入浴時間
「どうもどうも。ご苦労様です」
所長がほほえむ。俺とティムは床にへたり込んだ。何せ、さっきまで服運んでたからな。ここの囚人、全員分。ティムはずいぶん重かったみたいで、ハアハア言ってる。
今の俺は人形だから、重さは感じない。でも服の山で、前が全然見えなかった。おかげですげえ気疲れしたな。
クタクタの俺たちに、所長は言った。
「さて、もうすぐお風呂の時間です。作業を終えた囚人が、いっせいにここに来るんですよ。我々看守は脱衣所の見張りと、風呂場での見張りに分かれます。ジュリーさん、ティムさん、どちらがいいですか? ジュリーさん、通訳を」
俺が手話すると、ティムは言った。
「脱衣所」
「所長、脱衣所だそうです。俺は風呂場で」
「かしこまりました。脱衣所は私とティムさん。風呂場はジュリーさんと、副所長のイグリさんですね。あ、副所長は後から来ますので。それまで、ちょっと手伝ってください」
所長は俺たちがさっき運んだ、大量の服を指さした。
「これを数字順に分けるんです。1-9、10-19って具合に。風呂入るついでに、服も着替えるってわけですよ」
なるほど、合理的だな。俺たちは三人がかりで、服を仕分けしていった。囚人服の上半身は、グレーの長袖。Tシャツみたいに、頭から通すようになってる。下はグレーの長ズボンか。
シャツの前と後ろには、でかでかと囚人番号がついていた。ズボンの両ポケットあたりにも、小さく数字が書いてある。
しばらく作業を続けていると、あの番号に出くわした。
『72』
会議室で聞いた、所長の言葉がよみがえる。
『あの車椅子、72番の囚人には気をつけてください。要注意です。できるだけ、あいつには近づかないように』
あの囚人が、これ着るんだな。そう思ったらこの服が、ちょっとだけ重くなったような気がした。何の面白みもない、ダッサいデザインだけど、つい目が止まる。
この服が、血しぶきでぬれたこともあるんだろうな。そう思うと背筋が冷えた。ふと、あの目が頭をよぎる。突き刺すような、鋭いまなざし。もしかして、怒ってたのか? 今思うと、野獣みたいな目だった。飢えた肉食獣っていうか、そんな感じの。
「そこ、手え動かせ」
「すいません所長!」
ヤバい。うっかりボーッとしてた。仕事中ってこと忘れてたな。ん? そういえば今の声、所長とはビミョーに違ったような。
「オレは副所長だが」
あ、やっぱり。ちらっと目で見ると、げっそりやつれた男がいた。ぎょろぎょろした目にはクマがあって、顔色も青白い。どっからどう見ても不健康そう。
「お疲れ様です、所長」
「ああ、イグリさん。ジュリーさん、いったん顔上げてください。副所長が来ましたよー」
俺は所長に言われて、立ち上がった。ガリガリの副所長が、思い切り目を丸くする。たぶん、ピアスにビックリしてるんだろう。俺はあえてかしこまった。
「お初にお目にかかります、ジュリー・ヤンと申します。本日は、何とぞよろしく」
「そう固くなるな。もうちょいリラックスしてくれ」
副所長は、軽く咳払いして続けた。
「オレはイグリ・ケィアス。ここの副所長をしている。えっとお前は、新入りか?」
「はい」
「そうか。よし、作業を続けろ」
副所長の方はいかにも上司っぽいっていうか、キビキビしてるなあ。この人は、割と真面目に働いてそう。少しは俺も、気を引き締めた方がいいかもしれない。
なんて思って作業してたら、突然副所長が歌い出した。
「ラーラーラー。オーウウォウォウ、ウェッヘーイ!」
ど、どうしたんだ急に。恐る恐る顔を上げたら、副所長はダンスまでしてる。本人はノリノリなんだろうけど、足元はフラフラだ。
「この人、ハイになるといつもこうなんですよ。私はアル中ですが、イグリさんはヤク中でね。中毒同士、いいコンビでしょう。ははは」
所長が笑い飛ばす。よく見たら副所長の左腕に、注射器がぶっ刺さっていた。
「『去る者追わず、来たる者拒まず』が、本牢獄のモットーでして。ただでさえ人が少ないんでね。どんな方でも大歓迎です」
所長が続けた。本当に「拒まない」場所だな。所長も副所長も、絶対まともじゃないけど。でも、かえって気楽だ。俺だってヤク中だし。
俺は作業に戻った。副所長は延々と踊り続けている。でも、みんなの作業が終わると、副所長も落ち着いてった。
「ふー。よーしキマった。さて、行くか。おい、ピアスの新人」
「ジュリー・ヤンっす、副所長」
「ジュリーか。よろしく」
俺と副所長は握手した。どっからか、ピアノの音が聞こえてくる。
「副所長、あの音は?」
「『エリーゼのために』だ。悪くないだろ」
エリーゼ。その名前に、俺は一瞬ギクッとした。副所長が言う。
「チャイムだ。ちょうど入浴時間だな。さ、行くぞ」
「はい」
俺と副所長は脱衣所を歩いて、風呂場に向かった。この脱衣所だけでも、かなりでかいな。銭湯以上だ。三段あるロッカーが、二五メートルほど続いている。しかもそんな列が、五つも。
やっとそこを通り過ぎると、ガラスのドアが見える。風呂場の入口だった。
風呂場の方もマジで広い。でも、使う方は狭いだろな。左右と手前の壁に、椅子をぎちぎちに詰めてある。その分真ん中が、どーんと開いていた。ずいぶんスペースけちったな。腕ぶつかるだろ、絶対。
鏡の数はそんなにない。左右の壁には一〇枚ほど、手前にはたった三枚だ。石鹸やシャンプーの数は、もっと減ってくる。五、六人で一個ぐらいか?
ひょっとしたらシャンプーは、いっぱい入ってるかもしれない。でも、石鹸はけっこう小さかった。ひどいやつだと消しゴムぐらい。
シャワーの数も少なかった。石鹸よりはましだけど、二、三人で一本だろうな。
たぶん強い囚人からシャワーを浴びて、石鹸使ってくんだろうな。弱い囚人は一番最後、運が悪いと使えなさそう。
奥には浴槽もあった。風呂場はどでかいのに、湯船自体はやけに狭い。五人なら一緒に入れるかな、ってぐらいだ。
「もうすぐ囚人が入ってくる」
副所長が言った。
「あとは時間の間、適当に見張ってればいい。六〇分ほど、突っ立ってればどうにかなる。もし囚人に何かされたら、すぐ怒鳴れ。やつらは気弱だから心配ない」
「質問があるんですけど」
俺は聞いた。
「72番の場合は?」
「なるだけじっとしてろ。迅速に所長を呼ぶ。あいつは凶暴だが、死亡者は出なかったからな。とにかく静かにして、医務室のベッドを考えるんだ」
刺されること前提かよ。ひでえな。よかった、人形に行かせて。
「でも、そう心配するな。ここで刺された看守は、一人もいない。ワイロがばれて、ってのはあるがな。あいつも風呂では、自分の体洗いに夢中だ。オレたちなんか気にもかけない」
副所長が続ける。励ましてくれてんのかな。ちょっとだけ声が優しかった。
「あ、そうだ。ここは囚人用の風呂だが、連中が使ってない時間は看守も利用できる。仕事時間中はダメだが、休暇の日にはな。湯に浸かりたくなったら、声をかけてくれ」
「ありがとうございます」
へえ、そうなんだ。初耳だな。まあ、たぶん入らないだろうけど。
「それじゃあ新人、入口付近を頼む」
「はい」
副所長は湯船の方に歩いてった。ドアの方にも、足音が聞こえてくる。
ドンドンドン!
誰かが荒くノックした。うるせえな。ノックするのは礼儀正しいけど、もうちょい上品にやってくれ。
「どーぞ!」
俺はでかい声で言ってやった。ん? 副所長がドア指さしてる。
「開けろお! シャットコールのお通りだ!」
向こうからも声がした。何だよ、偉そうに。ドアくらい自分で開けれるだろ。でも副所長の命令だしな、仕方ない。
「へいへーい」
しぶしぶドアを開けると、横並びで三人入ってきた。左右の男二人が、真ん中の男を支えている。
真ん中の男の頭は、白髪混じりの灰色だった。消しカスみたいな色の髪が、ボサボサに伸びている。肌が褐色だったから、髪の白さがよく目立った。年はかなりいってそうだな。やつの脚はガリガリで、だらんと力なく垂れている。
よく見たらこいつ、あの車椅子じゃねーか! 噂の72番。72番は全身傷だらけだった。手、足、胴体、背中にも、大小いろんな傷がある。剣で斬られたような痕から、一、二センチの細かい傷まで。
どんな人生を生きたら、そうなるんだ。きっと、修羅場をくぐり抜けたんだろうな。横の二人は、痕一つすらついてない。改めて考えると、息が止まりそうになる。
「すいませんっ」
俺はとっさに謝った。でも三人組は、無視して椅子に向かっていく。72番も何も言わない。
両脇の二人はドア近くの椅子に、72番を座らせた。素早くて、ていねいだったな。すごく慣れた感じだった。実は元・介護士だったりして。俺の予想はとにかく、二人の処置はうまい。
他の囚人も、ぞろぞろ入ってきた。どいつもこいつも口々に、72番に挨拶してく。
「失礼します」
「失礼しまーす」
すげえな、この服従ぶり。いろんな囚人が来てるけど、誰一人挨拶を欠かさない。徹底してる。当の72番ご本人は、黙々とシャンプーしてた。
72番の両脇には、さっきの二人が控えてる。右の男は自分より先に、72番の背中を洗っていた。ものすごい尽くしっぷりだな。左の男は泡立てたタオルを、右の男に回してる。うまいこと役割分担してる、ってわけだ。
この三人組は、割と間隔を空けている。そのぶん他の囚人が、ぎちぎちに詰まっていた。ただ、今の俺に注意する度胸はない。それに他のやつらも、極限状態ってほどじゃないしな。ちょっと我慢してくれ。
俺はしばらく、風呂場を見回していた。気づいたら、副所長がけげんな目でこっちを見てる。副所長は上着を腰に巻いて、Tシャツ姿になっていた。
ヤバッ! 忘れてた! 人形には感覚がない。俺は今「見る・聞く・心で感じる」はできるんだけど、触覚とか暑い寒いとか、そういうのはない。分身を使ってると、つい忘れる。
ここは風呂場だ。シャワーからは景気よく、白い湯気が立っている。人も多いし、暑いに決まってるじゃないか! 上着着てたら不自然だ。
「ふー、あっちー」
俺はつぶやいて上着を脱いだ。ひそひそと、周りから声が聞こえてくる。
「おい、何だありゃ」
「すげえ」
ふふ、みんな驚いてるな。この俺の腕が、美しすぎて。存分に見るがいい、ワッハッハ。俺は悪魔のような気持ちで、ニヤッと笑った。
俺は右腕から手首にかけて、朝顔のタトゥーをしてる。緑のツタと葉が、肌をびっしり覆うデザイン。腕の外側には、水色の花を咲かしてるんだ。肩付近、肘、手首と三つ。ついでに右手の甲に、黒いお星さまも彫ってる。
ああっ、マジ麗しい。このタトゥーこそ芸術だ。自分でもうっとりして、手首の花にキスすることがある。他のやつから見たら、もっと綺麗だろうな。
副所長も、やっぱり俺の腕を見てた。どうだ、すごいだろう。そんな思いでウィンクする。副所長はびくついたような目をして、顔を背けた。
うーん、タトゥーっていうのは好き嫌い分かれるからな。ま、でも。俺が気に入ってりゃ充分。とにかく俺は、このタトゥーが好きなんだ。完全に惚れてる。時期がきたら、左腕にも朝顔をぶち込みたい。
囚人のやつら、ずっと俺を見てる。見とれたか、この華麗な花に。
「何だ、あの看守。怖っ」
「おっかねえな」
残念ながら、そうでもないみたいだ。まあいい、いずれこの魅力を、わかるやつも出てくるだろう。
「おい」
72番の左にいた囚人が、俺の方に歩いてきた。72番はシャンプーを済まし、体の泡を流している。
「何すか?」
俺が聞くと、そいつは急に睨んできた。
「てめえ、新人か?」
「そうだけど」
「調子乗んなよ、刺青野郎」
何だこいつ。急に因縁つけてきた。ケンカ売ってんだろうな。でも、ここ人目多いし。騒ぎになったらめんどくせー。とりあえず、適当に謝っとこう。
「ドアの件なら、すいませんでした。以後気をつけます」
キレるとしたら、これだろうな。怒るほどのことでもないと思うけど。さて、気は済んだか?
「謝りゃ済むと思うなよ、腰抜けのションベン垂らしが!」
囚人は俺の上着をひったくって、投げ捨てた。上着は湯船にホール・イン・ワン。この野郎、水没させやがって!
「何すんだてめえ!」
確か怒鳴ったらいいんですよね、副所長? けどこの囚人、全然ひるまない。
「お前みたいな新入り看守、痛くもかゆくもねえんだよ。こっちには、シャットコールがついてんだ」
囚人が72番を指さす。いつの間にか72番は、こっちを振り向いていた。こいつ、シャットコールって名前なのか。
シャットコールは冷徹な左目で、俺たちをガン見している。右目はなかった。まぶたがペッタンコにつぶれて、かたく閉じてる。たぶん、縫いつけてんだろう。
そのすぐ横、右の頬には、切り傷が五つ刻まれていた。胸、腹にも傷がびっしり。ヤバい、絶対カタギじゃないぞ。
「よせ!」
「やっちまってくだせえ!」
副所長と囚人が、同時に叫んだ。シャットコールが低くうめく。
「ウア」
血の廊下で聞いたのと、同じ声だった。怖い。串刺しにされる! 俺は思わず目をつぶって、視覚を遮断した。別に人形なんだから、痛くないってわかってるけど。
そのとき、悲鳴がした。
「ぎゃあああ!」
誰だ? 俺は目を開けた。さっきつっかかった囚人が、血を流して立っている。両手両足に、剣みたいな刃がぶっ刺さってた。
風呂の床から、長い刃物が生えている。アホ囚人の、右と左に一本ずつ。足の甲とすねを貫通して、腕からも突き出ていた。刃の長さはどっちも同じくらいで、軽く囚人の背を超えてる。
「シャットコールが、やったんすか?」
俺がぼやくと、本人がゆっくりとうなずいた。これが所長の言ってた「串刺し」か。
「シャ、シャットコールが、お怒りになられた」
誰かがつぶやく。途端、みんなが騒ぎ出した。
「うわあああ! 助けてくれえ!」
「逃げろおおお!」
「神様あああ!」
完全にパニック状態。俺はちらっと後ろを見た。72番の右隣は、どうだ? こいつは立ち上がって、後ろ手でシャワーをつかんでいた。
「あ、ああ、あ」
顔が真っ青。まさに顔面蒼白だ。ピューピューと、オシッコまで漏らしてる。この囚人はきっと、シャットコールとも長い付き合いだ。そんなやつまでビビってる。
「静かにしろ! 黙れ! 黙らんやつは蹴っ飛ばすぞ!」
副所長が怒鳴る。周りのざわめきは、大きくなる一方だ。落ち着け、俺。まずは何が優先だ? とにかくこの囚人を、医務室に連れてかないと。そのためには。
俺は叫んだ。
「所長呼んできます!」
「頼む! いや、待て!」
はあ? どうしたんだこいつ。
「所長はオレが呼ぶ! お前はそこで待機しろ!」
副所長はそう言って、早足でこっちに向かってきた。
「静かにしてろ。72番を刺激するな」
それだけささやいて、ガラスのドアを通っていく。何だったんだ?
何気なく下を見ると、シャットコールが俺の足をつついてた。いつの間にかシャットコールは、うつぶせで床に貼りついている。
「あ、はい! 何ですかあっ!」
「ウア、アアッ」
シャットコールは首を上げて、何か言い出した。アシカみたいな体勢だな。
「ううっ、シャットコール。どう、して」
刺された囚人がうめく。ギラギラ光る、剣みてーな刃。広がる血だまり。その血の海でのたうつアシカ。シュールすぎる。
「アッ、アウッ」
アシカ、もといシャットコールは、左手で湯船を指さした。足をつついたり、指さしたり、そんなことを繰り返して、大きく口を開けている。
こいつ、舌がない。
「アアッ、アオッ」
シャットコールはうなずいて、ことんと首を下ろした。え? こいつ、俺の足を握ってる。どうしたんだ、急に。
「オイーイウ」
シャットコールは手を離して、いきなり寝返りを打った。グルグルゴロゴロ猛スピードで、血だまりの上を転がってる。楕円っぽく広がってた血が、湯船に向かって、リボンみたいに伸びてった。
周りの連中は何も言わない。ビックリしてるのか、怯えてるのか、両方なのか。とにかくみんな押し黙って、シャットコールをガン見していた。
「ウッ」
ゴツッ! と湯船にぶつかって、シャットコールの体が止まる。シャットコールは血まみれの腕を、湯に向かって伸ばしていた。指先が、ピクピク震えてる。大丈夫かこいつ。
「お待ちください!」
湯船近くにいた囚人が、俺の上着をすくう。気を効かしてくれたのか、サンキュ。あ、そうか。シャットコールも、俺の上着を取ろうと?
もしかしたら、意外といいやつなのかもしれない。ただ、おっそろしく凶暴だけど。
シャットコールが、じわじわ体を起こしていく。うわっ。髪の毛も顔も、さっきの血でベタベタだな。
囚人が上着を差し出したあと、ガラスのドアが開いた。
「どっこいしょ。やれやれ、またですか」
所長! よかった、やっと来た。他にも白衣を着た、医者っぽい人が二人いる。きちんと、担架も持ってきて。
「ジュリーさん」
所長が親指で、シャットコールを指さす。俺はシャットコールの方へ、早足で歩いた。こいつの気をそらした方が、ケガ人を連れ出しやすいからな。
「ありがとう、ございます」
とりあえず俺は礼を言った。シャットコールも、無言で浅くおじぎしてくる。よし、いい感じだ。
「た、助かりました」
さて、返してもらおう。俺はゆっくり右手を伸ばした。でもシャットコールは首を横に振ってる。なんでだよ。もしかして、やっぱり奪おうって気か?
ここはちょっと、強気に出るべきかもしれない。今は人形使ってんだ。仮にこいつが暴れても、本体は絶対傷つかない。勇気出せ、自分!
「おい」
俺は思い切ってドスを効かせた。近くの囚人が「ひっ」とビビった声を上げる。シャットコールはうつむいたまま、ぐしゃっと上着を握ってる。
「えっ、どうすんですか」
思わず敬語が出た。やっぱ怖いし。それからこいつ、先が読めない。シャットコールは顔を上げると、上着を雑巾絞りした。
「イオッアウ」
すそ、袖、肩、胸あたり、服のあちこちを握っては、力いっぱい絞ってく。ぬれた手でやっても、意味ねー気がするけど。それにシャットコール、血まみれだし。
絞るたび服にはしみがついて、薄赤黒い水が垂れた。なんか、余計ひどくなってない? あ。今ブチッていった。力込めすぎだって。絶対どっか切れたな。
「もういいです」
俺はシャットコールに言った。
「あとはクリーニングとか、何とかしてもらうんで」
「アイ」
シャットコールは服を丸めて、両手で俺に手渡した。思ったより、あっさり返してくれたな。それに刺されなかったし。今の俺には、幸運の女神がほほ笑んでるのかも。
「ど、ども。ありがとうございました」
よかった。さて、上着も返ってきたとこだし、いったんどっか置いておこう。やっぱ脱衣所かな。
俺は背を向けて、ドアの方に一歩歩いた。そのとき。
「ゴホッ! ゲハッ!」
シャットコールが、急に咳込みだした。何か変だな。振り返るとシャットコールが、排水溝近くでうずくまってる。
「ヤベえ、吐いてる!」
「ゲロ?」
囚人がまた騒ぎ出した。ああっ、クソーッ! このシャットコールってやつは、何回汚せば気が済むんだ!
俺は上着をブン投げて、シャットコールに駆け寄った。思いっ切り血だまりに落っこちた気がするけど、どーでもいい。どうせ汚いんだし。
「大丈夫すか?」
シャットコールは、途切れ途切れに咳をしていた。吐いたらしいけど、目立ったブツは見えない。たぶん、胃液ぐらいしか出なかったんだろう。吐いた量も、ちょびっとだったのかもしれない。
「うーん、ちょっと失礼しますね。あ、顔は上げないで。そうそう、そのまんま。口、大きく開けてください。ノドに指突っ込みますから。全部出しましょう」
シャットコールは素直に口を開けた。舌がないから入れやすい。生身の俺なら、さすがにここまでしなかったけど。
それに原因も、たいしたことないだろう。おそらく、あの寝返りで酔ったんだ。ドジなやつ! おっちょこちょいか? まあ、うつる病気じゃなくてよかった。
「おい、新入り」
囚人がびくついた声で言う。俺は左手で、シャットコールの背をさすりながら答えた。
「何すか?」
「やりすぎじゃねえか? 死んじまうよ」
あ。そういえば手、突っ込みっぱなしだった! 人さし、中、薬指と三本も。ヤベえヤベえ、窒息させる。
俺はすぐに指を抜いた。シャットコールが、透明な液体を吐く。やっぱり量は少なかった。幸い、というかなんというか。
それにしても、人騒がせなやつだなあ。こいつが俺より年下の、ちっちゃいガキだったら、思い切り叱ってやるのに。
『あのなあ! 迷惑かけるのも大概にしろ! ゲロはしょうがないけど、人刺すなよ! 後始末するのは看守なんだぞ! あと、お前は酔いやすいんだから、グルグル回んないよーに! けど上着取ってくれたのは、ありがとな』
って感じ。
でも相手は、噂の72番だからな。うかつに叱れない。俺はしょせん、ペーペーの新人だし。
かといって、あんま礼言いすぎるのはなあ。褒められた、と思われても困る。「ありがとう」なら、さっき充分言ったし。
俺は結局、無言でシャットコールをさすり続けた。かける言葉もわかんないし、取るべき行動もわかんねー。ここでいきなりドアに行っても、何だしなあ。
それに優しくしといた方が、ご機嫌取りになるだろう。凶暴な72番も、恩義のあるやつには、目つぶってくれるかも。
「ウウッ」
しばらくして、シャットコールが体を起こした。だいぶ落ち着いてきたらしい。シャットコールは二回ほど深呼吸して、俺の方に向き直った。
今気づいたけど、こいつ、とんでもない体してる。
傷だらけなのはさっき見たけど、それ以外もいろいろすごい。改めて見ると、上半身と脚のバランスが変だった。腕、肩、胸、腹は、やつれ気味だけど筋肉ついてる。節目もちょっと割れてるし。特に肩は骨ばってて、がっちりした感じだ。
それに比べて脚は、骨と皮。ももの肉も、ガイコツよりはましな程度。副所長もやせてる方だけど、シャットコールの下半身はもっとひどい。もともと、そういう障害かもしれないけど。
障害のことは、さておき。首元にもぞっとした。シャットコールの鎖骨の下には、なんか数字が書いてある。
『365』
ここの囚人番号じゃ、ないよな。「72番」って所長も言ってたし。一年の日数を表してるとか?
そんな意味よりも、文字の色合いが気になった。この数字、タトゥーじゃない。まさか、焼きゴテ? 俺の実家は、猟犬の耳に焼き印してた。その字と色合いがよく似てる。
もう一つ気になったのが、左腕の内側だった。まっすぐな傷が何本も、規則正しくついている。リストカットって言葉が、頭に浮かんだ。シャットコールも自傷したのか?
「アイアウ、オアイアイア」
シャットコールが頭を下げた。感謝してる、のかな?
「えっと、どういたしまして」
俺が言ったそのとき、ドアが開いた。副所長と所長が、二人そろって入ってくる。
「入浴時間、終了一〇分前だ。さっさと体を洗え」
副所長が言う。所長は早歩きで、とことこ俺の方に来た。
「お疲れ様でした、ジュリーさん」
「ちょっと待ってください。手、洗わせてくれます?」
「どうぞどうぞ」
「はーい。あ、ちょっとシャワー貸して」
近くの囚人が、さっとどく。俺が手洗ってる間、囚人は洗面器に湯を張って、シャットコールに渡してた。
シャットコールは、グブグブとうがいをした。他のやつらも、次々と洗面器を持ってくる。すげえな、みんなシャットコールにお仕えしてる。貴族の召使もビックリだ。寝返りダッシュの変人でも、あれだけ強いんじゃあな。ペコペコするしかなさそう。
「済みましたか、ジュリーさん。ささ、今のうちに」
所長に言われて、俺は出口に向かった。上着はすっかりグショグショになってる。きっと血や水で、重くなってるんだろうな。
ちらっと後ろを振り返ると、シャットコールが血塗れた頭を洗っていた。あーあ、とんでもないとこ来ちゃったな。