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月の神と雪の妖精

作者: 涼風

 それは、遠い昔のお話。まだ神様が、私たちの生きる世界へお気軽に降りてくださっていた頃。

 今では決して人前には姿を見せない妖精たちも、この頃はまだ気軽に世界を飛び回り、その不思議な力で生き物たちに恵みを与え、ときには罪のない悪戯をして、共に暮らしておりました。

 地上に降りる神々も、人間と関わることはできずとも、妖精たちから人々の暮らしや自分たちへの祈りの言葉を聞いていたのです。

 世界を守り、恵みをもたらす神々の中でも、明るい光によって命を育む太陽の神と、夜闇の中で道しるべとなる月の神は別格でした。特に太陽の神は、その気さくな性格から、地上に生きる多くの生命と妖精たちから慕われていたのです。たまに地上に降り立てば、多くの妖精に囲まれて、それはとても神々しくも幸せな光景でした。

 けれど――一方の、月の神は。


「夜をお守りくださっていることは知っていますけれど……あまりお話にならないお方ですし」

「太陽の神様と違い、彼の神の光が私たちにくださるものは、夜闇を照らす灯りだけ。それも、気まぐれに形を変えて。……本当は、私たち妖精のことも、この地上のことも、お好きではないのかしら」

「無情の方とは思いません。ですが、温度のない光といい、冷たい神でいらっしゃいますわ」


 その物静かな佇まいと相まって、妖精たちは守護への敬意を抱きこそすれ、太陽の神のように慕うことはないのでした。


 妖精たちと違い、同じ神々は知っています。

 月の神の光が温度を伴わないのは、太陽の神の恵みの力を邪魔しないため。安息の夜があってこそ、命はより健やかに育まれるからこそ、月の神は敢えて、その輝きから温もりを取り払ったことを。

 月の神がその姿を一日毎に変えるのは、その姿でときの流れを知らせ、地上の巡りを整えるため。月の神が姿を変えてくれるからこそ、海の神は潮の流れを荒らすことなく、そうして水中に生きる命が守られている。太陽の神のように分かり易くはないけれど、月の神の存在は密かに、生命の循環を支えています。

 そして、月の神が無口なのは――生き物たちの安息の時間を、穏やかな夜闇を、むやみやたらと騒がせないため。彼の神の口数の少なさは、それだけ命を……自らが守る地上を愛している証なのだと。


 妖精たちが月の神から距離を置くほどに、生き物たちの心も月の神から離れていきます。神々の中で誰よりも優しく、誰よりも地上を愛しながら、決して慕われることのない月の神に、仲間である神々は歯痒い思いを隠せませんでした。


「どうして妖精たちの誤解を解かないんだ。俺のように地上に降りて、妖精たちと言葉を交わせば、お前が冷たい奴じゃないことくらいすぐに分かるのに」


 特に、月の神と一緒に世界を守る太陽の神は、同じ立場の気安さゆえに、直接その気持ちをぶつけます。お人好しな友人の憤りに、月の神は穏やかに微笑んで、首を横に振るのでした。


「君と違って、私が地上に降りることができるのは新月の夜だけ。星明かりのみが地上に注ぐ、もっとも深い安息が訪れる夜だけなんだ。そんな大切な日に、私の事情で妖精たちを騒がせるわけにはいかないよ」

「しかし……!」

「良いんだ。妖精たちと関わることはなくても、私は新月の夜に地上に触れて、生き物たちが変わることなく健やかであることを直接確かめることができる。それだけで私は満足なんだよ」

「……妖精から神への敬意が失われたら、やがて人間からの信仰も消える。そうなれば、お前は『神』ではいられなくなってしまうぞ」

「それもまた、世の流れだろう。私が消えても、私が造り上げた『月』の役割は消えない。命を守る月が消えなければ、この世界が壊れることもないさ」


 地上を、世界を慈しむ優しい神は、そう言って笑い。己よりも世界の心配をする友人に、太陽の神はため息をつきました。


「せめて……俺の時間に遠慮するのを止めろ。お前、昼間だってちゃんと世界を見守っているのに、俺の邪魔になるからって『影』のままで浮かんでるだろ。その気になれば俺を完全に覆って、地上を強制的に夜へと変えることだってできるくせに」

「できるけど、やらないよ。君の時間にそんなことをしたら、地上が大混乱に陥るじゃないか。私は生き物たちが楽しく暮らしている姿を見るのが好きなんだ」

「ったく、頑固者め」


 困ったように苦笑う太陽の神の心配もどこ吹く風。月の神はほのぼのと笑うばかりなのでした。




 ――さて、今宵は月の神が楽しみにしている新月の日です。普段は空の上からひっそりと地上を見守っている月の神も、今夜だけは人の姿を借りて地上へと降り、自らが守る生き物たちの姿を間近で愛でるのでした。

 人の姿をしているときの月の神は、夜闇を映したような漆黒の髪に、月の光を思わせる柔らかな金色の目をしています。よくよく見ればその美しさは人間離れしていると分かるのですが、彼の神の控えめな性格からかあまり目立つ外見ではありません。

 地上の季節は、冬。先日降りたときも地上は一面の雪に覆われて、うっすらと星の光にその純白が輝いておりましたが、今宵は一段と美しい景色が、月の神の前に広がっています。

 緑の針樹に雪が積もり、まるで木々が宝石のように光を反射し。地面に積もった雪は気まぐれな動物たちによってところどころ踏まれつつ、それすらも星明かりが陰影をつけて、どこか心弾む風景へと変貌させてくれています。ごつごつした岩も、雪と氷を纏うことで神秘的な美しさを宿して。

 一目見た瞬間に魂ごと奪われるような、そんな光景が月の神を出迎えてくれたのでした。

 しばしその景色に見入っていた月の神は、自分でも気付かないうちに、唇に微笑みを浮かべていました。


(物好きな子がいるものだね……)


 人間の目には、自然が創り出した奇跡の風景としか見えないでしょう。

 しかし、神である彼には分かります。この景色が、確かな想いを込めて造り上げられたものだということが。

 昼も夜も変わりなく、ただ静かに地上を見守る彼だからこそ、世界の片隅で一生懸命心を砕いてくれている存在にも、気付くことができました。

 少し離れた場所で、そのふわふわとした真白の髪をなびかせつつ、木陰からこっそりこちらを窺っている『彼女』に、彼は知らない振りをしつつ近付きます。……ずっと見守るだけで、声をかけるつもりはなかったのですけれど。友人である太陽の神に叱られて、ほんの少しだけ気持ちの変化が生まれたのかもしれません。


「こんばんは。良い夜だね」

「ひゃっ!?」


 隠れていた『彼女』は文字通り、飛び上がって驚きました。月の神はいつもと同じように、ただ穏やかに笑いかけます。


「すまない。驚かせてしまったかな」

「い、いえ! あの、私が見えるのですか……?」

「うん? あぁ、見えるよ」


 今の月の神は、人間の姿をしています。だからこそ、白い髪の『彼女』は驚いたのでしょう。


「私が……見えるなんて。よほど神力の高いお方なのですね」

「そうなのかな。自分のことはよく分からないけれど、君が『誰』なのかは分かるよ。君は……雪の妖精、だね?」


 やっと顔を合わせて言葉を交わした彼女――少し前から、彼が降りる新月の冬の夜を、美しい雪景色で歓迎してくれていた雪の妖精は、頬をかすかな桃色に染めて頷きました。雪の妖精らしく、彼女の肌は真っ白で。だからこそ、染まった頬はまるで、雪景色に咲いた花のように鮮やかです。

 澄んだ薄青の瞳に喜色を乗せて、雪の妖精はまっすぐに、月の神を見上げました。


「新月の君。私に気付いていらしたのですね」

「うん。私が訪れる夜に、いつも美しい雪を見せてくれたね。ずっとお礼を言いたかったのだけれど、やはり驚かせてしまったようだ。悪かったね」

「そ、そんな! 私はただ、あなた様が喜んでくだされば、それで良かったのです。……だってまさか、人に見つけて頂けるなんて」

「妖精の姿を見ることができる人間はそう多くはないけれど、まるでいない訳でもないだろう?」


 いくら人の姿をとっているとはいえ、これほど近くで話しながら自分の正体に気付かない妖精が珍しくて、月の神は名乗ることなく話を続けることにしました。問われた妖精は、表情を曇らせて首を左右に振ります。


「お姉さま方も、そう仰いますけれど。私は生まれてからこれまで、私たちの姿を見ることができる人に会ったことがないのですわ。……あ、『なかった』です。今日、あなた様にお会いできましたから」

「そうだったのか。と、いうことは……君はまだ、生まれて間もないのかな?」

「間もない、と言うほどでもないです。生まれてからこれまで、世界を三度巡りましたから」

「三度なら、まだまだ幼い枠に入るよ。妖精は人間より、ずっとずっと長く生きる。同い年の人間の一生を見送って、ようやく妖精として一人前と言われるくらいだからね」

「もう、お姉さま方と同じことを仰いますのね」


 唇を尖らせて拗ねつつも、ころころと笑う妖精の少女。思っていたよりずっと幼かった彼女は、それゆえに世間知らずだったようです。とはいえ、一度でも神に目通ったことがあれば、月の神から洩れるものが人間の持つ『神力』ではなく、神特有の『神気』であると分かるはずなのですが。

 きらきらとこちらを見つめてくる少女は、喜びのあまりふわりと浮いてくるくると舞い、ちらちらと柔らかな雪を降らせました。


「今日はなんて素晴らしい日なの! ずっと憧れていた『新月の君』とお話ができるなんて!」

「おや。私に憧れていたのかい?」

「あっ!」


 ぽすん、と雪の上に落ちた少女は、全身真っ赤になって口を手で押さえています。月の神は、堪えきれずに噴き出しました。


「そんなに慌てることないだろう? 私のような者に憧れてくれるなんて、嬉しいじゃないか」

「そのような! 初めてお見かけした日から、私はあなた様が大好きですわ!」


 真っ赤なまま、少女はぴょんと飛び上がり、ふわふわと月の神へと近付きます。


「私たちが夜に雪を降らせていたある日に、私はあなた様をお見かけしました。私たちが張り切れば張り切るほど、人は私たちを迷惑に思いますでしょう? それなのにあなた様は、私たちがどれだけ雪を積もらせても、ずっと変わらず嬉しそうに見つめていらしたわ。私たちが去った後の、雪に閉ざされた世界すらも優しい目で見つめてくださった。そんなあなた様のことを、私は一目で好きになったのです」

「嬉しいことを言ってくれるね。君たちが雪を降らせることで、また世界の息吹は巡る。君たち妖精が元気に過ごしていることは、それだけ世界が健やかな証なのだよ。人には人の暮らしがあって、雪に閉ざされることは大変なことも多いけれど、豪雪が運んでくれる恵みも人間たちはきちんと分かっている。この里だって、毎年雪祭りをしているだろう?」

「それならどうして、人は私たちが張り切った後の世界で、ため息をつくのでしょう?」

「人間はね。君たちと違って、歓喜よりも落胆に素直なんだ。喜びや楽しみは一人一人感じる場所が違うけれど、悲しみや憎しみ、残念な気持ちはある程度共有できる。だから素直に表に出せるんじゃないかな」

「そんなのつまらないわ。どうせなら、楽しいことを分かち合えば良いのに!」

「残念な気持ちを分け合うのも、悪いことばかりじゃないよ。君たちがもたらした雪は、確かに人間たちに『雪かき』という大変な作業を強いる。けれど、その大変さを皆で分かち合えば、一人一人の負担は小さくなるし、遊び心だって湧いてくる。この村で昔から続いている雪祭りだって、そうして生まれたのだよ」


 ふわふわと浮かんだまま、雪の妖精は首を捻って。


「……要するに、人間は妖精より楽しいことに不器用だけど、楽しいことが嫌いな訳じゃないということ?」


 幼さゆえに鋭い洞察力で、月の神をまた、笑わせました。

 同じ神々以外と話して、心の底からこうして笑ったのは、月の神にとっても随分と久しぶりで。

 時間いっぱいまで雪の妖精との会話を楽しみ、「……また逢えますか?」という問いに、「そうだね。次の新月の夜に、また」と考えるより先に応えてしまう程度には、少女のことを特別に想うのでした。




 その日を境に、月の神は新月に降りる場所に、雪の妖精のいるところを敢えて選ぶようになります。妖精は同種族に比べて力が強いらしく、新月の度にあらゆる雪景色で月の神を楽しませてくれました。

 さらに。いろいろと話をする中で、月の神にとっては何よりも嬉しい言葉を、彼女は紡いでくれたのです。

 それは、太陽の神が月の神お気に入りの妖精と会おうと地上に降り、「雪の妖精たちと話はできたけれど、お前の言うような子はいなかった」としょんぼりしながら戻ってきた、そのすぐ後の新月夜のことでした。


「最近、太陽の神がこの近くに降りてきていたようだけど。君は会いに行かなかったのかい?」


 そう尋ねた月の神に、妖精は。


「お姉さま方は、はしゃいで飛んでいかれました。ですけれど私、太陽神様が少し苦手なのです。なんというか、あの明るさに気後れしてしまって。――神様の中でいちばん好きなのは、月神様ですわ」

「おや、」


 このとき月の神は、人間で言うところの『心の臓が飛び出るような』心地を味わいました。動揺を一瞬に留め、平常心を装って問い返せたのは、ひとえに年の功でしょう。


「どうしてだい? 月の神は太陽の神と違って、明るくも温かくもなければ、君たち妖精と近しくもない。ただ夜空で気まぐれに形を変えながら、ぷかぷかと浮かんでいるだけだろう?」


 自分自身を卑下するつもりはないですが、妖精たちの間での自らの評判くらいは知っている月の神です。何気なく口にした問いでしたが、彼の言葉に妖精は、「まぁ!」とその可愛らしい目をつり上げました。


「ひどいですわ、新月の君! いくら新月の君でも、月神様を悪く仰るのは許せません!」

「あ、いや。別に彼を侮辱したつもりはないのだけれど」

「いいえ! 随分と酷い仰りようでしたわ」

「悪かったよ。けど……妖精たちの間では、月神の評判はこんなものじゃないのかい?」


 嘘のつけない妖精の少女は、不本意そうに唇を尖らせながらも頷きました。


「えぇ。お姉さま方や、風や水の子もそんな風に言います。でも、私はそうは思えないのですわ」

「……それは、どうして?」

「どうして、って……知っているからです。月神様が、どれほどお優しい方か」


 ふわりと浮かび、少女は空を見上げて笑いました。


「私が生まれたのは、お姉さま方が気まぐれに風の皆と遊んでいた夜のことでした。雪と風の中で、私が生まれたことに、最初は誰も気付いてくれなくて。自分が雪の妖精だということは分かっていましたけれど、気まぐれで生まれた、誰にも気付かれない私は、世界に必要なのか分からなかった。途方に暮れたそのとき、強い風が雲を払って――見つけて頂いたのです。月神様に、私を」


 彼女が空を見上げたままなのを良いことに、月の神は大きく目を見開きます。世界に新たな息吹が誕生した瞬間に立ち会える、それは世界を守護する神である彼にとって、何よりも嬉しいことで。だからこそ、どれほど小さな輝きでも見届けたであろう確信が、彼にはありました。


「お声を聞くことはできませんでしたけれど。確かにあのとき、月神様は私を見て……祝福をくださいました。私が生まれたことを、彼の神は真っ先に見つけて、そして喜んでくださった。あのお優しい輝きで私を包み、遊びに夢中だったお姉さま方に、新たな姉妹の誕生を教えてすらくださったのです」


 それは、月の神にとって日常でした。夜の闇は深く、ともすれば取り落とされそうな命が世界には溢れています。その命を祝福し、光を届け、同じ場所で生きる者たちにその存在を伝えること。言葉なんてなくても、自分の光が命への道しるべとなる。温度のない光でも、むしろ暗闇に射す一筋の輝きだからこそ救われる命があることは、月の神にとってささやかな誇りですらありました。

 その誇りを、救われた側が知って、ずっと感謝の心を抱いてくれていたのだとしたら。幾千幾万の誹りが、誤解ゆえの嘲笑が、いったい何だというのでしょうか。

 振り返って笑う雪の妖精は、その瞬間、月の神にとって何よりも、誰よりも美しく、尊く映りました。


「月神様は、地上に生きる私たちを、妖精も生き物も隔てなく、愛してくださっております。夜闇の中だけでなく、よく見れば昼間だって、太陽神様とご一緒に地上を見守っていらっしゃるのですよ? 彼の神の光に温もりがないからと、あの方の心までが冷たいなんてあり得ませんわ」

「――……そう、だね。君が言うのなら、きっとそうなのだろう」


 心が歓喜に震え、ありきたりな言葉しか返せないなんてことも。

 こみ上げてくる熱いものを飲み込んで、ただ微笑むだけで精一杯なんてことも。

 長い時間を過ごした神でさえ、経験したのは初めてでした。


 世界に数多存在する、妖精の中で。いつしか月の神にとって、たった一人の雪の妖精が『特別』になっていたのです。……彼女がどこにいても、何をしていても、すぐ目について想いが零れてしまうほどに。


『どうしてお前は、太陽神様へご挨拶に行かないの?』

『いつも夜に動き回ってばかり。私たちの雪を溶かし、恵みの水へと変えてくださるのは太陽神様なのよ? 夜に雪を降らせても、月神様の光は溶かすどころか、凍らせておしまいになるのに』

『夜を、月神様を信仰するなんて、雪の精として異端よ』


 新月の逢瀬が当たり前となった頃。明るい日差しの中、同じ雪の妖精たちに彼女がそう責められ、詰られているところも。月の神は、見てしまったのでした。

 姉たちに責められた彼女は、けれども泣きませんでした。まっすぐに姉たちを見返して、躊躇いのない声で言い返します。


『月神様の光が、私たちの雪をどれほど幻想的に魅せてくださるか、お姉さま方はご存じ?』

『なんですって?』

『人間は、私たちの雪で面白い形をいろいろ作って、お祭りをするのよ。もしも夜がなければ、人間たちの作った像はすぐに溶けて消えてしまうわ。太陽神様の光が命を育んでくださるなら、月神様の光は命の営みを守っている。どちらが欠けても世界は成り立たないのです』

『何が言いたいの!』

『お姉さま方が太陽神様をお慕いする気持ちを、悪いことだとは言わないわ。だからお姉さま方も、私が月神様を好きでいるのを否定しないで。私は、誰が何と言おうとも、月神様をお慕いしているの!』


 その真白の姿のように純真な心が美しい、雪の妖精。けれど、積もる姿が人に厭われることの多い雪の妖精にとって、自分たちを恵みへと変えてくれる太陽の神への敬意は絶対です。太陽よりも月を愛する少女は、同族にとっては『裏切り者』の烙印を押されるに等しい存在でした。


『ふざけないで!!』


 その日。とある山の麓は、局地的な猛吹雪に襲われました。同族を傷つけるための攻撃は、世界全てを疲弊させる、哀しい結果しかもたらしません。太陽の神が必死に呼び掛けても、怒りに我を忘れた妖精たちには届かなくて。

 吹雪の中小さくなる、何より誰より愛おしい少女の姿に、月の神は頭が真っ白になりました。


《――止めよ》


 気がついたときには、太陽の神の前に出て。世界を強制的な『夜』に染めて、声を上げていたのです。


《私を慕うその娘を、私への憎悪ゆえに蔑むでない。そなたらが太陽神を慕い、私を憎む気持ちは分かる。だがそれならば、その憎しみは私へ向けよ。……(わたし)は責めぬ。ただ、その心を受け止めるのみ》


 普段は無口な月の神が、世界を夜に染めてまで、言葉を発したからでしょう。荒れていた雪の妖精たちは驚いて動きを止め、その中心にいた少女は、ぽかんとこちらを見返してきます。さすがに声が同じでは、『新月の君』の正体は隠し通せません。

 少し落ち着いた月の神は、地上に向けて静かに言い放ちました。


《太陽の神に恵みを受けて生きるそなたたちは、だからこそ夜闇を恐ろしく感じるのだろう。しかし、どれほどの暗闇の中でも、そなたたちは独りではない。それを告げるために、私はいるのだよ》

『つ、月神さま……』

《恐ろしいならば、憎らしいならば、それも私にぶつけなさい。地上の嘆きを受け止めるために、神はいる。神への憎しみを同族同士でぶつけ合って世界を荒らすほど、愚かなことはない》


 地上が完全に静まったのを見届けて、月の神はゆっくりと太陽の神から離れます。後ろに引っ込んでいた太陽の神は、苦笑しきりでした。


「悪かったね、出しゃばって」

「掌中の玉みたいに大事に大事にしてる妖精の危機に出しゃばれないようなら、それはもう俺の知ってる『月神』じゃねぇよ。こっちこそ、俺を慕ってくれる妖精たちの暴走を阻止できなくて済まなかった」

「あぁ、それは少し思ったかな。気をつけないと、君はそのうち人間たちの間で、とんでもない暴君扱いされてしまうよ。私としても、君との仲を地上に誤解されるのは不本意だからね」

「……そう思うなら、もうちょい実力を見せやがれってんだ。お前があんまりひっそりしてるから、妖精たちもお前を軽んじるんだろ」

「そうかなぁ。さっきの言い合いを見た感じだと、軽んじられているというより目の敵にされてる雰囲気だったけど」

「どっちにしろ、誤解されてることには違いねぇだろうが」

「雪の妖精たちも、人間にため息をつかれることが多いからか、どこか自虐的だよね。太陽の光で溶けた雪解け水も、月の光で凍った雪氷も、どちらも違う形で地上の命を支えているのに」

「分かってるなら、教えてやれよ」

「ダメだよ。そういうことは、本人たちが自分で気付かないと意味がないんだ」


 あの子は気付いたみたいだけどね、と微笑んだ月の神が見ているのは、(こちら)を呆然と見上げたままの雪の妖精。特別な、愛しい者を見るその眼差しに、太陽の神は静かに問いかけました。


「……どうするつもりだ?」

「会わない。……逢えないよ、もう」

「お前と逢うことで、あの子が同族から異端扱いされるから?」

「彼女が夜に雪を降らせるのは、私を出迎えるためだ。私が降りるのを控えれば、少なくともその件で、あの子が姉たちから叱られることはなくなる」


 そう言いながら、月の神が感じていたのは張り裂けそうな胸の痛み。何の疑いもなく、命ある限りずっと続くと信じていた大切な存在との逢瀬が喪われると知ったとき、彼はやっと分かったのです。

 雪の妖精は、あの清純な少女は、月の神にとってもう、唯一無二の存在となっていたこと。

 この先どれほどの出逢いがあろうとも、彼女ほど愛しい存在には、もう二度と出逢えないだろうということに。


 静かに目を閉じ、初めての痛みに耐える月の神は気付きませんでした。

 呆然と空を見上げるばかりだった妖精の少女の瞳に、強い決意が閃いたこと。

 それを目の当たりにした太陽の神が、人の悪い笑みを浮かべて、「……どーだろうな」と呟いたことを。




 月の神が太陽の神を覆ったその日は、新月。人の姿を借りて地上に降りることができる数少ないその日を、月の神はおそらく世界ができて初めて、空の上で過ごすことになりました。姿を隠しながらも寂しそうに、地上を眺めながら。

 明るい素直な笑顔を向けられて。「月神様が好き」とまっすぐな心に癒されて――……その、全てを喪って。そうしてようやく、彼は悟ったのです。


(やはり……私は、孤独だったのだろう)


 仲間である神々は、月の神にとっては人間で言うところの家族のような存在で。生まれたときから一緒だった太陽の神は、兄弟のようなもの。そんな仲間たちが分かってくれているから、どれほど地上の皆に誤解されても寂しくはないと、彼は思っていたのです。

 けれど、本当に寂しくないなら。哀しい気持ちが、欠片もないなら。どうして彼女を、これほど愛おしく想うのでしょう。

 冷たい神だと地上に思われ、距離を置かれてときに憎まれることは。きっと哀しく、孤独なことだったのです。だからこそ、ただ一人地上から、ひたすらに好意を伝えてくれた少女を喪った今、心にぽっかりと穴が空いたような心地になるのだと。……全部終わってから気付いても遅いと、らしくもなく自嘲すら浮かびます。

 未練がましく地上を眺めていると、無意識のうちに彼女を探してしまいます。想いを断ち切ろうと、月の神はぎゅっと目を閉じて――ふと、気配を感じました。


(これ、は……? いや、でもまさか)


 彼が今いるここは、神々の領域。その中でも奥にある、『夜』の区域です。同じ神々ならいざ知らず、地上の者が入り込める場所ではないはず、なのに――。


「新月の、きみ……いいえ、月神様」

「君は……」


 柱に寄りかかりながら、いつもと変わりのない薄青の瞳を向けてくる、月の神にとって何よりも愛おしい少女。幻かと思いながらも駆け寄れば、ふわりと微笑んで倒れ込んでくるではありませんか。柔らかな肢体を腕に抱いて、その存在が確かにここにいることを確かめます。

 神々の領域に満ちる神気に毒されぬよう、月の神は慌てて自らと周囲を遮断し、少女を抱き上げて寝台へと運びました。


「なんて無茶を……! 地上の気によって生きる妖精が、神々の領域にまで足を延ばすなど!」

「だって……私から逢いに行かないと、もうあなた様とは二度とお目にかかれない気がしたのです」


 図星を突かれて思わず黙れば、少女は「やっぱり」と哀しげに微笑みました。逃げられるとでも思ったのか、少女は彼の手を掴みます。

 何度も首を横に振って、彼は咎める目を少女へ向けました。


「だからといって、どうしてこんな無茶をしたんだ。私の正体は、もう分かったのだろう。逢いたいのなら、私を見つめてそう言ってくれれば良かったのに」

「……それでは、あなた様はきっと、『月神様』としてしかお話ししてくださらないわ」

「それは……仕方のないことだ。君だって、私の正体を知って、これまでと同じように話をすることはできないだろう?」

「どうして?」


 薄青の瞳は、こんなときですら、どこまでも澄んでいました。彼の手を握る少女の手に、ぎゅっと力が込められて。


「どうして、変わる必要があるのです? 新月の君も、月神様も、私は同じように大好きで。あなた様が月神様だと分かって、こんなに、こんなにも嬉しいのに」

「うれ、しい?」

「えぇ。月神様はやっぱり、私が思っていたとおりの……いいえ、思っていた以上にお優しくて、気高くて、素晴らしい方でした。私みたいな未熟な妖精の作る景色にも微笑んで、お礼の言葉をくださるお方。ずっとお声を聞きたいと思っていた方が、本当はずっとずっと私を気にかけてくださっていたと知って、離れたいなんて思えるはずがありません」


(あぁ――)


 月の神が慈しんだ、嘘のない純真な魂は、何が起ころうとも曇ることはなくて。

 きっと出逢ったときからもう、離れることなど不可能だったのでしょう。

 笑う少女の頬をそっと撫でて、月の神も微笑みました。


「君は――、強いね」

「そんなことありません。私が強いのだとしたら、それはあなた様が……月神様がいつも、見守ってくださるからです」

「私に傾倒したことで、仲間たちから責められても?」

「私たちの持つ厳しさを、それゆえに人々から受ける詰りを、月神様のせいにして逃げることこそ愚挙ですわ。雪の妖精として生まれた以上、私たちは世界に雪をもたらすことが使命。ならば、誰かのせいにしても始まりません。……お姉さま方もきっと、心の奥底では分かっていらっしゃるの。けれど、人間が喜びに不器用なように、私たちは悲しみに不器用で。手を取り合って分かち合うより、誰かにぶつける方を選んでしまうのです」


 頬を、髪を撫でる度、少女は心底幸福そうに笑います。ゆっくりと距離を縮めても、柔らかく見つめ返すばかり。

 地上の命を、その営みをずっと見守るばかりで、何かを欲したことの無かった月の神は、初めての感情に戸惑いながらも躊躇いはありませんでした。――本来、妖精と同じように、神も己の心に嘘をつける存在ではないのです。


「月神様がお優しいお方だって、きっと昼間のお言葉で、お姉さま方も分かってくださったと思います。だから……どうか、気を落とされないで」

「私が君たち妖精からどんな風に見られているかは、実際のところあまり気にしていないんだ。太陽と違って、私の光に温度がないのは確かだからね。夜の冷たさは命にとって過酷な側面もあるし、それを否定するつもりもないよ」

「ですけど! それは地上の命を守り育てるためには、仕方のないことで、」

「うん。……そう、分かってくれる子が目の前にいるから。君が分かってくれたから、もう気にならないんだよ」


 少女の頬が、薔薇色に染まります。愛しさのまま、色づいた頬に口づけを落とし、月の神は艶やかな笑みを浮かべました。


「私が苦しかったのは、そうやって君が私を分かってくれるほど、仲間たちから傷つけられることだ。その場しのぎでも、太陽を慕っているフリをすれば良かったのに」

「……できませんわ。それでは嘘になってしまいます。ましてや、月神様が見守っていらっしゃると分かっているのに、そんな嘘をつくなんて」

「別に、私は怒らないよ?」

「そんなことは心配しておりません。ただ、私が私に嘘をつきたくないのです。そうやって自分を誤魔化す姿を、あなた様にお見せしたくない。それだけですわ」

「……君がそうやって自分を貫いて、傷つく姿は見たくないのに。そうして慕ってくれる心が心地よいなんて、私は酷い神だね」


 ムキになって否定しようとする可愛い唇を、心が赴くままに塞いで。その柔らかさと甘さを味わううちに、少女の身体から力が抜けたのが分かりました。一度唇を放すと、少女はふはふは必死に呼吸して、潤んだ瞳で見つめ返してきます。


「……ひどいです」

「嫌だったかい?」

「違います! 私の言葉を遮って、こんな」

「口づけは、嫌ではない?」

「お……驚きました! だって、まさか、あなた様が」

「そうだね。私も驚いているよ。だけど、神とは本来、強欲なものらしいからね」


『お前が何かを本気で欲しがったら、世界はどんな風になるんだろうなぁ』


 地上の営み全てをあまねく愛する月の神に、かつて太陽の神が投げかけた言葉。『想像もつかないね』とあのときは返しましたが……今なら分かります。


「こうして目の前にいる君を、もう二度と手放したくないと思うほどに。私は君を、欲しているよ」


 真っ白な髪を優しく撫でて、月の髪は愛しい雪の妖精へ、もう一度口づけを贈るのでした。




 やがて朝が来て、夜が訪れて。糸のような細い三日月を見上げた地上の生き物たちは、奇跡の光景を目の当たりにします。

 夜闇の中、ただ浮かんで光るばかりだったはずの月に、きらきらと真白の雪が降り積もり。その雪を通して、月の光がより優しく、美しく輝く様を。それはとても幻想的で、夢のような一夜でした。

 地上に雪を降らせる妖精たちは、口々に語ります。自分たちの妹が、月神様に愛されたのだと。だから今宵、月に雪が降り積もっているのだと。


 純真な雪の妖精を愛した月の神は、けれど彼女を手元に置いたままにはしませんでした。自分が降り立つその夜を、美しい雪景色で迎えてくれるありのままの少女を、彼は愛していたからです。


 妖精たちが私たち人間に姿を見せなくなって、神様のお声が遠くなった今もきっと、あの優しい月の神様は、変わらずに地上を見守ってくださっていることでしょう。そして、彼に愛され彼を愛する雪の妖精もまた、私たちに雪の美しさと厳しさをもたらしているのです。

 もしもあなたが新月の夜、星明かりに浮かぶ雪景色に心を奪われたなら。それは雪の妖精が、愛する旦那様のために造った風景なのかもしれません。……耳を澄ませたら、穏やかに語り合う二人の声が聞こえるかも。

 もしも二人を見つけても、そっとしておいてあげてくださいね。新月夜の逢瀬は、二人にとって何よりも大切な、愛おしい時間なのですから。


童話はやはり難しいですね……もっと詩的で美しい文章を目指したいものです。

ちょっとした後書きと蛇足も加え、活動報告に載せておりますので、興味のある方はそちらもどうぞ!


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― 新着の感想 ―
[良い点] 美しい雪夜の描写が素敵でした。 ぼう、と青く光る幻想的な光景が思い浮かんできました。 [一言] ちょっと色気づいてきた女の子(恋に恋するような年頃)が読むのにぴったりのお話かな、と思いまし…
[一言] とても面白かったです。 月神様のロリコ‥‥ゲフンゲフン純愛が読んでいてニマニマしてしまいました。
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