一瞬前まで、勇者のハーレム要員でした
唐突に思い出した。
いや、思い出したと言うのはおかしいかもしれない。忘れていたとか、そんなレベルのことじゃない。
“わたし”は“私”だった。
平和な日本と言う国でそこそこ性に合った仕事をこなしていた、今に比べたら随分と平和な私。
それはわたしの前世であり、今世のわたしに取って替わるもの。
わたしは、死んだ。
そして私は認識する。この古典的なファンタジーの世界が、今世のわたしの生きていた世界なのだと。これから私が生きる世界なんだと。
「……はぁ?」
どういうこと。
わたしが死んで、私になった?どんな超常現象よソレ?
なんせ私には死んだ記憶がない。
正確にはひとりで行きつけの居酒屋に行って馴染みのおじさんと語らって帰って布団に潜り込んだところまでしか、ない。というか自分が何をやっていたかは覚えていても家族友人仕事関係、果てには自分の固有名詞が全く思い出せない。
それなのに、今の私には“わたし”の記憶がある。
超希少な召喚士のジョブを持っていてドSな師匠に鍛え上げられていたかと思ったらあっさり捨てるように独り立ちをさせられて。
冒険者ギルドでソロBランクまでえっちらおっちら上がっていたところで美形勇者率いる美女パーティーに出会いある一件に手を貸してくれた勇者にマジ惚れして美女軍団の仲間に入り。
今日紆余曲折あって勇者中心の一軍パーティーからはじき出されていわゆる二軍落ちをしたのに絶望して首を掻っ切り自殺をしてしまった、という記憶が。
「はぁあ?」
なんだ、それ。
何やってんのよわたし。たかが二軍落ちで自殺?這い上がりなさいよそれくらい。ここ三軍まであるのにそれでいちいち死んでたら三軍の女なんて全員死んでるでしょ。
「……無理ね」
わたし――コレットは、とんでもなく後ろ向きで根暗な性格だったらしい。
しかも極度の人見知りで思い込みが激しく溜め込み型で俗に言うヤンデレという、結構なレベルで最悪な性格だ。
私はとてもじゃないが友達になれそうにない。たかが惚れた男から遠ざかったくらいで死のうなんて……全く相いれない。
まぁ、コレットはそれだけ勇者が好きだったんだろう。そういう激情自体は嫌いじゃない。
私自身はそういう感情を持っていなくても、相手から向けられるのは好きだ。
「『浄化』」
ふと思い返してみれば、辺りは血みどろ。
自殺するためにわざわざ街の外の森まで来るなんて、コレットは変なところで律儀だ。勇者を想って死ぬならいっそのこと目の前で首を掻っ切るくらいインパクトがあることをすればよかったのに。
首筋から腰かけていた岩までを染めていたどす黒い赤が、一瞬にして消えていく。
息をするように簡単に動く魔力。今更ながら本当に私はコレットなのだと再認識する。そしてすとんと腑に落ちてしまう。
記憶が同化している。私は私であった時のことを、少ししか思い出せない。それを残念だとしか思えない私は、もうコレットとして生きるしかないんだろう。
コレットは死んだ。絶望して、生きる気力を失って消えた。それははっきりとわかる。
それがどうして私の意識を蘇らせることになったのかはわからないけど……ここからは、私がコレットだ。
「ふ、ふふふ……」
不気味な笑い声だと思うけど、コレット自身の声はとんでもなく愛らしいので問題なし。
ついでに言えば、容姿だって一級品だ。なんたって、あのハーレム野郎の一軍を張っていたんだから。
アレな性格を差し引いても傍に侍らせるのがふさわしいくらいには美しい。
右の前髪だけ白銀のメッシュのようなものが入った、黒真珠のように煌めく波打つ黒髪。少しピンクがかったミルク色の滑らかな肌。やや起伏に乏しいながらも均整のとれた体つき。可憐とはこういう事だと誰もが納得するだろう、濃紺の大きな瞳が印象的な甘い顔立ち。
私自身はきつい顔立ちのそれなり美人だったけど、レベルが隔絶している。惚れ惚れするような美少女っぷりだ。
こんな花も恥じらう超美少女が、大勢の美女を侍らせて鼻の下を伸ばしている男の下にいなければいけないなんて、どうかしている。
私はもうコレットだ。この身体、この人生は私のもの。
だから、ここからは私の好きなように生きさせてもらおう。
「貴女も、それでいいわよね? だって死んでしまったんだもの、ねぇ」
返事なんてない。それでも決別には十分だ。
冒険者にはあまり似つかわしくない、ドレスローブの裾を払って立ち上がる。
首筋にあるはずの、致命傷らしき傷はない。私に入れ替わった瞬間にはもう消えていて、それがどうしてなのかはわからないけど考えても仕方がないので放っておく。
私はただ、傷心のまま人気のない森に来て泣き崩れていただけ。そう、それだけだ。
「『転移・ウルツェルゲ』」
北の果てにある、城塞街。そこが私の戻るべき場所で――これから捨てに行く場所だ。
× × ×
「ユート様、次はハーゼルスなんてどうでしょう? 火竜の迷い雛がいると情報がありますの。氷竜を下したユート様が向かう場所としてはふさわしいですわ」
「ちょっと! ンなあっついトコ行けるワケないだろ! ユート、まずヒビィスクに行くべきだよ。アソコの温泉、アンタ好きだろ?」
「阿婆擦れ達の考えなんて見え透いてる。ご主人様のことを本当に考えているのは私だけ。そうですよねご主人様」
「はぁ? 何ですの、解放奴隷の癖に偉そうに!」
「奴隷になりかけてたムダ乳魔術師に言われたくない。解放したのはご主人様であったムダ乳ではない」
「けんかはだめですよぅ~ユートさんが困っちゃいますぅ」
「そうよ、やめなさいな。ユートが次に向かうところは勿論王都に決まっているのだから。見苦しいわよお前達」
「なァに自分に都合のいいように話進めてんだよ。ご令嬢はさっさとひとりで帰れってんだ」
借り上げている宿屋の食堂。
覗き込めば、日常として馴染んでいたあまりにも低レベルな会話の応酬。
……どうして、私はこんな頭の悪そうな輪の中に入ろうと頑張っていたんだろうか。こうして改めて外から見てみると、心底馬鹿馬鹿しい。
ダークエルフのお色気系魔術師、ハーフドワーフの姉御系戦士、ワーウルフのクール系斥候、フェアリーの小動物系治癒士。そして私の代わりに入ったヒューマンの高飛車系魔獣使いなご令嬢。
ここにヘラヘラした笑顔を浮かべながら鼻の下をうっすら伸ばした勇者が入って、六人のパーティーになる。
美女軍団には暗黙の了解、鉄壁の掟のようなものが存在している。
一軍だけが常に勇者の傍に侍り、勇者の名前を呼び、旅の方針について意見することができる。
二軍以下は火急の用でもない限り、食事の時か勇者に呼ばれた時しか近づいてはいけない。
この序列は勇者からどれくらい気に入られているかは勿論のこと、容姿実力も必要不可欠。様々なものを鑑みて無言のうちに決まる。一軍の中での序列を決めると決闘が始まる事態になるので大まかに一軍二軍三軍、の括りではあるけど。
「失礼致します」
まさしく鈴が鳴るような声でその場に入り込めば、思い切り不審そうな視線を五人から向けられる。
さっきまで同じパーティーにいたというのに、この対応はないだろう。
そう思ってから、私はほとんど顔を晒したことがないことに気付いた。身支度の時以外は極力人の視線を避けるようにドレスローブについていたフードを被っていた。
だけど、もうそんな必要もない。私は人の視線を怖いとも思わないし、この美貌を衆目に晒さないのは勿体ないだろう。
「コレット! よかった、どこに行ってたのか心配したんだぞ」
美女軍団の間を縫うように颯爽と私の前に出てきたのは、勿論勇者様だ。
私が見た瞬間は確かにゆるく鼻の下を伸ばしていたはずだけど、随分と変わり身が早い。
黒眼黒髪。青年と少年の間にある、溌剌とした生命力を感じさせるような輝かんばかりのイケメン。
そう、この男は日本から異世界召喚された選ばれし魂を持つ勇者だ。
はっきり言って、私はこの男が嫌いだ。
恋愛感情なんてものはコレットが持って逝った。今や残りカスすらない。
あるのは記憶から読み取れるだらしない男に対しての悪感情だけ。美女軍団を小賢しくコントロールしてハーレムを維持しながら、中途半端な鍛錬しかしないダメ男。そんな印象しかない。
女神に祝福された選ばれし勇者は、天賦の才とも言えるスキルやステータスをこれでもかと言う程与えられている。
それなのに本当に、旅の進み具合もレベルの上がり具合も中途半端。
人を傷つけることにためらいを持っているにしては冴えた剣筋。高みに昇りつめ魔王を圧倒しようと言うには鋭さが足りない剣技。そして旅を始めて二年経つというのに隔絶はしていない、未だに人間の範囲に収まるレベル。
たかが二年で何が、と言えはしない。この世界には過去数度、異世界から召喚された勇者がいた。彼らの中には最短で半年、最長でも三年で魔王を倒している。そしてその力はもっと人外じみた神がかり的なものだった。勿論誇張されていることは多いだろうけど、そのレベルだけは真実として残っている。
目の前の勇者はその絶対的な才能と、現時点での実力が見合っていない。各国からも様々な恩恵を貰っているのにも関わらず、魔大陸へと至るきざしもない。
今までの私はそれが人助けをしながら旅をしているからだと思っていたけど、明らかに違う。
この男は美女が関わる事件でしか頑張らない。“困っている人を放っておけない!”なんて言いながら、助けるのは直接的にも間接的にも美女ばかり。
しかも一歩引いたところから見れば、この男は美女が関わらない事件についてはひどくドライだった。どうしようもない事態では手を貸すこともあったが、対応の差は歴然だった。
それでも“人々が自らの力で立つことも必要だと説きたいんですねさすが勇者様”なんて思っていたのだから私も相当救えない。
それが当代の勇者の在り方だと言われてしまえば、それまでなのかもしれない。
だけど、私はこの勇者が人々に希望をもたらすものだとは到底思えない。少なくとも、今の私には。
「コレット……?」
「あんな顔だったっけ? アイツ」
「何か雰囲気変わってる。負け犬魔獣使い」
「どうしてここにいるんですかぁ~? 序列は~守らないとですよぅ」
外野の声なんて、気にならない。私はもう私なんだから。
二度目になるけど、私はこの男が嫌いだ。勇者としても男としても。
更に言うなら美女軍団の全員が嫌いだ。いくら美しくても皆性格が悪過ぎる。
だから一刻も早くさよならしようと思う。
「勇者様、皆様。私、コレットはお暇を頂きに参りました。パーティーから外れたのもいい機会、私はここで皆様との旅を終わりにします」
元々、私は暗い性格ながらもひたむきに研鑽に励む冒険者だった。
またそうやって生きてみるのもいいだろう。上れるところまで上り詰めて、同性異性関わらずいい出会いをたくさん作って、満足できる相手と結婚してみるのもいいかもしれない。それができる力は、きっと今の私にはある。
必要とされないのにこんなところにいる意味なんてない。一秒だっていたくない。ただ筋を通しているだけだ。
「では、さようなら」
荷物は亜空間であるストレージに入っているし、本当に身一つの身軽な旅だ。移動用にヒッポグリフでも召喚して、さっさと離れよう。
そう思いながらひとつ礼をして、踵を返そうとすると。
「ま、待って! コレット、いきなりどうしたんだ?」
どうしたもこうしたも。
あえて詩的に言ってみるなら“百年の恋から覚めた”んだろう。
いきなりだったのは当然だけど、もし前世の人格が出て来なければ私は死んでいたんだから、どちらにしろ勇者とはお別れだ。
私がいなくなっていることに気づいていたくせに捜しもしなかった男に、いきなりなんて言葉を使われなくない。
「氷竜をテイムできなかったのはショックかもしれない、コレットはいつだって控えめだけど頑張ってたから俺だってできると思ってたんだ。無理言って悪かったよ」
……は?
「でも結果的にマヌエラがテイムできたんだし、たった一度の失敗でパーティーから離脱するなんて……そこまで思い詰めるなよ、な?」
…………はぁ?
「ばっかじゃないの」
思わず勝手に口が言葉を発してしまった。
愛らしい声なのにひどく冷えたその音に、勇者始め一軍が固まる。
何も言わずに送り出してくれるならそれで終わったのに。よりによってそんなことを言うなら、こっちだって言い分がある。
「テイムとコントラクトの違いも分からないなんて、それでも勇者? 侍ってる面々はそれでも一流の冒険者? 私が今まで魔獣使いだと思ってたのは知ってたけど、本当に見る目ないのね。偽装の指輪くらいいつか見破ってくれると思ってたのに、まだそんなレベルなんてがっかりだわ。まぁ、貴方には現時点で希望を持てるところなんてひとつも見つからないけど」
「コ、コレット……?」
「私は召喚士よ。それに、氷竜は契約できなかったんじゃなくて、しなかっただけ」
召喚士は魔獣使いよりも上位のジョブだ。魔術と錬金術に精通し身一つで契約術を自在に行使できる希少ジョブ。ステータスを偽装しておかないとソロなんかじゃいられないくらいに便利で強力で凶悪な力を持つことができるもの。
それを正しく学んだ私にとって、魔獣の枠に入っているいきものを使役するなんて簡単なこと。
力不足なんて、有り得ない。私はあえて、契約をしなかっただけ。
今回の魔獣――氷竜は、私とひどく相性が悪かった。
正確に言えば、私が契約しているある存在との相性が絶望的に悪かった。
だからひどく怯えられて、契約するくらいならいっそ殺してくれとまで言ってきた。私だけにしか聞こえなかった念話で。
私は師匠に魔獣の扱い方についてこれでもかと言うくらい学んでいる。相性の合わないものと契約するなんて、いくら勇者の言う事でもやりたくなかった。無理に契約すれば、魔獣が壊れてしまうから。
それをうまく説明できないまま、勝手に竜の谷についてきたご令嬢に役目を掻っ攫われてその場で二軍落ちを言い渡された――というのが、事の顛末だ。
「契約すれば氷竜が死んでしまうから、しなかっただけなのに。貴方達は私の話を聞く前に私を切り捨てた」
馬鹿だ。
その場で説明できなかった私も、理由を問わなかった勇者も、無能扱いして一気に責めたてた一軍メンバーも、棚からぼた餅を地で行くようにテイムが成功してしまって勘違いしたままのご令嬢も。
自分が全部悪いなんて思って命を絶つような気持ちはもう微塵もない。追い詰めたのはこいつらだ。捨てたのは、それを容認したのは紛れもなく勇者だ。
「なっ……切り捨てたりなんかしない! 俺はコレットのことだって大事に想ってる!」
「で? 大事に想っているけど取り換えは利くんでしょう。馬鹿らしい。言っておくけど、私貴方の事嫌いよ」
さらりと吐き出した言葉。勇者の顔が数瞬呆ける。
「オイ、黙って聞いてりゃアンタ随分な言い様じゃないか……!」
「根暗女がユート様に大きな口を叩くなんて、おこがましいことですわ」
敵意を通り越して殺気まで滲ませた魔術師と戦士が、勇者の傍に立つ。
それに呼応するように、斥候、治癒士、それに魔獣使いが。
「ああ、やめた方がいいわよ。私に攻撃するのは」
「その自信はぁ、どこから来るんですぅ~?」
「負け犬はこれまでの戦闘で魔獣だけを使って一度も自分で攻撃をしたことがない。いつもご主人様に守ってもらっていたクズ」
「あたくしに負けたくせに遠吠えだけは立派なのね。召喚士なんて大仰な嘘をついて」
宿屋にとっては迷惑千万、これからの営業さえ危ぶまれる一触即発状態。
戦士がストレージから出した戦斧を握った、その瞬間。
目の前に、闇が現れた。
「……ああ」
“ソレ”が何か、私はもう知っている。
左胸が僅かに熱い。私の身の危険を察知して、戻ってきてしまった。
召喚士は、願いにより召喚した存在と契約し、それを身の内に飼う者。
私は特に異形に好かれやすいから、危険だと言われるランクの魔獣達との契約もしている。
その中でも“ソレ”は別格だ。本当にいきものとしての格が違う。
どれ程のものかと言うと、桁外れに強過ぎて身の内に収めておけない程、契約の文言にその存在の自由を認めることを盛り込まないと一瞬にして魔力が枯渇する程……勿論、残り香だけで氷竜が怯える程だ。
「――夜乙女よ。これは如何したことだ」
まるで水銀を思わせる、冷たくぬめるような声。
「そなたが慕っていたはずの男が、そなたを害そうとしているではないか。この小僧の傍は安全なのではなかったのか?」
闇に包まれた“ソレ”が、軽く首を振って闇を打ち消す。
そしてちらりと後ろに視線を送った後、私に向き直って。
まるで古代ローマ人のような白い衣裳を身に着けた長身痩躯。それを飾るように、青みがかった月光を思わせる長い銀髪がさらりと揺れる。
病的に白いその顔は薄造りながら奇跡のように整っているけど、明らかに際立っている箇所がある。
虹彩は銀、獣のような縦長の瞳孔は青、白目の部分は黒。そんな異形の眼だけが、人形以上に完成された貌の中で妙に生々しい。
そこに在るのは、魂を抜かれそうな程の畏を纏った、美しい存在だった。
「は……」
空気をそのまま吐き出したかのような、間抜けな誰かの声がした。
それを一切無視して、彼は私だけを舐るような眼で見る。
「ほう? やはり魂の色が変わっているな。これは異なこと……夜乙女よ、吾が離れている間に何が起きた」
ぞっとする程美しい異形の眼が、ゆるりと細まる。
あまりの美しさに息が止まるんじゃないか。そう思ってはみたものの、実際はその美貌を認識しながらもひどく冷静な自分がいる。
“ソレ”はこういういきものなんだと納得して流してしまっている。以前の私ならまず何よりも先に怯えるはずだったのに、随分と肝が据わったものだ。
「わかっているでしょう、貴方」
「ほう、そなたが吾の眼を見て話すか。これはこれは」
……絶対、わかってる。
理の外に簡単に出られる彼なら、私に起こったことくらい簡単に察知できるだろう。
彼はコレットが色んな奇跡が重なった末に契約できた……いや、勝手に契約をしてきた唯一の超越者だ。
召喚士は魔獣使いと違って魔獣以外とも契約できるけど、彼のような存在は本当だったらどんなに望んでも契約なんてできない。契約を求めるには対価が果てしなく重い。
彼はとても気まぐれで、変わり者で。コレットの魔力が嗜好品として合うというか、相性がよくて心地いいから近くにいるために契約をしたという、ある意味変態だ。
「そなた、自ら傷を負ったな?」
傷跡なんてないはずの首筋を、冷たい彼の指がなぞる。
色んな意味で肌が粟立って治まらない。
彼と交わした契約で彼を縛るものは一つだけ。
“誰かに害され真に身の危険が迫った時のみ、コレットを守る”という、非常にシンプルなものだ。
その“誰か”には、私自身は含まれない。それがわかっていたから、私は自分の首を切ったんだろう。
以前の私は、彼という存在に対して畏怖の感情が殆どを占めていた。
その万能にも近い力はとても頼もしかったけど、只人が持つには危険過ぎたからだ。それに顔も整い過ぎて怖かったようだ。底が全く見えない性格も、ふとした瞬間に上下する気分も、全て。
彼はそれすら楽しんで、私が壊れないギリギリのラインを保ちながら気ままに動き回っていた。
気まぐれに私の前に現れる時は少し大きめな蛇の形を取って配慮する仕草を見せるくらいには、私のことを気に入っていた。
「傷を負ったのは、私じゃないわ」
それだけで理解するだろう。いや、もう理解している。
左胸の契約紋が疼く。息をするように簡単に、彼は私の状態を余すところなく暴いている。
「ククッ、そうか。これはこれは……何とも面白い」
きっと、彼なら私が首を切る前にそれを止めることができた。それを放置したのは、完全に死ぬ前に私の中で何かが起こったのを彼が“面白い”と思ったからだろう。
彼からしたら、戯れの契約。今世から前世に人格が入れ替わってしまっても予想外なだけで驚くほどのことじゃない。
海溝のように深い色をした瞳孔が更に細くなる。
それがどんな意味を持っているのか、彼の眼を見るのが怖かった私にはわからない。
「さて、ゆるりと話すにはここは向かぬな。早々に片付けるか」
わざとらしく息をついた彼が、緩慢な動作で踏み出す。
そのまま私の背後に回り、絡め取るように腰に腕を回して。
凍るような闇の気配、毒々しいまでの花の香りが私を包む。
こんな接触、したことがない。一体何を思ってこういう体勢を取っているんだろうか。
「そこな女達よ」
たった一瞥。力を篭めた訳でもないそれで、私以外の全員が全員膝をつく。
私へと向かない重圧。明らかな恐慌状態。何故そうなったか、現実を理解するまで頭が追いついていないような、呆けた顔ばかり。
だから、やめた方がいいと言ったのに。
後衛として攻撃魔法を使えるのに今まで私が攻撃に参加しなかったのは、ちゃんと意味がある。
攻撃することはよくても、その後が問題で。攻撃して魔物が私に目をつけたら彼が出てきてしまうかもしれないからだ。
人と魔の争いの理に超越者を入らせるなんてあってはならない。彼らの力をあてにすることは、世界中が遠い昔に一度は試してことごとく失敗しているのだ。
彼は私を守るだけ。そういう契約だ。勇者の力にはならない。勿論彼もそれは知っていたから滅多なことでは出てこなかっただろう。私が必要以上に慎重過ぎたせいでもある。
勇者に心酔していたからこそ、彼の力に頼ることは絶対にしたくなかった。
その代わりに、私は召喚士としての力を十全に振るっていたつもりだった。
魔物使いは直接的な攻撃魔法が不得意なものが多い。だからこそ、私のジョブへの勘違いも助長してしまったんだろう。
「吾の契約者を害そうと言うのなら、吾はいくつかの手を持ってそなたらを消そう」
揺蕩う様に流れる蒼銀の髪。こんな状況なのに目で追ってしまう程美しい。
そこから無理矢理視線を外せば、ようやく状況がわかってきたのか、青ざめる面々が震えているのがわかる。
彼はあまりにも反則的な存在だ。私だってきっと立場が違えばこうなってしまうだろう。そう思うとつい同情してしまいそうになるけど、これは私を攻撃しようとした結果だから仕方がない。
「ひとりずつ虚無の闇に閉じ込めるか、身体の水を全て抜き取り砂にするか、はたまた空気に触れるだけで身体が融ける毒に浸すか……吾が手間をかけて消すことは滅多にないぞ、喜ぶがよい」
契約紋が断続的な疼きを与えてくる。
どうやら彼は今、少し気分がいいらしい。気分よく美女をいなかったことにされても困るんだけど。
「ラサ」
彼の名前はもう少し長い。契約の時に教えてもらえたけど、只人が呼ぶには力が強過ぎるから普通に呼べる名を作った。
呼んで許されるのは、私だけ。そして以前の私はこの名すら、殆ど呼ばなかった。
絡められた腕の力が、ほんの少し強くなる。
耳の後ろにかかる吐息から、くらくらするような花の香りが押し寄せた。
「私は指一本触れられていないし、貴方がこの場にいて害されることは万にひとつもないわ。だからお願い、消さないで」
私が彼にできるのは命令じゃない。彼の気分次第では無視されるお願いだけだ。
美女軍団は嫌いだけど、今すぐ死んでほしいとは思わない。私が離脱した後で何かあって命を落としても悲しくはないくらいに情はないけど。
誰も動くことができない場。ややあってから、その重圧が薄らいだのを感じる。
「それが夜乙女の願いなら、吾は聞き入れよう。小僧はどうする」
「同じように。私はもう、ここを去るから」
「よかろう」
どうしてだろうか。彼がこんなにも楽しそうなのは珍しい。
まぁ、滅多にないこと尽くしの展開ではあるけど。
「ま、待て……」
誰も引き留めない。今度こそ決別だと思った瞬間にかかる声。
ひどく弱弱しいそれに強制力なんてないけど、一応視線を向ける。
美女軍団を守るように立ち上がった勇者はまるで、正しきは我なりと言い出しそうな強い眼でこちらを睨み付けていた。
「コレットを……返せよ、魔族っ!」
苦しげに吐き出されたその言葉に、一瞬思考が止まる。
魔族、こんなにわかりやすい容姿をした彼が、なぜ。
あまりに危うい発言に、思わず鳥肌が立った。
美女軍団も顔どころか全身を凍りつかせて勇者の背中を見ている。なのに、勇者はそれにすら気づかない。
「……夜乙女よ。こやつの無知はそなたらの責でもあるぞ」
彼が変わり者でよかったと今ほど思ったことはない。
場合によっては、この空間にいる全員が消されかねない発言だ。
「そう、ね。責任転嫁もいいところだけど、まさか、教わっていないなんて知らなかったわ……」
緩まる気配のない腕の中で彼に向き直って、半ば無理矢理頭を下げる。
声が震える。本当だったら土下座や五体投地どころか腕の一本を捧げることですら到底足りない。
「本当に、失礼なことを言ったわ。ごめんなさい」
あまりにも侮辱的。あまりにも冒涜的。
超越者を、よりによって魔族と間違えるなんて。
「ククッ……まぁよい。異世界からの客人の戯言としておこう」
特に気分を害した様子もない彼に胸を撫で下ろすと、また契約紋が疼いた。
コロコロ変わる私の感情が乗った魔力を味見しているんだろう。
「小僧、吾は今とても気分が良い。なれば、教えておいてやろう」
水銀の声が、零れ落ちる。
「そなたが教わったであろう上位魔族の魔眼には、決して現れぬ色が二つある。その色は、理の中に在るもの達に許されぬ色だ」
虹彩は銀、獣のような縦長の瞳孔は青、白目の部分は黒。
そんな――魔眼にはない色を宿した、美しい異形の眼がゆるりと瞬く。
「金と銀。それらの色を持つ眼の主に今と同じことを言ってみよ。そなたは存在すらなかったことにされるだろう」
なぁ、夜乙女よ。
そう問いかけてくる、凍るような気配の彼。
ロクな知識も与えられていない、得る努力もしていなかった勇者でも、その存在くらいは聞いたことがあるだろう。
「ええ、そうね。貴方のような幻獣に会えることなんて滅多にないけど、魔大陸に行くなら可能性も少しは上がるでしょう。その時に知っては遅いわ……」
「げん、じゅう……?」
「幻獣という俗称くらい、聞いたことがあるでしょう? 知識に触れた自覚のある者は超越者と呼ぶ存在。理の外に在ることができるもの。神力と魔力より生じ、半神と同等の格を持ち、やがて神に至ることが約束されたもの」
それを魔族と断じた貴方が、どれだけ無知で無謀な愚か者なのか。
わかっているのか、と詰りたくなるのを必死で抑える。彼の言う通り、今まで誰も教えなかったのは大きな罪だ。
勇者を召喚した国で当然教えられていると思っていたのに……幻獣に会ってもそんなことを言い出すなんて思わなかったんだろう。勇者なのだからいきものとしての格に自ずと気付くだろう、と。
同時に、勇者がまだ魔族に会ったことがないのだと気付かされて頭痛がしてくる。超越者と魔族では姿形も纏う力も全く違うのに。
もはや私が心配することではないけど、いい加減真面目に魔族の情報を仕入れておくべきじゃないのか。
今回の寄り道も“竜が無垢な乙女を生贄にして~”とかそんな話に首を突っ込んだ結果だったし、旅の目的を見失っている。
「そして、吾と契約できた夜乙女は稀有なのだ。吾から持ちかけたにせよ、その受け皿はまぎれもなく極上のもの。そなたらは、くだらぬ諍いでこの才と力を失うのだ」
低い笑い声が、振動となって私に伝わる。
本当に稀有なのは彼の方だ。超越者が只人に望んで縛られるなんて、有り得ないのに。
「ラサ、もういいわよ。貴方さえよければ行きましょう」
「教えてやらぬのか?」
どうせなら、全部吐き出してしまえばいいのに。
そう言わんばかりの眼は、やっぱり面白いことが好きな変わり者。
自分に刃向う輩がいたことすら、悠久の時を生きる彼には一匙のスパイスにしかならない。
溜め息をついて、ちらりと目的の人物を見る。
ひどく怯えた視線があちこちに散って、今までの高圧的な態度とは大違いのそれに哀れさも感じない。
「……先達として伝えておくわ、ご令嬢。貴女が自分の溢れる才能でテイムしたと豪語していた氷竜は、彼の気配で恐慌状態に陥っていただけ。実際の貴女の実力では魔獣石から出した途端使役できなくなる。いえ、貴女の拙い使役術だと魔獣石の封を破って出てくる可能性も高い。
魔獣の最上位である竜種を甘く見た貴女は、魔獣使いとしては三流もいいところよ。貴女はまだ魔獣の声すら聞こえないんでしょう? あまりにも迂闊過ぎたわ。竜はとても気性が荒く誇り高い生き物ですもの、きっと貴女は許されない」
気の強そうな美貌がぐしゃりと歪む。
それでも私は助ける気なんてない。一軍パーティーの実力ならおそらく再び戦って竜を殺すことくらいはできるだろう。
「夜乙女よ、あまり蜥蜴を持ち上げるな。あやつらは野蛮かつ低俗で好かぬ」
「ごめんなさい。でも、蛇種を貶めたつもりはないわ」
「当然だ。彼奴らは狡猾で品位ある種だからな」
超越者は確認されているだけでもいくつかの種がある。
その最古種にも数えられる蛇皇のひとりである彼は、個人的に竜が嫌いらしい。
何かの流れで一度だけ聞いた話だったので、まさか近づけたくない程嫌いだとは思っていなかった。その場にいないのに残り香だけで特定の種族を威圧するなんて器用過ぎるけど、彼にとっては簡単なことだろう。
あらかじめ知っていたら、私は氷竜と契約すること自体を端から諦めていただろうか。
勇者への盲信から目が覚めた私にはもう、わからない。
「そなたが気にしていたことは、これでもうないな」
「ええ、ありがとう」
勇者達はどうでもいいけど人族の未来は当然気になる。
だけど私にできることはもうない。よって、言えることもない。
それを正確に感じ取って、彼がまたしっかりと私の腰に腕を回した。
「行くあては?」
「特にないわ」
「では、吾が連れて行こう」
凍るような気配が揺らぐ。
ゆっくりと、景色がぶれていく。
「待っ……コレットぉ!」
残された面々に向かって、私は最後にもう一度。
「さようなら。もう二度と会わないでしょうね」
× × ×
そこは、洞窟と言ってしまうにはあまりにも光に溢れていた。
遥か頭上にしか穴がないのに、壁のそこここに形成されている小さな水晶と魔石がそれを反射して静かに輝いている。
全体を捉えると壺のような形をしていそうな中は広く、澄んだ青の水と乳白色の鍾乳石のような柱やつららのコントラストが幻想的だ。
地面には石と水晶が混ざりあった花々のようなものが咲いていて、この空間の冷ややかで静謐な美しさを助長させている。
それになりより、空気が違う。
いっそ神殿や聖域と言われた方が納得できるような、そんな清浄さすら感じさせるここは一体どこなんだろう。
「吾の巣だ」
「は?」
「生じた場所故、居心地が良いのでな。少々場を整えてある」
思っていたことをそのまま返されて、色んな意味で聞き返してしまう。
超越者は自然から生じるのは本当なんだとかこの美しい場所は一体どれだけの時間このままなんだとか……どうして、そんな場所に私を連れてきたのか、とか。
疑問はつきない。それも当然彼はわかっているだろうに全部無視して、つるりとした石で無造作に椅子を創って腰掛けた。
異形の眼がつい、と視線を巡らせば私のすぐ傍に水晶がせり出して優美な椅子の形になる。思ったよりも冷たさのないそれに座れば、彼は嫣然とした笑みを浮かべた。
「さて、夜乙女よ」
彼は私のことを“夜乙女”と呼ぶ。
私の髪や眼が夜を連想させるのと、契約をしたのが見事な満月と星空の下だったかららしい。
「今日は面白いことばかり起こると思わぬか? 久方ぶりに愉快なひと時だった」
氷竜と契約しなくてパーティーを追い出されて自殺して前世が目覚めて決別しに行ったら図らずも臨戦状態になって彼まで出てきて。
……これは面白いとは言えない。言えないったら言えない。
「衝撃的なことばかりで、私には面白いとは思えないわ」
「そら、面白いではないか。そなたが吾に意見したのだぞ」
「だって私はもう、」
言いかけて、そのまま口を閉じる。
私はコレット。ここで生きている私だけが、コレットなのだ。
「……ねぇ、ラサ。貴方は私を見殺しにするつもりだった?」
「いいや、事切れる直前で治してやればよいと思っていた。ただ、自ら死を願った人間を生かしても心が壊れるだろう」
ああ、やっぱり。
いくら契約の穴をついても、彼は簡単にくつがえしてしまえる。
わたしがそれを知っていたら、きっと絶望しただろう。どちらにしろ、壊れてしまっていた。
「壊れて替わった私は以前の私とは違うわ。それでも、契約は続けてもらえるのかしら?」
この状況で何を、と自分でも思いながら吐息混じりに言葉を落していくと。
「そなたは、夜乙女だ。魂の見目は違っても、それは変わらぬ」
「そう、よかった」
どうでもいい人間をここに招く程、彼が優しい存在じゃないことは知っている。
同時に、今までの私はここに招かれるまでの関係じゃなかったはずだと言うことも。
「貴方からはどんな風に見えてるの? その、魂というものは」
性格は当然違う。人格が違うんだから。
ただ魂自体は変わらないだろう。この世界では輪廻転生に似たものが当たり前のように信じられている。
この異形の眼が捉える私の魂は、どんなものなんだろう。
「そなたの魂は心地よい闇の色をしている」
「……何か不吉ね」
「魔力の素養だ。この地に生きるものは全て、元素の色をしているのだ。そなたのように混じり気のない色は珍しい」
火水風地に氷雷光闇。それが元素であり魔力の属性だ。
確かに私は闇属性への素養が群を抜いて高い。闇の親和属性もそこそこは使えるけど、闇は昔から扱いやすかった。
余談だけど闇は太古には魔族特有の属性だと言われていた不遇属性だ。だけど、数代前の勇者が闇属性を得意とする槍使いだったためにその印象は払しょくされている。
魂に色があるなんて、知らなかった。
私だけではなく、世の中の魔術師や錬金術師全てが未だに触れることができない領域。
それをあっさりと話す彼には、ただ事実を述べている淡々とした様子しか見受けられない。
「昨日までのそなたは新月と極点の星のみが見えるような、静かな色をしていた。幼子が泣き出すような深い深い闇だ。吾は、それが心地よかった」
蛇皇は闇と水の親和が高いと言われている。神へと至る時は、そのどちらかに関わる柱になるとも。
さらりと流れる髪を軽く掻き上げる彼も、勿論そうだ。
一体どれくらい生きているのかはわからないけど、彼が神になる時は闇に溶け込むのだろうと感じさせるような気配をしている。
「今日のそなたは、星々がはっきりと輝くような、艶やかな色をしている。夜陰の花とも言おうか、とても美しいものだ。吾が心を奪われる程魅入った魂は、今ここに在るそなたを置いて他にない」
何もかもが霞むほど美しいその眼がとろりとした光を孕む。
思わず肌がざわめいてしまったのは不快だからではない。むしろその逆だ。
何だろうか。彼が、こんな風に私を見るなんて。
さっき私に触れていたのもそうだ。彼にとって私はお気に入りの嗜好品で、ある意味人間としての枠には入っていなくて。
「見目のよい人間なら数多く見てきた。そなたより美しい女はそれなりにいる。だが、そなたより心地良い女はいないのだ」
何だ、これは。
こんな、まるで口説き文句の、ような。
「人間が語る言葉と共にされたくはない。瞬きの間に愛を紡ぐ相手を変えるような、そんな希薄なものではない」
「ごめんなさい。でも、考えを読まないで」
「そなたの顔から読んだ。今内側を読むのは嫌であろう」
そんな人間を、私を慮る言葉なんて言わなかった。
何が彼を変えたんだろう。そう思っても今までと何が違うかなんて考えなくてもわかる。
彼も言ったじゃないか。私の“魂の色”が変わったと。
彼が何を言いたいのか。わかっていても、聞いていいのか躊躇う。
これを聞いてしまえば、何かが変わってしまう。
私はただの契約者で、彼の瞬きの間だけ共に生きる人間で。私が私になる前まで、それは絶対変わらないものだった、はずなのに。
「夜乙女よ。今一度契約をしようではないか」
「? 何言ってるの」
契約は切れていない。私の左胸の紋は未だに疼いている。
意図が読めなくて首を傾げると、彼は低く笑った。
「今までの児戯のような契約ではない。吾からそなたへ、深い契約を持ちかけているのだ」
間違いなく、私を見つめるその眼には熱がある。
普通の人間だったら、こう考えてしまうだろう。“この男は私に気がある”と。
だけど、彼は違う。そんなような感情は持っていないはずだ。超越者が愛情を持って……いないなんて、聞いたこともないし、その逆の逸話ならある、けど。
「あなたが私に、何の契約を?」
どくん、どくん、と。
心臓が鳴る音が耳の奥でする。
人間とは隔絶した存在であるはずの蛇皇が、私の中でただの男へと変貌する。
彼がそのようにしろと、存外に私に望んでいる。
左胸の契約紋から、そう語りかけてくる。深く、刻み付けるように。
「その身、その魂を、吾が生涯庇護しよう。代償に、そなたは生涯吾の手元に」
おもむろに椅子から立ち上がった彼が、ゆっくりと私に近づく。
毒々しいまでの花の香り。頭の芯を溶かすように段々と濃くなっていく。
「それは、その“生涯”は……どっちの意味?」
声が震えた。
捕食される恐怖か、それとも絶大なる安寧へのそれか。
「無論、吾の“生涯”において、だ」
師匠が教えてくれた、ある小国の逸話を思い出す。
その国には、かつて愛した女と神に至る力を分け合い、半神として生き続けた狼皇がいたことを。
彼らは神にならずとも永い生を歩き、自然と解け合うように消えたと伝えられている。
いたのだ。実際にそう契約をしたものが。数少ないものの同様の話が国に存在している。だから、彼の言葉は嘘じゃない。
「……私はあなたを愛していないわ」
これからゆっくりと愛する相手でも見つけてみようと、そう思っていたのに。
よりによって、彼が相手じゃどんな人も敵いはしない。
彼以上に私を求める存在はきっと現れない。現れるはずがないのだ。
知識があるものならわかる。超越者は伴侶と決めたものに力を与える。文字通り、自分の半身として扱うのだ。
決して捨てることはない。逸話の全てで、伴侶は必ず添い遂げている。
本能が言っている。求められるまま、受け入れろと。それが正しいのだと頷いてしまう程に、強く。
「そなたの魂は吾に惹かれている。恐怖を取り払って、急速に。強い種に求められて、惹かれぬことはあり得ぬ。それが人の理だ」
「それは、愛とは呼ばない」
「呼ばせてみせようではないか」
三日月のように、眼が眇められる。
駄目だ。この眼に見られると抗えない。
男なんてしばらくいいと思っていたのに、そんなことを考える必要すらないと言う程に求められている。
甘い。熱い。契約紋が疼く。
「契約は、待って」
吐息だけで、何とかそれを吐き出す。
流されるように決めていい話じゃない。これは、文字通り私の生涯を変えることだ。
例え魂が求めていても、私は愛がない男と永く生きることはできない。
「あなたは、私を愛している?」
「そなたらの感情に当てはめるのなら、そうなのだろうな――吾はそなたが欲しい」
とうとう辿り着いた彼の手が、そっと私の頬に触れる。
ひどく繊細なものを扱うように、その手が顎へと滑り。
その手は冷たいはずなのに、炙られるように身体が熱くなるのを止められない。
執着にしては、あまりにも甘い。
この途方もなく高い所にいる存在が、気まぐれな彼が、私を。
「考えさせて。必ず返事はするわ……シウスラサリス」
魔力が一気に抜かれる。左胸を通って、彼に。
「待とう。この甘美な魔力を余すところなく味わえる日を」
彼は識っている。
私がこの契約を承諾することを。
それが叶うまではの時間は、彼の生では一瞬にも満たないことを。
私だけを見る、絶大な庇護者。その手に絡め取られるのはきっと……そう、遠くない。
END
閲覧ありがとうございます。
勇者ものを書きたかったんですが回り回ってある種の王道に。
前作で蛇系男を悪役で書いたので蛇系ヒーロー(物理)を出してみました。口調謎すぎる……
続きを考えると全て無双系になるので、勇者ものという初心を忘れないようにここまでで。
ここまで読んでくださってありがとうございました!