第2話
彼女に家の事は言いたくなかった。それまで一言も言ったことはなかったし、まして、今起きてる本当の事なんか言いたくなかった。けれども、嘘もつきたくなかった。だったら会わなければいい。話さなければいい。きちっと決着つければいい。
「別れたよ。一緒になろう」とさえ言えればいい。それまでの我慢だ。そう考えた。結果的にこれが間違いだった。
毎日一緒に過ごしていたはずが、一緒に帰ることもなくなり、メールも電話もめっきり減った。リダイヤルと着信履歴からは彼女の名前が消え、メールの日付も同じページに2ヶ月分位あった。会うのも月に2〜3回程度、それも昼の時間に。
「…昨日ね、ウチの部長、遅刻したんだよ」
「ふーん、そうなんだ。…なんか最近涼しくなったよな」
「……そうだね」
交わす会話もぎこちなくなり、自分達の仕事の不満やグチを言うだけで、互いに差し障りのない内容しか口に出なくなった。
ポツッと話し、ポツッと答える。
空気の抜けたボールでドリブルをしている、そんな感じだった。本当に聞きたい事を聞き出せない、本当に言いたい事を言い出せない。お互い、聞いたら言ったら、終わってしまうのではないかという不安が、心の中を占めていたのであろう。そして、自分がもがいてるうちに彼女がどんどん離れていく、そんな気もした。
その間自分は、然るべきところに相談し、何とか早く解決しようとした。その場では嘘をつけず、別れたい本当の理由を告げた。
「よくあるケースです。でも、厄介ですよ」
別に驚きもせず、淡々と言われた。
「あなたに原因があるわけですし、よほどのことがない限りまず無理ですね。できたとしても時間がかかるのが通例です。話し合われるのが一番かとおもうのですがねぇ」
相談に来たはずが、にべもない答えだった。話し合おうにも、聞く耳持たない相手にどうすればいいのか、それを教えて欲しいから来たのに。
「なぁ、話聞けよ。このままじゃどうしよもないだろ?」
「……」
初めは突然の事に半狂乱した連れも、次第に、怒るでも悲しむでもなく全くの無表情で、聞いているのかいないのかすら解らなくなった。
「いいか、ちゃんと考えようよ。恐らくこうなった以上、もう無理だよ。黙ってないでさ」
何とか穏便に事を図ろうと、それでも優しく言ったつもりだった。
「…なによ。…なによ。なによなによなによっ」
突然、唸るようなヒステリックな声をあげ、テーブルの上にあったグラスを投げつけてきた。
「人のせいにしてなによっ。こうなったのはアンタのせいでしょっ。ふざけないでよっ」
凄い形相で自分をにらみつけながら、そのまま自室にこもった。嗚咽が聞こえてくる。
確かにそうだ。その通りだ。全部自分のせいだ。何も言い返すことができず、大きなため息をつき、自分への怒りを堪え、唇をかみしめながら粉々になったグラスを片付けた。何も進まず時間ばかりが経っていく。
三度一緒に過ごしたクリスマス。
最後の年は、会うどころか電話もメールもとうとう互いになかった。いくら何でもクリスマスぐらいは、とも思ったが、そういう時こそ尚更変になりたくないという気持ちが強く、携帯を開いては閉じを繰り返し、無意味に画面を見つめていた。もしかしたら彼女から連絡がくるのではないか、自分から連絡した方がいいのではないか、葛藤が心を苦しめた。
(え?なに?)
(あげる。欲しがってたやつ)
三度目のクリスマス、そっと買っておいた欲しがってたネックレスを渡すと、怪訝そうな顔で手にした包みを見つめた。
(…プレゼントいらないから。…毎年こうやって会えればいいから。ね?)
首を小さく横に振り、包みも開けず、少し微笑んだ顔に涙でいっぱいになった一生懸命な目が忘れられない。けれど、想いは二度と果たされなかった。
年末、出社最後の日、退社して本屋で立ち読みしていると、久しぶりに彼女からのメールがきた。
『会える?』
たった四文字。文字の少なさが空白期間の多さと反比例し、また、会おうとする強い意思表示の表れでもあった。
『まだ、仕事してる』
嘘を返した。
『どんなに遅くなってもいいから』
『多分無理。本当に遅くなりそう』
打ってる自分が嫌になった。
今度は電話がかかってきた。でなかった。伝言が残された。
(ねぇ、来年になっちゃうよ。今年、もう会えないんだよ。そんなのイヤだよ)
泣いていた。
渋谷。
混んでるしうるさいから嫌だ、と言う彼女のため、あまり一緒に行かなかった場所。そこでなぜか会う事にした。どこにも行かず、駅前の歩道橋下で会った。
すでに彼女の目は真っ赤だった。自分は何も言わず立っていた。
「ねぇ、もうこんなのイヤだ。ツラいんだよ。何もできないんだよ。毎日毎日苦しくて、私はどうすればいいの?」
彼女の声が、周囲の人混みの興味本位の視線を誘う。
「ねぇ、なんか言ってよ。黙ってたってわからないじゃない」
自分が家で、連れに言ってた言葉そのままだ。
「…もう少しだから」
「いっつも、もう少しもう少しって、…いつまで、…待たなきゃなんないの?…ずうっとこのままなの?」
涙がどんどんこみ上げ、鼻をすすりながら叫んでいる。自分はそれ以上答えられなかった。
「本当にもう少しだから…」
「信じたい。けど信じられないよ。…ねぇ、信じさせてよ。安心させてよ。お願いだから。ねぇ、ってば」
無表情にただ黙ってるだけの自分の胸を拳で叩くと、彼女は道に座り込んで泣いた。彼女と家との二重の苦しみに、自分もおかしくなりそうだった。
「…正月の間でなんとかするから。必ず一緒になれるから」
何の根拠もない空手形を切り、彼女を抱き起こした。
「…待ってる。もう三年待ったんだもん。あとちょっとなら待ってる」
明日から実家に戻るという彼女を改札まで見送った。
「また、来年会おうな」
「うん」
戻った笑顔で手を振りながら、彼女は改札の人混みに紛れて見えなくなった。
こんなに辛く虚しく悲しい日はなかった。