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今、入山美里は森の中にいる。
「安全な場所じゃ、無かった…の?」
絶望感たっぷりだった。
獣人世界を選んだ後、残りのお金でなんとか生きていける道具を買わなければとカタログを手に目を皿のようにして端から端まで何度もチェックした。その結果、安全な場所と言語習得と500円で買えた唯一の武器サバイバルナイフを購入した。残金0である。
皆んなの視線に泣きそうになりながらも卑弥呼(仮)に完了を伝えると「おっけぇ〜♡それぞれの世界にも神様いるから一応贔屓してって伝えといてあげるわぁ♡じゃあ皆んな元気でねぇ♪」
そうにこやかに手を振る姿を見て、その喋り方で地球の神なの!?と言いそうになった私は真っ白な光に包まれて、目を開いたら森だったのだ。そして冒頭に戻る。
うじうじしてても仕方がない。食料も飲み物も購入出来なかった私は人里…獣人の里を目指すしかない。サバイバルのノウハウなんてこれっぽっちもないし。
兎に角、多分地球と同じ午前中だろうと思って太陽とは逆に歩き始めた。いや、そもそも太陽が東から西に沈むのかも定かじゃないけど。本当に安全な場所2000円はしっかり仕事してくれるの?そう不安になりながらも2時間歩き続けた。時間は腕時計でチェックした。葬祭用のバッグは無くなってたけど腕時計とシンプルな礼服に黒の踵の低いパンプスはそのままで、肩にはコーデに合わなすぎる茶色の革で出来たシンプルなポーチがかけられている。それに入っている唯一の道具、ナイフだけ取り出して歩き出したけど新調したパンプスは容赦なく私の足を靴擦れだらけにした。
「…辛い」
日が暮れるまでには里を見つけたい私は歩みを止めなかった。泣き言くらい言っても良いよね。
でも無情にも太陽は私を追い越し今はもう目の前にいた。……まずい。
とりあえず火だけでも起こせないかと、小学生の頃に工作だったかなんかの時間に習った火起こしの方法を落ちていた木でやってみた。けど擦るスピードが足りないのか昔の事過ぎて何か忘れているのか全く火種を作ることは出来なかった。
「…やばい、やばいって。暗くなったら流石にキツイよ」
喉もカラカラだしお腹も空いた。安全な場所さえ買えば獣人に会えて、言葉さえ通じれば食料も手に入ると思っていた私は馬鹿だった。地球での安全とこの世界での安全基準が大きく違っているなんて平和ボケした私には想像出来なかった。
結局火も起こせず川も果実も何も見つからなかった私は無心で歩き続けた。……止まったら本当に心が折れて立ち上がれそうに無かったから。
とうとう日が暮れて街灯なんてあるはずもないこの世界は黒よりも濃い闇に包まれた。月が存在しないのか、新月なのか…目はいくら待っても慣れることはなく私はとうとう座り込んだ。足が痛い、喉が渇いた、お腹がすいた、疲れた、動けない。我慢して履いていたパンプスを脱いで黒のタイツに触ると滲んだ血を感じた。ははっ、ぐちゃぐちゃだ。
「貯金、もっとするんだった」
いや、違う。子供の頃の夢なんて捨ててしまえば良かった。親の言う通りに教員免許をとって、学校の先生になって、自慢の娘になっておけば良かった。ポロリポロリとタイツに涙が落ちた。
「泣いても仕方ない、あー、でも本当に疲れた……」
もう寝てしまおう。虫に食われようが動物が来ようが私には何にもできない。
木に凭れ掛かった私は半端気絶するように眠りに落ちた。
寝てから多分そんなに経っていなかったと思う。
「…いっ!!!!」
私は激痛を感じ無理やり眠りから引っ張り上げられた。痛い!痛い!何かが私の足を咥えている。
「いっ、いやぁぁあ!!いっ痛い!痛い痛い!!!!」
右足首を咥えた何かは悲鳴をあげる私の事なんか無視してズルズルと引きずって行く。左脚で蹴っても蹴っても大して効いていない。なんで!?なんでこんな目に遭ってるの!?何か悪い事でもしたっていうの!?ただ必死に生きてただけなのに!それだけなのに…!!
そんな私の心情なんて知る由もない何かは一度止まるとまた右足首を咥え直した。
「ああぁぁぁ!!!や、やめて!痛い!痛い!!」
一瞬離されたと思ったのに顎が疲れただけだったらしい。何かはまた私を引きずって行く。手に握っていたナイフも何処かで落としてしまった。あぁ、このまま死ぬんだな。何が安全な場所だよ、2000円返して、今すぐ他の物買うから。痛みとショックで薄れていく意識の中そんな事を真面目に思った。
「おい、犬っころ、それを離せ」
ふと、耳に届いた低い声。
「あぁ?聞こえねぇのか?」
ドゴッ!という鈍い音にギャン!という悲鳴が聞こえると共に足にあった鋭い痛みは離れていった。…助かった?…でも、まだ凄く痛いよ…。朦朧とする頭は目の前に居るはずの助けてくれた人の情報を何も伝えてくれない。あ、でもお礼だけでも、お礼だけでも言わなきゃ。
「……あ、りがとう」
なんとかそれだけ絞り出した私はあっけなく意識を手放した。その間際に聞こえた気がする「おい、死ぬんじゃねぇよな」という低い声に酷くほっとした。
次に目を開いた時には右足首だけじゃなく、全身の痛みに思わずうめき声が出た。
「…いっ!」
なにこれ、めちゃくちゃ痛い。しかも身体中重くて腕一本上がらない。動かせるのは首だけで、なんとか周囲を見渡す。あぁ、きっと昨日の人…獣人が助けてくれたんだろうな。
私が寝ているのは少し硬めのベッドで、横を見れば丸い背の高いテーブルと椅子。その奥には本棚や食器棚が見えた。あれ、思ったよりも文化的?
「目、覚めたか?」
急に聞こえてきた低い声に動かないはずの体がビクリと震えた。急に大きな影が私を覆う。
「あ、あ…」
足元の方に目を向ければ、黄色味の強い茶色に黒の縞模様の、虎の獣人が立っていた。
カタログで事前に獣人の世界って知っていたし、獣人の写真も載っていた。でもその時は遊園地とかにいるあの被り物みたいに見えて全然リアルじゃなかった。でも今、目の前にいるのは紛れもない虎で。虎の頭に、毛皮に包まれた人間の様な体、手も足も動物のそれで…助けてくれた獣人なのに私の体は私の意思を無視してガタガタと震えだした。
「…なんだ、怖がらせたか?」
「ち、ち、ちがっ…!」
恩人なのに! 私は獣人の世界って知ってるから、こんなに怯える必要なんてない! 全身痛くて痛くて仕方なかったけど私は右腕を何とか動かし震えを止めようと体をキツく抱いた。
「おい、まだ動かねぇ方がいいぞ」
「た、助けて、くれて…あ、ありがとう」
痛みのせいか恐怖のせいか、止まらない震えを無理やり消そうと身体に力を入れる。
「…無理すんなって、お前どう見ても獣人じゃねぇし…牙も爪も無い。弱そうだもんな、あんな犬っころにやられるくらいだしな。怯えんのも仕方ねぇ。ほら、とりあえず寝ろ、食わねぇから」
足元から一切私に近づく事なくそう言った彼は背中を向けて何処かへ行ってしまった。
少しずつ治る震え。自分の体が酷く腹立たしかった。