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牢の島  作者: 望月かなめ
7/18

入浴時間

「どうもどうも。ご苦労様です」


 所長がほほえむ。俺とティムは床にへたり込んだ。何せ、さっきまで服運んでたからな。ここの囚人、全員分。ティムはずいぶん重かったみたいで、ハアハア言ってる。


 今の俺は人形だから、重さは感じない。でも服の山で、前が全然見えなかった。おかげですげえ気疲れしたな。


 クタクタの俺たちに、所長は言った。


「さて、もうすぐお風呂の時間です。作業を終えた囚人が、いっせいにここに来るんですよ。我々看守は脱衣所の見張りと、風呂場での見張りに分かれます。ジュリーさん、ティムさん、どちらがいいですか? ジュリーさん、通訳を」


 俺が手話すると、ティムは言った。


「脱衣所」

「所長、脱衣所だそうです。俺は風呂場で」

「かしこまりました。脱衣所は私とティムさん。風呂場はジュリーさんと、副所長のイグリさんですね。あ、副所長は後から来ますので。それまで、ちょっと手伝ってください」


 所長は俺たちがさっき運んだ、大量の服を指さした。


「これを数字順に分けるんです。1-9、10-19って具合に。風呂入るついでに、服も着替えるってわけですよ」


 なるほど、合理的だな。俺たちは三人がかりで、服を仕分けしていった。囚人服の上半身は、グレーの長袖。Tシャツみたいに、頭から通すようになってる。下はグレーの長ズボンか。


 シャツの前と後ろには、でかでかと囚人番号がついていた。ズボンの両ポケットあたりにも、小さく数字が書いてある。


 しばらく作業を続けていると、あの(・・)番号に出くわした。


『72』


 会議室で聞いた、所長の言葉がよみがえる。


『あの車椅子、72番の囚人には気をつけてください。要注意です。できるだけ、あいつには近づかないように』


 あの囚人が、これ着るんだな。そう思ったらこの服が、ちょっとだけ重くなったような気がした。何の面白みもない、ダッサいデザインだけど、つい目が止まる。


 この服が、血しぶきでぬれたこともあるんだろうな。そう思うと背筋が冷えた。ふと、あの目が頭をよぎる。突き刺すような、鋭いまなざし。もしかして、怒ってたのか? 今思うと、野獣みたいな目だった。飢えた肉食獣っていうか、そんな感じの。


「そこ、手え動かせ」

「すいません所長!」


 ヤバい。うっかりボーッとしてた。仕事中ってこと忘れてたな。ん? そういえば今の声、所長とはビミョーに違ったような。


「オレは副所長だが」


 あ、やっぱり。ちらっと目で見ると、げっそりやつれた男がいた。ぎょろぎょろした目にはクマがあって、顔色も青白い。どっからどう見ても不健康そう。


「お疲れ様です、所長」

「ああ、イグリさん。ジュリーさん、いったん顔上げてください。副所長が来ましたよー」


 俺は所長に言われて、立ち上がった。ガリガリの副所長が、思い切り目を丸くする。たぶん、ピアスにビックリしてるんだろう。俺はあえてかしこまった。


「お初にお目にかかります、ジュリー・ヤンと申します。本日は、何とぞよろしく」

「そう固くなるな。もうちょいリラックスしてくれ」


 副所長は、軽く咳払いして続けた。


「オレはイグリ・ケィアス。ここの副所長をしている。えっとお前は、新入りか?」

「はい」

「そうか。よし、作業を続けろ」


 副所長の方はいかにも上司っぽいっていうか、キビキビしてるなあ。この人は、割と真面目に働いてそう。少しは俺も、気を引き締めた方がいいかもしれない。


 なんて思って作業してたら、突然副所長が歌い出した。


「ラーラーラー。オーウウォウォウ、ウェッヘーイ!」


 ど、どうしたんだ急に。恐る恐る顔を上げたら、副所長はダンスまでしてる。本人はノリノリなんだろうけど、足元はフラフラだ。


「この人、ハイになるといつもこうなんですよ。私はアル中ですが、イグリさんはヤク中でね。中毒同士、いいコンビでしょう。ははは」


 所長が笑い飛ばす。よく見たら副所長の左腕に、注射器がぶっ刺さっていた。


「『去る者追わず、来たる者拒まず』が、本牢獄のモットーでして。ただでさえ人が少ないんでね。どんな方でも大歓迎です」


 所長が続けた。本当に「拒まない」場所だな。所長も副所長も、絶対まともじゃないけど。でも、かえって気楽だ。俺だってヤク中だし。


 俺は作業に戻った。副所長は延々と踊り続けている。でも、みんなの作業が終わると、副所長も落ち着いてった。


「ふー。よーしキマった。さて、行くか。おい、ピアスの新人」

「ジュリー・ヤンっす、副所長」

「ジュリーか。よろしく」


 俺と副所長は握手した。どっからか、ピアノの音が聞こえてくる。


「副所長、あの音は?」

「『エリーゼのために』だ。悪くないだろ」


 エリーゼ。その名前に、俺は一瞬ギクッとした。副所長が言う。


「チャイムだ。ちょうど入浴時間だな。さ、行くぞ」

「はい」


 俺と副所長は脱衣所を歩いて、風呂場に向かった。この脱衣所だけでも、かなりでかいな。銭湯以上だ。三段あるロッカーが、二五メートルほど続いている。しかもそんな列が、五つも。


 やっとそこを通り過ぎると、ガラスのドアが見える。風呂場の入口だった。


 風呂場の方もマジで広い。でも、使う方は狭いだろな。左右と手前の壁に、椅子をぎちぎちに詰めてある。その分真ん中が、どーんと開いていた。ずいぶんスペースけちったな。腕ぶつかるだろ、絶対。


 鏡の数はそんなにない。左右の壁には一〇枚ほど、手前にはたった三枚だ。石鹸やシャンプーの数は、もっと減ってくる。五、六人で一個ぐらいか? 


 ひょっとしたらシャンプーは、いっぱい入ってるかもしれない。でも、石鹸はけっこう小さかった。ひどいやつだと消しゴムぐらい。


 シャワーの数も少なかった。石鹸よりはましだけど、二、三人で一本だろうな。


 たぶん強い囚人からシャワーを浴びて、石鹸使ってくんだろうな。弱い囚人は一番最後、運が悪いと使えなさそう。


 奥には浴槽もあった。風呂場はどでかいのに、湯船自体はやけに狭い。五人なら一緒に入れるかな、ってぐらいだ。


「もうすぐ囚人が入ってくる」


 副所長が言った。


「あとは時間の間、適当に見張ってればいい。六〇分ほど、突っ立ってればどうにかなる。もし囚人に何かされたら、すぐ怒鳴れ。やつらは気弱だから心配ない」

「質問があるんですけど」


 俺は聞いた。


「72番の場合は?」

「なるだけじっとしてろ。迅速に所長を呼ぶ。あいつは凶暴だが、死亡者は出なかったからな。とにかく静かにして、医務室のベッドを考えるんだ」


 刺されること前提かよ。ひでえな。よかった、人形に行かせて。


「でも、そう心配するな。ここで刺された看守は、一人もいない。ワイロがばれて、ってのはあるがな。あいつも風呂では、自分の体洗いに夢中だ。オレたちなんか気にもかけない」


 副所長が続ける。励ましてくれてんのかな。ちょっとだけ声が優しかった。


「あ、そうだ。ここは囚人用の風呂だが、連中が使ってない時間は看守も利用できる。仕事時間中はダメだが、休暇の日にはな。湯に浸かりたくなったら、声をかけてくれ」

「ありがとうございます」


 へえ、そうなんだ。初耳だな。まあ、たぶん入らないだろうけど。


「それじゃあ新人、入口付近を頼む」

「はい」


 副所長は湯船の方に歩いてった。ドアの方にも、足音が聞こえてくる。


 ドンドンドン!


 誰かが荒くノックした。うるせえな。ノックするのは礼儀正しいけど、もうちょい上品にやってくれ。


「どーぞ!」


 俺はでかい声で言ってやった。ん? 副所長がドア指さしてる。


「開けろお! シャットコールのお通りだ!」


 向こうからも声がした。何だよ、偉そうに。ドアくらい自分で開けれるだろ。でも副所長の命令だしな、仕方ない。


「へいへーい」


 しぶしぶドアを開けると、横並びで三人入ってきた。左右の男二人が、真ん中の男を支えている。


 真ん中の男の頭は、白髪混じりの灰色だった。消しカスみたいな色の髪が、ボサボサに伸びている。肌が褐色だったから、髪の白さがよく目立った。年はかなりいってそうだな。やつの脚はガリガリで、だらんと力なく垂れている。


 よく見たらこいつ、あの車椅子じゃねーか! 噂の72番。72番は全身傷だらけだった。手、足、胴体、背中にも、大小いろんな傷がある。剣で斬られたような痕から、一、二センチの細かい傷まで。


 どんな人生を生きたら、そうなるんだ。きっと、修羅場をくぐり抜けたんだろうな。横の二人は、痕一つすらついてない。改めて考えると、息が止まりそうになる。


「すいませんっ」


 俺はとっさに謝った。でも三人組は、無視して椅子に向かっていく。72番も何も言わない。


 両脇の二人はドア近くの椅子に、72番を座らせた。素早くて、ていねいだったな。すごく慣れた感じだった。実は元・介護士だったりして。俺の予想はとにかく、二人の処置はうまい。


 他の囚人も、ぞろぞろ入ってきた。どいつもこいつも口々に、72番に挨拶してく。


「失礼します」

「失礼しまーす」


 すげえな、この服従ぶり。いろんな囚人が来てるけど、誰一人挨拶を欠かさない。徹底してる。当の72番ご本人は、黙々とシャンプーしてた。


 72番の両脇には、さっきの二人が控えてる。右の男は自分より先に、72番の背中を洗っていた。ものすごい尽くしっぷりだな。左の男は泡立てたタオルを、右の男に回してる。うまいこと役割分担してる、ってわけだ。


 この三人組は、割と間隔を空けている。そのぶん他の囚人が、ぎちぎちに詰まっていた。ただ、今の俺に注意する度胸はない。それに他のやつらも、極限状態ってほどじゃないしな。ちょっと我慢してくれ。


 俺はしばらく、風呂場を見回していた。気づいたら、副所長がけげんな目でこっちを見てる。副所長は上着を腰に巻いて、Tシャツ姿になっていた。


 ヤバッ! 忘れてた! 人形には感覚がない。俺は今「見る・聞く・心で感じる」はできるんだけど、触覚とか暑い寒いとか、そういうのはない。分身を使ってると、つい忘れる。


 ここは風呂場だ。シャワーからは景気よく、白い湯気が立っている。人も多いし、暑いに決まってるじゃないか! 上着着てたら不自然だ。


「ふー、あっちー」


 俺はつぶやいて上着を脱いだ。ひそひそと、周りから声が聞こえてくる。


「おい、何だありゃ」

「すげえ」


 ふふ、みんな驚いてるな。この俺の腕が、美しすぎて。存分に見るがいい、ワッハッハ。俺は悪魔のような気持ちで、ニヤッと笑った。


 俺は右腕から手首にかけて、朝顔のタトゥーをしてる。緑のツタと葉が、肌をびっしり覆うデザイン。腕の外側には、水色の花を咲かしてるんだ。肩付近、肘、手首と三つ。ついでに右手の甲に、黒いお星さまも彫ってる。


 ああっ、マジ(うるわ)しい。このタトゥーこそ芸術だ。自分でもうっとりして、手首の花にキスすることがある。他のやつから見たら、もっと綺麗だろうな。


 副所長も、やっぱり俺の腕を見てた。どうだ、すごいだろう。そんな思いでウィンクする。副所長はびくついたような目をして、顔を背けた。


 うーん、タトゥーっていうのは好き嫌い分かれるからな。ま、でも。俺が気に入ってりゃ充分。とにかく俺は、このタトゥーが好きなんだ。完全に惚れてる。時期がきたら、左腕にも朝顔をぶち込みたい。


 囚人のやつら、ずっと俺を見てる。見とれたか、この華麗な花に。


「何だ、あの看守。怖っ」

「おっかねえな」


 残念ながら、そうでもないみたいだ。まあいい、いずれこの魅力を、わかるやつも出てくるだろう。


「おい」


 72番の左にいた囚人が、俺の方に歩いてきた。72番はシャンプーを済まし、体の泡を流している。


「何すか?」


 俺が聞くと、そいつは急に睨んできた。


「てめえ、新人か?」

「そうだけど」

「調子乗んなよ、刺青(いれずみ)野郎」


 何だこいつ。急に因縁つけてきた。ケンカ売ってんだろうな。でも、ここ人目多いし。騒ぎになったらめんどくせー。とりあえず、適当に謝っとこう。


「ドアの件なら、すいませんでした。以後気をつけます」


 キレるとしたら、これだろうな。怒るほどのことでもないと思うけど。さて、気は済んだか?


「謝りゃ済むと思うなよ、腰抜けのションベン垂らしが!」


 囚人は俺の上着をひったくって、投げ捨てた。上着は湯船にホール・イン・ワン。この野郎、水没させやがって!


「何すんだてめえ!」


 確か怒鳴ったらいいんですよね、副所長? けどこの囚人、全然ひるまない。


「お前みたいな新入り看守、痛くもかゆくもねえんだよ。こっちには、シャットコールがついてんだ」


 囚人が72番を指さす。いつの間にか72番は、こっちを振り向いていた。こいつ、シャットコールって名前なのか。


 シャットコールは冷徹な左目で、俺たちをガン見している。右目はなかった。まぶたがペッタンコにつぶれて、かたく閉じてる。たぶん、縫いつけてんだろう。


 そのすぐ横、右の頬には、切り傷が五つ刻まれていた。胸、腹にも傷がびっしり。ヤバい、絶対カタギじゃないぞ。


「よせ!」

「やっちまってくだせえ!」


 副所長と囚人が、同時に叫んだ。シャットコールが低くうめく。


「ウア」


 血の廊下で聞いたのと、同じ声だった。怖い。串刺しにされる! 俺は思わず目をつぶって、視覚を遮断した。別に人形なんだから、痛くないってわかってるけど。


 そのとき、悲鳴がした。


「ぎゃあああ!」


 誰だ? 俺は目を開けた。さっきつっかかった囚人が、血を流して立っている。両手両足に、剣みたいな刃がぶっ刺さってた。


 風呂の床から、長い刃物が生えている。アホ囚人の、右と左に一本ずつ。足の甲とすねを貫通して、腕からも突き出ていた。刃の長さはどっちも同じくらいで、軽く囚人の背を超えてる。


「シャットコールが、やったんすか?」


 俺がぼやくと、本人がゆっくりとうなずいた。これが所長の言ってた「串刺し」か。


「シャ、シャットコールが、お怒りになられた」


 誰かがつぶやく。途端、みんなが騒ぎ出した。


「うわあああ! 助けてくれえ!」

「逃げろおおお!」

「神様あああ!」


 完全にパニック状態。俺はちらっと後ろを見た。72番の右隣は、どうだ? こいつは立ち上がって、後ろ手でシャワーをつかんでいた。 


「あ、ああ、あ」


 顔が真っ青。まさに顔面蒼白だ。ピューピューと、オシッコまで漏らしてる。この囚人はきっと、シャットコールとも長い付き合いだ。そんなやつまでビビってる。


「静かにしろ! 黙れ! 黙らんやつは蹴っ飛ばすぞ!」


 副所長が怒鳴る。周りのざわめきは、大きくなる一方だ。落ち着け、俺。まずは何が優先だ? とにかくこの囚人を、医務室に連れてかないと。そのためには。


 俺は叫んだ。


「所長呼んできます!」

「頼む! いや、待て!」


 はあ? どうしたんだこいつ。


「所長はオレが呼ぶ! お前はそこで待機しろ!」


 副所長はそう言って、早足でこっちに向かってきた。


「静かにしてろ。72番を刺激するな」


 それだけささやいて、ガラスのドアを通っていく。何だったんだ?


 何気なく下を見ると、シャットコールが俺の足をつついてた。いつの間にかシャットコールは、うつぶせで床に貼りついている。


「あ、はい! 何ですかあっ!」

「ウア、アアッ」


 シャットコールは首を上げて、何か言い出した。アシカみたいな体勢だな。


「ううっ、シャットコール。どう、して」


 刺された囚人がうめく。ギラギラ光る、剣みてーな刃。広がる血だまり。その血の海でのたうつアシカ。シュールすぎる。


「アッ、アウッ」


 アシカ、もといシャットコールは、左手で湯船を指さした。足をつついたり、指さしたり、そんなことを繰り返して、大きく口を開けている。


 こいつ、舌がない。


「アアッ、アオッ」


 シャットコールはうなずいて、ことんと首を下ろした。え? こいつ、俺の足を握ってる。どうしたんだ、急に。


「オイーイウ」


 シャットコールは手を離して、いきなり寝返りを打った。グルグルゴロゴロ猛スピードで、血だまりの上を転がってる。楕円(だえん)っぽく広がってた血が、湯船に向かって、リボンみたいに伸びてった。


 周りの連中は何も言わない。ビックリしてるのか、怯えてるのか、両方なのか。とにかくみんな押し黙って、シャットコールをガン見していた。


「ウッ」


 ゴツッ! と湯船にぶつかって、シャットコールの体が止まる。シャットコールは血まみれの腕を、湯に向かって伸ばしていた。指先が、ピクピク震えてる。大丈夫かこいつ。


「お待ちください!」


 湯船近くにいた囚人が、俺の上着をすくう。気を効かしてくれたのか、サンキュ。あ、そうか。シャットコールも、俺の上着を取ろうと? 


 もしかしたら、意外といいやつなのかもしれない。ただ、おっそろしく凶暴だけど。


 シャットコールが、じわじわ体を起こしていく。うわっ。髪の毛も顔も、さっきの血でベタベタだな。


 囚人が上着を差し出したあと、ガラスのドアが開いた。


「どっこいしょ。やれやれ、またですか」


 所長! よかった、やっと来た。他にも白衣を着た、医者っぽい人が二人いる。きちんと、担架も持ってきて。


「ジュリーさん」


 所長が親指で、シャットコールを指さす。俺はシャットコールの方へ、早足で歩いた。こいつの気をそらした方が、ケガ人を連れ出しやすいからな。


「ありがとう、ございます」


 とりあえず俺は礼を言った。シャットコールも、無言で浅くおじぎしてくる。よし、いい感じだ。


「た、助かりました」


 さて、返してもらおう。俺はゆっくり右手を伸ばした。でもシャットコールは首を横に振ってる。なんでだよ。もしかして、やっぱり奪おうって気か?


 ここはちょっと、強気に出るべきかもしれない。今は人形使ってんだ。仮にこいつが暴れても、本体は絶対傷つかない。勇気出せ、自分!


「おい」


 俺は思い切ってドスを効かせた。近くの囚人が「ひっ」とビビった声を上げる。シャットコールはうつむいたまま、ぐしゃっと上着を握ってる。


「えっ、どうすんですか」


 思わず敬語が出た。やっぱ怖いし。それからこいつ、先が読めない。シャットコールは顔を上げると、上着を雑巾絞りした。


「イオッアウ」


 すそ、袖、肩、胸あたり、服のあちこちを握っては、力いっぱい絞ってく。ぬれた手でやっても、意味ねー気がするけど。それにシャットコール、血まみれだし。


 絞るたび服にはしみがついて、薄赤黒い水が垂れた。なんか、余計ひどくなってない? あ。今ブチッていった。力込めすぎだって。絶対どっか切れたな。


「もういいです」


 俺はシャットコールに言った。


「あとはクリーニングとか、何とかしてもらうんで」

「アイ」


 シャットコールは服を丸めて、両手で俺に手渡した。思ったより、あっさり返してくれたな。それに刺されなかったし。今の俺には、幸運の女神がほほ笑んでるのかも。


「ど、ども。ありがとうございました」


 よかった。さて、上着も返ってきたとこだし、いったんどっか置いておこう。やっぱ脱衣所かな。


 俺は背を向けて、ドアの方に一歩歩いた。そのとき。


「ゴホッ! ゲハッ!」


 シャットコールが、急に咳込みだした。何か変だな。振り返るとシャットコールが、排水溝近くでうずくまってる。


「ヤベえ、吐いてる!」

「ゲロ?」


 囚人がまた騒ぎ出した。ああっ、クソーッ! このシャットコールってやつは、何回汚せば気が済むんだ!


 俺は上着をブン投げて、シャットコールに駆け寄った。思いっ切り血だまりに落っこちた気がするけど、どーでもいい。どうせ汚いんだし。


「大丈夫すか?」


 シャットコールは、途切れ途切れに咳をしていた。吐いたらしいけど、目立ったブツは見えない。たぶん、胃液ぐらいしか出なかったんだろう。吐いた量も、ちょびっとだったのかもしれない。


「うーん、ちょっと失礼しますね。あ、顔は上げないで。そうそう、そのまんま。口、大きく開けてください。ノドに指突っ込みますから。全部出しましょう」


 シャットコールは素直に口を開けた。舌がないから入れやすい。生身の俺なら、さすがにここまでしなかったけど。


 それに原因も、たいしたことないだろう。おそらく、あの寝返りで酔ったんだ。ドジなやつ! おっちょこちょいか? まあ、うつる病気じゃなくてよかった。


「おい、新入り」


 囚人がびくついた声で言う。俺は左手で、シャットコールの背をさすりながら答えた。


「何すか?」

「やりすぎじゃねえか? 死んじまうよ」


 あ。そういえば手、突っ込みっぱなしだった! 人さし、中、薬指と三本も。ヤベえヤベえ、窒息させる。


 俺はすぐに指を抜いた。シャットコールが、透明な液体を吐く。やっぱり量は少なかった。幸い、というかなんというか。


 それにしても、人騒がせなやつだなあ。こいつが俺より年下の、ちっちゃいガキだったら、思い切り叱ってやるのに。


『あのなあ! 迷惑かけるのも大概にしろ! ゲロはしょうがないけど、人刺すなよ! 後始末するのは看守なんだぞ! あと、お前は酔いやすいんだから、グルグル回んないよーに! けど上着取ってくれたのは、ありがとな』


 って感じ。


 でも相手は、噂の72番だからな。うかつに叱れない。俺はしょせん、ペーペーの新人だし。


 かといって、あんま礼言いすぎるのはなあ。褒められた、と思われても困る。「ありがとう」なら、さっき充分言ったし。


 俺は結局、無言でシャットコールをさすり続けた。かける言葉もわかんないし、取るべき行動もわかんねー。ここでいきなりドアに行っても、何だしなあ。


 それに優しくしといた方が、ご機嫌取りになるだろう。凶暴な72番も、恩義のあるやつには、目つぶってくれるかも。


「ウウッ」


 しばらくして、シャットコールが体を起こした。だいぶ落ち着いてきたらしい。シャットコールは二回ほど深呼吸して、俺の方に向き直った。


 今気づいたけど、こいつ、とんでもない体してる。


 傷だらけなのはさっき見たけど、それ以外もいろいろすごい。改めて見ると、上半身と脚のバランスが変だった。腕、肩、胸、腹は、やつれ気味だけど筋肉ついてる。節目もちょっと割れてるし。特に肩は骨ばってて、がっちりした感じだ。


 それに比べて脚は、骨と皮。ももの肉も、ガイコツよりはましな程度。副所長もやせてる方だけど、シャットコールの下半身はもっとひどい。もともと、そういう障害かもしれないけど。


 障害のことは、さておき。首元にもぞっとした。シャットコールの鎖骨の下には、なんか数字が書いてある。


『365』


 ここの囚人番号じゃ、ないよな。「72番」って所長も言ってたし。一年の日数を表してるとか? 


 そんな意味よりも、文字の色合いが気になった。この数字、タトゥーじゃない。まさか、焼きゴテ? 俺の実家は、猟犬の耳に焼き印してた。その字と色合いがよく似てる。


 もう一つ気になったのが、左腕の内側だった。まっすぐな傷が何本も、規則正しくついている。リストカットって言葉が、頭に浮かんだ。シャットコール()自傷したのか?


「アイアウ、オアイアイア」


 シャットコールが頭を下げた。感謝してる、のかな?


「えっと、どういたしまして」


 俺が言ったそのとき、ドアが開いた。副所長と所長が、二人そろって入ってくる。


「入浴時間、終了一〇分前だ。さっさと体を洗え」


 副所長が言う。所長は早歩きで、とことこ俺の方に来た。


「お疲れ様でした、ジュリーさん」

「ちょっと待ってください。手、洗わせてくれます?」

「どうぞどうぞ」

「はーい。あ、ちょっとシャワー貸して」


 近くの囚人が、さっとどく。俺が手洗ってる間、囚人は洗面器に湯を張って、シャットコールに渡してた。


 シャットコールは、グブグブとうがいをした。他のやつらも、次々と洗面器を持ってくる。すげえな、みんなシャットコールにお仕えしてる。貴族の召使(めしつかい)もビックリだ。寝返りダッシュの変人でも、あれだけ強いんじゃあな。ペコペコするしかなさそう。


「済みましたか、ジュリーさん。ささ、今のうちに」


 所長に言われて、俺は出口に向かった。上着はすっかりグショグショになってる。きっと血や水で、重くなってるんだろうな。


 ちらっと後ろを振り返ると、シャットコールが血塗れた頭を洗っていた。あーあ、とんでもないとこ来ちゃったな。

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