第3話
(また、来年会おうな)と言ったきり、年末年始の休みが明けてからも連絡をとらなかった。約束を果たせないまま会ったのでは、また同じ事の繰り返しになる。彼女の独りになる不安も解っていた。しかし、みじめな思いをさせたくなかったし、したくもなかった、という思いの方が強かった。そして彼女からも連絡はこなかった。家では、とにかく諭し、説得し、もう戻れないことを何度も言い続けた。一方的だったのかもしれないが、もう方法はそれしかなかった。三月の彼女の誕生日も何もせず、四月の自分の誕生日は何もなく、オフィスでもフロアが違う階になり、顔も見ない、声も聞かない日が、年末以来四カ月を超えてしまった。もう、泣き言も恨み言もなく、関係が自然消滅したかのようだった。
そんなある晩、自宅に戻ると、一枚の紙がテーブルの上に置かれていた。いつでも書けるようにと、役所からもらってきていた届出用紙。連れのサインが記されていた。そして連れはいなくなっていた。何事かと思い、携帯に電話してみたが、只今電話に出れませんのメッセージ。しばらくすると、メールが届いた。
『実家にいます。疲れました。あとは自分で処理して下さい。返信しないで下さい』
喜びや驚きなんか一切なく、ただ呆然とした。拍子抜けした。いざサインされてみると、しかも唐突だったので、どうすべきなものなのか、ただ見つめていた。戦いはようやく終わった。
四月の終わり、彼女にメールした。会いたい、と言いたいだけなのに、何て書こうか悩んだ。結局事務的になってしまった。
『今日帰れますか?』
『少し遅くなりますが、それでよければ』
事務的に返ってきた。
10分ぐらい遅れ、待ち合わせに彼女が現れた。全然変わってない様子に安心した。
「腹へったか?」
久しぶりのくせに、つい以前と同じ調子で聞いてしまった。
「食べてきたから、コーヒーでいい」
固い表情に固い口調。手をつないで歩こうと、手を取った。
「やだ」
手を振りほどいた。
「ごめん」
謝ると、近くのコーヒーショップまで先導する形で前を歩いた。注文を終え、しばらくタバコを吸ったまま何も言わず彼女を見ていた。何て言おうか考えてはいたが、こうして目の前にすると、何から何を言えばいいのか、迷ってしまう。
「で、何?」
唐突に切り出したかと思うと、彼女は一気にまくし立てた。
「私ね、今仕事楽しいんだ。自分で色々やれるんだよ。仕事が生きがいって感じかな。夜も勉強しに行ってるしね。もう泣かなくなったし、寂しいとも思わないんだ。だからもう、前みたいになりたくない」
黙って聞いていた。
「…何だったんだろう?三年も。四年?辛かったよねぇ。耐えたよねぇ。何で一緒にいたんだろ?楽しかったんだろうね、その時は。よくやれたと思って。でも、嫌だ。絶対にあんなの嫌だ。思い出すのも嫌だ。…だからもう会わないよ」
涙を流していた。
「…そうか。仕事楽しいか。良かったな」
「…」
少し微笑んで首を傾けた。
「じゃ、もう一人で歩いていけるな?元に戻ろう、なんてない訳だ?」
「…」
何も言わず微笑む。イエスと言ってるようなものだ。
「そっか…」
伝えることができない。
「…ね、何しに来たわけ?何か言いたいんじゃないの?どうして何も言わないの?どうして何もしてくれないの?」
悲痛な口調になっていた。
「嘘でもよかった。嘘じゃないの解ってたから、何でもいいから言って欲しかった。ずっと待ってたのに…。どうしてなのよ?答えてよ」
どうすべきか本当に迷った。身を引くのがいいのか、一緒になろうと言うのがいいのか、どちらが彼女にとっていいのか。
そして―。
「これ」
鞄から両者のサイン済みの紙を出した。
「何?」
「ちゃんと言えるようになった。遅くなったけど」
彼女はしばらく紙を眺めると、黙ったまま紙を返してきた。窓の外を見ながら泣いていた。
「今返事はいらない。しばらく考えて欲しい。もう本当に嫌なら今言って」
「…ずるいよ。いきなりこんなの。どうして?嫌だって言ったらどうすんの?破いて捨てるわけ?お願いだから、ちゃんと言ってよ」
一呼吸し、タバコの火を灰皿に押し付け言った。
「…一緒になろ?」
彼女も一呼吸した。
「考えさせて。…こっちから連絡するから」