第1話
一緒になろう、と二人で決めて四年。関係に終止符が打たれた。
四年もかかった理由はただひとつ。自分が既婚者で彼女は独身であること。世の中では、これを『不倫』と呼ぶ。けれど、一度たりとも『不倫』だとは決して思わなかった。そんな俗っぽい言葉の関係だとは思っていなかった。
後ろめたさなんかなかった。心から彼女を大事だと思った。自分が守るべき人は、彼女をおいて他はなかった。
二人で笑い、二人で悩み、二人で考え、そして喧嘩もし、泣かせもした。
一緒にいるのが楽しい、というより一緒にいるのが自然で当たり前の関係だった。
欲とは関係なく、互いを確かめるように抱き合い、心も体もひとつだった。自分の立場がどうあれ、人間として、彼女なしの生活は考えられなかった。趣味や好き嫌いといった外面的な嗜好から、考え方や思想といった内面的なものまで、二人は一致した。これまで、こんなにピッタリする人間はいなかった。
よく、どう正当化しようが、不倫は男の勝手な都合だと言う。
待つだけの女性の立場からすると確かにそうなのかもしれない。
第三者に言わせても、結果論からしてもそうなのかもしれない。都合がよく居心地のよい女性を手離したくないだけなのかもしれない。どう言おうが不倫は不倫であるに違いない。しかし、一緒にいるその瞬間瞬間、そんな事は考えもしないほど真剣だった。人生をリセットできれば、時間が戻れば、などと出来もしないことを本気で思った。
同じ会社の同じ部署。
一回り違う先輩と後輩。
一緒に仕事をしているうちに、というごくありふれたきっかけだった。
初めは確かに、互いにちょっと遊ぶ程度だったのかもしれない。
しかし、ぐんぐん惹かれていった。
一緒に仕事をし、昼は一緒に食事をし、帰りも一緒に会社を出た。そして一緒に夜も食事をした。彼女の家まで一緒に帰ったのも数知れない。一日のほとんどが一緒だった。旅行にも行った。京都に行って野宮神社で願掛けもした。伊豆の恋人岬で一緒に鐘を鳴らした。子供みたいに七夕の短冊に願いを書いた。『必ず一緒になれますように』
ただできなかったのが、朝一緒に会社に行く事、休みの日に会う事。これが彼女にとってイヤだった。つまり、自分は自宅に帰り、休日は自宅にいることだ。夜、終電に間に合うように、彼女の家を出る。窓から笑顔で手を振って見送ってくれた。
「また明日ね、バイバイ」
曲がり角を曲がる最後まで、明かりのついた窓から見送ってくれた。暗い道でこちらの姿が見えるはずはないのに。その後、部屋に一人残され泣いていたのを知っていた。知っていて知らないふりもしていた。そしてまた次の日、一緒に過ごした。ズルいと言われるかもしれない。結局家庭が大事なのじゃないかと言われるかもしれない。
「一緒にいると、すごく安心するの…」
彼女がよく言った言葉。自分も全く同じだった。
「でも、離れているとすごく不安で不安でどうにかなっちゃいそうなの…」
滅多に面と向かって弱音を言わない彼女の、これもよく言った言葉。自分はとにかくこの不安を無くすのに精一杯努力した。
「もうすぐ別れるから…」
常套文句を蕎麦屋の出前のように繰り返し、先延ばしするのが不倫であるが、自分はそうなるまいとしっかり実行した。そして彼女に被害が及ばないようにも。そのための自宅帰りだった。
「他に好きな女性ができたので」では公的には認められないし、家庭内でも自分だけならまだしも、彼女に迷惑がかかる可能性だってある。長期戦覚悟で別の理由で切り出した。
しかし、当然ながら拒否される。本当に長期戦になり、真実全てを彼女に話せない自分は、それこそ蕎麦屋の出前になってしまった。そうなると、彼女の不安もより増し、自分は何とかなだめるのに苦労した。結果的に彼女に嘘をつき、家庭でも嘘をつき、二重の嘘に精神的に辛くなった。
(もう、やめよう…)
何度もそう思った。しかし、どうしても一緒になるためには、自分がやるしかない。誰も手伝ってはくれない。自分はとにかく戦いに集中することにした。
そんなある時、彼女が異動になった。同じフロアに席はあるものの、一緒に仕事をすることはなくなった。それをきっかけに集中しようと、彼女との距離を少し置いた。毎日会っていた回数を徐々に減らし、休日に必ずかけていた電話もやめた。集中するためでありながら、嘘の会話をしなければならない苦痛から逃れたかったのかもしれない。
『忙しいの?今日は会える?』
彼女からの連絡も日が空くようになり、毎日きていたたわいもないメールから、切実な言葉になっていった。
『ごめん、今日は無理…』
打ちながら心が痛んだ。本当は会いたい。悲しむ顔が頭をよぎる。
『そっか。あんまり無理しちゃだめだよ。また今度でいいよ』本心でないことは明らかなだけに、不覚にもこみあげてきた。