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「…あれ、目覚まし鳴ったっけ」
あ、まだ飾り途中じゃなかった!?
「ヤバッ!!!」
バチリと目を開け目覚ましを探す。ない!ない!今何時!?あれ、時計は?あれ?あ、れ?
「あ、そうだった。忘れてた……」
目覚ましを探してさまよった両手を馴染みのないベッドに深く沈みこませる。俯き加減に左を見れば気泡だらけで歪んだ窓から眩しい朝日が射し込み、外からは調子っ外れの聞き慣れない鳥の鳴き声が聞こえる。
いつもの癖で起きてしまったけど、ここ地球じゃないんだった。
人間焦れば案外動けるもんだ。昨日痛すぎて動けなかった身体は目覚ましを探す為に難なく起き上がり、今はベッドの上にぺたりと座り込んでいる。いや、筋肉痛は残っているみたいで動くのに躊躇するけど。
「起きたか」
ハッと右を向くと明らかに笑っている虎の顔があった。
「…お、おはようございます」
うわぁ、見られてたんだ。
「あぁ、おはよう。ニンゲンは今何してたんだ?」
腕を組んで笑う獣人さんは腕を伸ばせば触れられそうな程近くに立っていた。
「あ、あの…元の世界の夢を見てました。目覚ましを探して…」
へたり込んだまま見上げてそこまで言うと獣人さんは左手の爪で髭をツツーっと引っ張り思案顔をしている。あ、目覚まし、分からないかな?時計は…?
「時計…ってありますか?これです」
左手にあるシンプルな時計を見せると彼はまじまじと見入った。
「目覚ましじゃなくてただの小型の時計なんですけど、起きる時間を設定しておけば音がなる物もあるんです」
「へぇーこんな形してんのか。…時計は聞いたことあるがこの里にはねぇな。基本的に時間なんて気にしねぇから。好きな時に寝て好きな時に起きればいい」
もっとも仕事してたらある程度は規則正しく動くがな。と彼は言い私に手を差し伸べてきた。
「起き上がれるか」
彼の手は甲の部分はもふもふなのに手の平は肉球の様な見た目の黒い皮ふで覆われていた。爪は出し入れできるのか今は見当たらないのもあって形状は人の手に近かい。
「な、何とか」
そっと手を重ねてみる。あ、思っていたよりも固い。でも人肌よりも暖かい。
「おい、大丈夫かよ」
「だ、大丈夫、です」
覚悟を決めて、よいしょ!と立ち上がったが一歩踏み出すのに中々の勇気が必要だった。非常に痛い。筋肉痛もだけど足首が…。
「…ちと、いいか?」
「え?」
何だろうと思った時には膝裏と肩に回された大きな腕。あ、と思った時にはふわっと軽く横抱きにされた。おぉ、お姫様抱っこだ。不思議と羞恥はない。
「足首消毒したんだがな、まだ痛むのも当たり前か」
多分踏み出すたびに酷い顔をしていたんだろう。痛いのを知ってて歩く事がこんなに怖いなんて大怪我をした事が無かった私には驚きだった。
「…ほんと、すみません」
「気にするな」
運んでくれたのはベッドの足側にある長テーブルとその両サイドにベンチがあるリビングだった。寝室とリビングに間仕切りはなく一段だけ段差がありベッド側が高くなっている。寝室に行くときは靴を脱ぐらしい。ベッドから見て向かって左には大きな食器棚があって正面には2つ竃があった。扉は右にある。
「あ、私の荷物」
椅子に下ろしてもらって前を向くとテーブルの上には脱げたパンプスと使えなかった500円のナイフに空っぽのナチュラルなポーチが広げた布の上に置いてあった。
「他になくしたもんはないか?」
「はい、これだけです」
言って微妙な気分になったがとりあえずポーチを手に取り、パンプスはまだ履けないから床にただ置いた。
「それ、どうすんだ?」
残ったのはサバイバルナイフ一本。これ、使い道あるのかな…。
「あの、この里は治安良いですか?…いや、私にとって安全な場所でしょうか」
その答え次第ではまだポーチに入れとく必要があるだろう。向かい側に座った彼は少し考えた後、腕を組んで言った。
「治安は良いがニンゲンにとってはどうだろな、出てみなきゃ分からん。が、ニンゲンがそれを持ったところで大人相手には太刀打ちできないだろう」
元も子もない。
やっぱりいらなかったじゃんコレ! 500円! たった500円されど500円! 1万円しかない中での500円!
「…こんなことならお茶とおにぎり買うんだった」
「ん?なんだ?」
「あ、いえ、何でもないです。……あの、そのナイフ良かったら使ってください」
私が持ってても仕方がない。猫に小判とはこの事か。…虎にナイフ、私よりも使い道ありそうだ。
「切れ味はバツグンなんで、多分役に立てるかと」
森で枝を切った時に勢いあまって自分の指まで火おこしの材料にするとこだった。結局使ったのはそれだけだったし火は熾せなかったけど。
「いいのか?こんな綺麗なナイフ見たことないぞ。貴重なもんだろ?」
いや、それ500円の安物なんです…なんて言うはずもなく、私はどうぞどうぞと勧めた。何となくだけど欲しそう? 見え隠れする尻尾はクネクネと揺れ動いている。
「迷惑かけてるお詫びだと思って使って下さい」
「別に迷惑とは思ってねぇんだけどなぁー。まぁ、そう言うなら有難く頂く事にするよ」
そう言うと布に包み後ろの台所の上に置いた。あ、調理用ですか?
バーーーン!!!!
突然大きな音を立てて扉が開いた。
「おい!!!ギル!! なんか臭うって里中がうるせぇんだけど! 説明し、ろ……!?!?」
突然家に飛び込んで来たのは小学生くらいの背丈の子供の虎獣人だった。
な、なにごと?
「おいこら、お前普通に開けらんねぇのか!毎度毎度!!」
彼は呆れ顔でそう言ってるけど男の子の耳にはきっと入っていない。何故なら私をガン見して零れ落ちそうなほど目を見開き、口はポカンと開いているから。もう私しか見てない。
「あ、ヤベェ」
彼がそう言った瞬間。
「な、なな、なんだよコレ!?バ、バケモノー!!!!」
男の子の大絶叫が家中に、いや里中に響き渡った。
「うるせぇ!!馬鹿野郎!」
彼の拳が男の子の頂点にごつりと落とされた。舌を噛んだらしい男の子が泣きながら私に指をさし何か必死に言っている。…分かるよ、うん。ここで人間の私ってバケモノだよね。きっとこの獣人さんがズレてるに違いない。
何でか私は冷静だった。
「ニンゲン、気にすんな。とりあえずちょっと待っとけ」
それだけ言うと男の子の手を乱暴に引いて開け放たれた扉をくぐりパタンと優しく閉めた。
外からは大勢の話し声と男の子の泣き声と彼の淡々とした声がぼんやり聞こえる。なんかマズイことになってる気がする。どうなるんだろう私。お値段5000円の意味を考えるとこれ以上の悪い事が起きる気がしてならない。
ねぇ、卑弥呼お値段設定もう少し易しく変えた方が良いよ。私も安全な世界に行きたかった。
彼が戻ってきたのは案外すぐのことで男の子は居なかった。
「あー、なんだ、匂いで何かが入って来たのは分かってたみたいだ」
どかりと椅子に座り頭を乱暴に掻く仕草は人間じみている。いや、異質なのは私だから人間ナンチャラって可笑しいか。
「やっぱり私が居るとマズイですよね」
良くしてもらったしこれ以上は本当に迷惑になるだろう。せめて足が治るまでとか甘えたこと考えてたけど、それどころじゃなさそうだ。
「まぁ、里の連中は混乱してるな」
「ですよね…。明らかに見た目違うし気持ち悪いでしょうし」
分かっていたけど溜息が出る。あー、ハードモードに突入しそうだよ。
「確かに見た目は違うけどなぁ、気持ち悪いのか?」
いや、私に聞かれましても。
「多分、一般的にはそうなんじゃないでしょうか」
「…そうか」
何故か彼まで溜息を吐く。どうしよう、このどんよりした空気。やっぱり獣人だけの世界に地球人は無理だったか。
私は考えるや否や破れたタイツをモゾモゾとテーブルの下で脱ぎポーチに突っ込んだ。そして床に置いていたパンプスを素足に履く。うっ、靴擦れが…。それでも仕方ない、裸足よりましだろう。テーブルの角を持ちゆっくりと立ち上がって足首のチェックをする。あはは、痛い。でも、仕方ない。
「迷惑かけてしまって…ごめんなさい。本当に助けてくれてありがとうございました」
椅子に座って私を不思議そうに見つめる彼に深く深くお辞儀をして顔を上げた。彼の……ギルさんの顔を見たら何でか泣きそうになったけど何とか押さえ込んでポーチを肩にかけ扉に向かった。
「おい、お前、どうする気だ?」
震えそうになる足を止め、もう一度ギルさんの方を見た。鼻に皺を寄せて凄く険しい顔をして私を見ている。ギルさん、その顔めちゃくちゃ怖いよ。
「とりあえず、他の里を当たってみます。猿の獣人っていますかね。そこならまだ受け入れてくれるかもしれませんし…」
猿、自分で言って鳥肌が立つのがわかった。猿の獣人って猿の○星みたいな里?想像しただけで正直怖い。
「…やつらは血の気が多いから止めておけ」
そうなんだ。想像通りで驚きもしない。
「じゃあ、草食系のトコに…」
「草しか食わねぇのは居るらしいが基本この世界は雑食だ」
「……」
え、馬も肉食べるの?牛も羊も?ていうかどんだけの人種?居るんだろう。
何か考えてたら力が抜けてきた。もうどうにでもなれって感じだ。
「…とにかく探してみます」
「そんな状態でか?ニンゲンは弱いんだろう」
確かに身体中まだ痛いし、またあの獣に出会ったら普通に死ぬと思う。でも、仕方ない。
「…大丈夫です。人間って案外強いんですよ?もしもの時は…そうですね、その時はその時です。一度死んでますし良く考えたら平気です」
一回生き返っただけでも凄い経験だ。獣に襲われて死んだとしても餓死したとしても、運良く他の里に着けたとしても…なるようにしかならない。大丈夫、なるようになる。
「ありがとうございました」
私はそれだけ言うと扉をそっと開け、眩しい光に目を細め外に出た。
思ったよりも多くはない。いや、でも目の前には虎の獣人がずらりと並んで右の道までそれは続いている。あぁ、森は左なんだな、と地理を知らずとも分かるほどに人々の視線は冷たくて、小さな呼吸をするのも辛いほどだった。
私は一度深く頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありませんでした」
5秒ほど下げて顔を上げた。でも、彼等虎獣人の意外と感情の分かる顔を見るには辛くて、青く綺麗な空に視線を向けた。深呼吸する。
行くしかない。
彼等に背を向けて右足を引きずるように森へと進んだ。
ゴッ!という衝撃が、痛みが、背後から唐突に与えられた。
凄い命中率だなぁ、そう思っただけで歩みを止めなかった私は、壊れているのかもしれない。
「やめときな」って女性の声が聞こえたけど、その衝撃は次々と襲ってきて、最初に傷んだ頭部からは血が流れたらしくそれが伝う頬がむず痒い。何となく、誰がやったとか興味も意味も無い事を確かめるとかじゃなくて、軽く顔だけ振り向いたその目に映ったのは本当に小さな子供から地球でいう中学生、高校生くらいの子達までが足元に転がる適当な石を私に向かって振りかぶっている姿だった。
なるほど、先生と呼ばれた私も所変わればこんなものか。
対して無かったはずの自尊心さえあやふやになって、心許なかった歩みは痛みのためか、その重さ故か…さらに鈍くなったようだった。
それでもいつかは森へと入る。
流石に深追いする子もおらず、私は森へ入って少し歩いて崩れ落ちるように倒れこんだ。
「あー、しんどい」
体も、心も、何もかもしんどかった。
少しの優しさを、希望を与えられるくらいならあの夜、獣の餌になった方が楽だったんじゃないかと、生き永らえておいてそんな罪深い事を考えた。
なるようにしかならない。
あの日葬式に行く途中だった。その死んだ爺ちゃんが言ってた口癖。
「人生なるようになる、なるようにしかならん」
親族で唯一まともだった気がする母方の祖父。唯一保育士になる私を温かく見守り応援してくれていた。昔は爺ちゃんの言葉なんて深く考えることもなければ身にしみることも無かった。でも今は、なるようにしかならない人生を送るために動く力を与えてくれる。
「うん、なるようになる。なるようにしかならん。その通りだよね」
少しでも成りたい方向に行くために私は歩き出した。
方法はともかく、知らない里に着いたのは1日後で、大雑把に選び歩いた方向が偶然良かったんだろう。
でもやっぱり格安の世界は甘く無かった。