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私は隣の田中です  作者: 秋月 忍
小噺集
62/64

2月14日

如月視点。

かぐわしいダシの香り。

 トントンという包丁の音で、俺は目を覚ました。

 まだ日の出前だ。すぐに起き上がるには、かなり寒い。あるはずのぬくもりが隣にない。

 あれ? と思う。目覚ましが鳴るより、五分ほど早い時間だ。

 結婚してからずっと、出勤の日はパン食と、二人で決めていて、朝は主に俺が作っている。

 いっしょに出勤するとなると、女性の方が身支度に時間がかかるから、そのほうが効率的なのだ。

 もちろん、桔梗に家事をやらせることもあるのだけど。

「おはよう」

 起き上がって、台所に行くと、エプロン姿のマイがにっこりと笑いかけた。

 窓から差し込んでくる、優しい朝の光。旨そうな香りが漂う。

 ファンヒーターの火が燃えていて、部屋は既に暖かった。

 ジュワッと、フライパンが音をたてている。

「おはよう……どうした?」

 挨拶を返しながら、訊ねるとマイは日めくりカレンダーを指さした。

『二月十四日』

 日付を見てもピンとこない。

 バレンタインデーではある。

 しかし、マイが朝食を作っている理由にはならない。今日は二人とも出勤だし、二人の何かの記念日、というわけでもない。そもそも、マイは記念日というものに割と淡泊な方だ。

「見て!」

 マイは、鍋から取り出したと思われる、ダシガラを俺に見せる。

「煮干し?」

「うん」

 嬉しそうに頷くマイ。

 煮干しがどうかしたのだろうか?

「今日は、煮干し記念日なんだって」

 マイは微笑みながら、朝食の配膳を始めた。

「今年は仕事が忙しくて、チョコレートも市販品にしちゃったし。今日の夜も社食になりそうでしょ。せめて、朝食だけでも美味しいおダシをとって、きちんと作ったものを食べたいなと思って」

 テーブルの上には、ご飯と卵焼きとみそ汁。青菜のお浸しに納豆を添える。

 共働きで、ほぼ一緒にいつもいる。だから、マイがここ数日、疲れているのも知っている。

 だからこそ、この朝食に込められた、彼女の優しさが理解できた。

「ありがとう、いただくよ」

 俺は椅子に座り、手を合わせた。

 田中舞に出会った頃の俺は、いつも何かに飢えていた。

 力こそ、誰にも負けないほどに持っていたものの、心は折れそうなほどに弱かった。

 人に言えぬ職業。誇れぬ力。認めてもらえぬ努力。

 そんな鬱屈をためていた俺を、救ってくれたのは、田中舞の笑顔だった。

 人に言えなくても、直接はもらえなくても、俺はひとの笑顔を守っている。

 他人に誇ることはできないけれど、俺自身が誇ることはできる。

「美味しいな」

 みそ汁は、滋味深い味がした。派手さはないけれど、心に染みてくる旨さだ。

 マイと出会い、俺の人生は変わった。

 こんなふうに、優しさに満ちた朝があるなんて、俺は知ろうともしていなかった。

「煮干しダシ、美味しいよね、やっぱりダシが基本なのかも」

 クスリ、とマイが笑う。

「そうだな。マイみたいな味だな」

「……どういう意味?」

「毎日食べたい味ってこと」

「……馬鹿言ってると、遅刻するよ」

 マイが、ほんの少し、頬を赤らめる。

 その仕草がとても可愛らしくて。

 思わず身を乗り出して、俺は彼女にキスをした。


バレンタインデー変化球SSでした。

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