佇んでいた。マリーがカナダにいたころ、学校の友だちと作ったという。


「見ててね」とマリーは言い、バットをすっと立てて構えた。

 アームの先についた二本指がシャトルの重しを挟み、ひゅんと投げ飛ばした。


 弧を描いてヒッティングゾーンに来たシャトルを、マリーはぴゅっとヘッドを走らせて打ち返した。


 空気抵抗を受けたシャトルは急激な減速と落下の動きを見せるので、しっかり引きつけて打つのが難しく、またそれほど遠くまで飛ばない。それが小さな庭でもできる良い練習になっているようだった。


「ユーゴもやる?」

「いや、俺は……」

「一回だけ、ね?」


 ためらったが、結局はバットを受け取った。そして何年ぶりかに構えをとった。それが本当にバッティングの構えになっていることを祈りながら。


「お~左打ち!」マリーはキャッチャーの位置に座った。


 アームがウィウィうなりながら倒れていく。あれが倒れきったあと、一拍置いてシャトルが飛んでくる。


 雄吾はグリップを握りなおした。はじめて使う木のバットだ。これまで金属バットを握るたびに頭をよぎっていた、キャッチャーフライやセカンドゴロの残響は今、はるか遠くにある。


 アームが跳ね上がった。

 飛んできたシャトルに向かって足を踏み出し、ぐっと膝に力を込める。

 瞬間、眼に浮かんだのは、外野スタンドに消えていく大飛球。

 ぐるんとまわる景色、生まれたてのロバの気持ち、激しく打ちつける腰の痛み。


「大丈夫っ?」

「はは……大丈夫」

 雄吾は空振りの勢いでしりもちをついていた。マリーが手をとって立ち上がらせた。


「ユーゴ、わたしのせいで転んでばっかり……」

「いや、俺の足腰が弱いんだよ」

「そうね。ちょっとバットに振られてた」マリーはまじめな顔をして言った。


「これ、ふつうより重いんじゃないか?」

「ううん、標準よ。プロになっても使える重さなの」

 それは一般人の「標準」ではないだろう。


 雄吾はバットを持ち上げて切先ヘッドを軽く振り、掌にかかる重みを再確認した。

「こんなの、アイドルが振れるのか……?」

「アイドル?」とマリーは首を傾げた。


「な、んでもない」

「うそ! ナンデモアル、でしょ?」

「ないない。ないから」


 雄吾は逃げるように玄関に入った。マリーが笑いながらあとを追う。


「どこ行くの?」

「宿題があるんだよ」


 ふたりが追いかけっこしているのを、バスルームから出てきた朱里絵が見つけて眼をしばたたかせた。

 

 そこへヴィクトルが帰ってきて、タダイマと言いかけたとき、雄吾の腹がヤンキースファン顔負けのブーイングを轟かせた。


 どっと笑いが弾けた。


「ヤキニク食べたんじゃないの~?」

「っ……しゃべるのに、夢中だったんだよ」

「どれ、何かつくろうか」

「今日の残りで充分よ。あなたはいつもつくりすぎるんだから」


 笑い声の真ん中にいて、雄吾は顔を赤くしたが、不思議と悪い気はしなかった。

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