この門をくぐる者は
「ささ、こちらへ」
俺たちは酒飲み所長に続いて、岩山へ向かった。よく見たら山のふもとには、両開きの扉がある。でかい戸だけど、黒すぎて気づかなかった。くっついてる南京錠もでかいな。ショルダーバッグぐらいはあるんじゃね?
「あー、どっこいしょ」
所長が扉にもたれかかる。案の定、またボトルを開けていた。
「ふー、うまい。ここですよ皆さん。こちらが牢獄入口です。今開けますからね」
所長が鍵をいじくる。ゴン、と重い音がした。開いたんだよな? でも、扉は動かない。
「おっかしいですねー。今ので開いたはずなんですよ。あとは押すだけなんですが。えいっしょ、うんぬー!」
所長が奇声を上げても、扉はびくともしなかった。
「年のせいですかねえ」
息を切らして所長が言う。酒のせいもあるんじゃねーの? しょうがねえな。
「手伝うっすよ」
俺も両手で扉を押した。うわ、マジで固い。「扉一つ開けられねーの? 弱っちいやつ」なんて思ってすいませんでした、オッサン。若者でもきついです。
それでも体重をかけたら、何とか隙間が見えてきた。よし、いける。あ。
押しながら俺は気がついた。よく見たらこの扉、ラクガキされてる。たぶん、ナイフで傷つけたんだろ。いろいろあって面白いな。
『クソ! ブタ! ゴミ!』
『借金 妻逃げ 子供逃げ → ここ』
『おととい来るわ! Very good byeeeeee!』
こんなのもあった。
『この門をくぐる者は 一切の希望を捨てよ』
すげえな。入ったら地獄、ってことか? まー、どうでもいいや。地獄だろうと煉獄だろうと、家にいるよりずっとマシ!
俺は全体重をかけた。
「おーっ! 開いたー!」
所長が声を上げる。俺は手を離してへたり込んだ。あああー、どっこいしょ! 肘が痛い。明日は間違いなく筋肉痛だ。
顔上げたら、所長がこっち見てる。
「ありがとうございます、お若い方。おかげで助かりました」
「ジュリー・ヤンっす。よろしく、所長さん」
軽く握手して、俺は一番乗りで入った。すぐ牢屋につながってるのか。と思ってたけど、そうでもない。
重い扉の向こうには、また扉があった。今度の戸はちっちゃくて、一人ずつしか通れそうにない。ごつい錠とかもないな。丸いドアノブが、ちょこんと控えめについている。
「よいしょ」
後ろで所長が、重い扉をつかむ。けど、うまく引っぱりきれない。さて、また助けるか。
俺が行こうとしたとき、メガネが一瞬で扉を閉めた。二秒もかからなかったと思う。ひょろひょろだと思ってたけど、やるじゃん。こんな力があるなら、入るときも手伝えよ。
「ありがとうございます」
所長が言う。メガネはすぐハンカチを当てた。
「ではここから、牢獄に入ります。覚悟してついてきてください」
ちっちゃい戸が開く。中は真っ暗だった。うわ、そんなことより臭えっ! 生臭いにおいが、鼻の奥まで飛び込んでくる。腐った魚の山に放り込まれた気分だ。アル中所長どころじゃない。
「それじゃ、足元に気をつけて」
当の本人は酒飲みながら、すたすた歩いてる。意外と足速いな。
一〇ほどまっすぐ進むと、両脇にロウソクが見えた。あたりの景色も、ぼんやりとわかってくる。まっすぐな廊下の横に、牢屋がずらっと立ち並んでた。たぶん奥に、従業員入口があるんだろう。
「うわああ」
後ろのやつが、怯えたような声を上げた。たぶん、あの金髪だな。右、左、どっちの牢屋も、鉄格子が血に塗れている。中の壁にも、血糊がこびりついていた。
よく見たら、廊下にも血が流れてる。そういえば足元が、ぬかるみを歩いてるような感じだった。水たまりに近い、あの感触。今は血だまりだけどな。ずっこけないよう、気をつけないと。
冷静に冷静に。心の中で、自分自身に言い聞かせる。でも、背筋がぞくりと冷えていた。
「すいませんねえ。今日は特に『72番』の機嫌が悪くて」
所長は慣れた様子で、淡々と足を進めていた。とにかく今は歩くしかない。
深呼吸してあたりを見たら、血がついてない牢もある。ただ、どこの囚人も目が死んでた。ジジイも中年もみんな、雑巾みたいにぐったりしてる。全員、幽霊かゾンビみたいだった。何だこれ、お化け屋敷かよ。
ヤバい、動悸してきた。心臓がうるせえ。落ち着け自分、ゆっくーり歩くんだ、さあ。とりあえず俺は顔を上げた。できるだけ、血まみれの床は見ない。
後ろから、咳みたいな声がした。所長が足を止める。
「ん? どうしました?」
慎重に振り向くと、メガネがゲーゲー吐いていた。無理もない。所長の臭いだけでも、きつそうだったからな。
俺はただただ突っ立っていた。赤毛と金髪の二人組は、思いっきり顔引きつらせてる。白髪のじいさんは「チッ」と舌打ちをした。
けど、ヒゲづらのジャックは優しい。
「大丈夫か」
声をかけて、メガネの背中をさすってやってる。いい人だなあ。俺は純粋にそう思った。かなりヤバそうな職場だけど、こんな仲間がいれば心強い。根拠はないけど、何とかやってけそうな気がする。
所長もメガネのとこに来て、優しく励ましていた。
「よくあることです。気にしなさんな。ひと月もすりゃ慣れますよ。おーい誰か! 古新聞くれ!」
どこかの牢から、何か飛んでくる。俺は後ろ手で新聞をキャッチし、所長に持ってきてやった。
「ありがとう。えいしょ、これでよし」
所長はゲロに新聞をかぶせて、のんびりと体を起こした。地獄絵図でも、慣れたらリラックスできるらしい。「住めば都」ってことか?
「さ、立って。行きますよ。後で掃除するから、気にしないで」
所長が続ける。ヒゲづらジャックが、メガネに手を差し出した。
「ほら、つかまんな。肩貸すぞ」
でもメガネは、ジャックの手をつかまなかった。一人で立って、膝をパンパン払ってる。それから背筋をピンと伸ばして、スタスタ歩き出した。ハンカチをポケットにねじ込んで。今さっきへたり込んでたのが、嘘みたい。
「何だ? あいつ。感じ悪い」
ジャックが舌打ちする。かなりでかめの声だが、メガネは気にしてないっぽいな。
「はあーっ。根性のある方だ。けっこうけっこう」
所長が感心して、酒を飲む。よくこんな場所で飲む気になれるな! 俺は食欲も飲欲も、湧く気がしねー。アル中もここまでいくと尊敬するな。
しばらく歩くと、右の牢から声がした。
「所長さあん」
「何だね」
「死んでます」
囚人が、左側の牢を指さす。チラ見したら、人が首を吊っていた。しかも、顔を通路に向けて。
「ひいっ!」
思わず悲鳴が出た。職場で自殺現場見るとか、ありえねーよ普通! 所長の方は、相変わらず平気な顔してる。
「あー本当だ。まあ、今日中には片づけとくよ」
血、ゲロ、それから自殺も、この牢獄では普通らしい。ヤベえな、また動悸がしてきた。
「でも、他にはいなさそうだな。今日は一人だけ、か。よかったよかった」
所長が笑って、またボトルを開ける。いつもは二人以上死んでんのか? だいたい、度胸あるやつでもさあ、普通はもう少し落ち込むだろ。
あ、そういえば、ここは「普通」じゃなかったな。
「お、だいぶ近づきましたね。あそこが入口です」
所長が突き当たりのドアを指さす。ここも両開きか。一歩進んだ瞬間、向こうから扉が開いた。うわっ、まぶしい!
慌てて目を閉じる。ゆっくり開けると、車椅子に乗った男がいた。服は所長と全然違う。囚人か。
「シャットコールだ!」
「おかえりなさいませー!」
突然、牢屋じゅうがざわめく。さっきまで、みんな目が死んでたじゃないか。何だ急に?
「ご帰還だ!」
「懲罰房から、お戻りになられたぞおお!」
囚人たちの歓声は、バカみたいに丁寧だった。英雄か何かが、凱旋したみたいな騒ぎぶり。けど、こんな声も聞こえる。
「殺される!」
「助けてくれー!」
「死にたくない、死にたくないよおお!」
「神さまーっ!」
どっちかっていうと、悲鳴の方が強かった。ヤバい。何者なんだ、この車椅子は。
「静粛に」
後ろから看守が出て、扉を閉める。また、あたりが真っ暗になった。それでも囚人の声はやまない。
「少し、止まりますかね」
所長がぼやく。キィ、キィと音を立てて、車椅子が近づいた。
『まずい、逃げないと』
車椅子の顔を見たとき、俺は突然そう思った。理由はわからない。とにかく直感だった。逃げろ逃げろ逃げろ。体中が、腕や足に叫んでる。
「おはようございます、所長」
「おはよう、ご苦労さま」
所長と看守が、のんきに挨拶を交わした。そうしてる間にも、俺の体は叫び続ける。
早く早く早く、逃げろ!
でも、足がすくんで動けない。背骨が震えてるような気がした。ヤバい、おかしい。どうしよう。自分の体が、自分じゃないみたいだ。
車椅子はじわじわと、こっちに向かってくる。頼む、通りすぎてくれ! そう祈ったのに、突然俺の前で止まった。
「アア、イアオー、ウウウウウ」
車椅子は何かうなっている。え? さっぱりわかんない。何言ってんだ、こいつ。
「な、何?」
俺は思い切って口を開けた。背中を嫌な汗が伝う。早く、早く何か言え!
「オア、アウ」
突然車椅子が、俺を睨んだ。一秒? 一分? 一時間? ダメだ、時間がわからない。心臓がドコドコドコドコ、痛いほどにわめいている。喉が渇いて、まともに息もできなかった。
車椅子は、刺すように俺を見続けている。普通は視線を変えるもんだが、こいつの目は動かない。まばたきすらしなかった。
背骨と心臓を、わしづかみにされてる感じがする。ダメだ、全然身動きが取れない。立ってるだけで精一杯だ。誰か、誰か、助けてくれ。
「ウウ、アー、ウア」
泣きそうになったそのとき、車椅子が動き出した。よくわかんないけど、とりあえず気が済んだらしい。助かった!
後ろの看守も、静かに通りすぎていく。俺は安心して、ふと下を見た。気づいたら、ズボンの股がぬれている。いつの間にかちびってたらしい。
「死ぬかと、思ったあ」
思わず声も漏れる。突然体の力が抜けて、俺はその場に崩れ落ちた。ドスン、と床についた途端、一気にオシッコが溢れ出す。
股間のしみは広がって、あっという間に水たまりができた。ビショビショなはずなのに、何も感じない。脚の感覚が抜けていた。かなり溜まってたと思うけど、尿意もわかんなかったな。入ったときから、すでに出てたかもしれない。
俺はオシッコが止まるまで、ボーッと下を見続けていた。
「大丈夫か」
親切なヒゲづらジャックが、声をかけてくれる。
「ありがとう」
俺はゆっくり顔を上げた。自然とみんなの足が、目に入ってくる。
所長と白髪のじいさん以外は、四人ともズボンを汚していた。股間周りを湿らせたやつ、すその先まで濡らしたやつ。程度はまちまちだけど、みんなオシッコ漏らしてる。
俺だけじゃないみてーだな。いい大人が、そろいもそろってビビるなんて。本当、マジで覚悟しないと。
「さ、もうすぐですから、頑張って」
所長が言う。俺は重いズボンに手をついて、立ち上がった。