月島邸
予告のホラーテイストまでたどりつけませんでした。
寒い季節ではないにしろ、夜更けに玄関先でバカみたいに立っていたせいだろう。私は、翌日、高熱を出してぶっ倒れた。
二十七才にもなって、額にキスをされたくらいで、三十分近くも我を忘れる自分が情けないが、そんなことをされるとは夢にも考えたことはなかった。むしろ、夜に見る夢のほうが、よほど現実的なくらいだ。
――美形は一般常識が通用しないのかもしれないな。
如月としては、デートごっこの、ちょっとしたご褒美的な挨拶だったのだろう。
典型的な奥手の日本人である私は、あいさつでキスするような習慣はない。ただし。鈴木と田中、二人ぶんあわせても、恋愛経験は、ほぼ皆無の干物女の典型だから、自分がイコール世間一般の常識とは言えないけれど。
とりあえず、私は会社に電話を入れると、近所の医者に行った。インフルとかではなく、主原因は疲労であろうと診断され、薬を貰い、家に帰った。
ベッドに横になりながら、激動の六日間を振り返る。
木曜日に、鈴木麻衣と田中舞は同じ体に入り、金曜日は、初めて九字を切って……。
――疲れも出るよね、意味わからないことばっかりだし。
目が覚めたら、鈴木麻衣も田中舞も、元の生活に戻ったりしないかなあと、夢想する。ここ数日の出来事は、良くも悪くも非現実的だ。
如月悟と、はからずもデートのような体験をして、デコチューまでしてもらって。
――熱も出るわ……人生の頂点に達したといっても過言じゃないものね。
自嘲めいた笑いが浮かぶのを意識しながら……私は眠りに落ちた。
ご飯が炊ける甘いにおいで目が覚めた。
身体をおこすと、桔梗がうちの台所に立って、料理をしている。
「あ? マイちゃん、目が覚めた?」
桔梗は、いつもの和服に割烹着を羽織っている。まるで、若奥様のようだ。
「ごはん、作ってくれたの?」
「うん。もう少しで、できるからね」
桔梗は、そう言って微笑んだ。
「もう、本当にびっくりしたのよ? 昼に遊びにきたら、マイちゃん、高熱出して寝ているんだもの。一言、言ってくれればいいのに」
ぷうっと、桔梗は頬をふくらました。
「ごめん。だけど、私、壁越しに話せないし……わざわざ、如月さんに連絡することではないし……」
私が苦笑を浮かべてそう言うと、桔梗は眉間に皺を寄せた。
「マイちゃん、水臭いよ。医者に行ったのなら、うちの玄関の戸を叩くくらいできるじゃん」
「……桔梗だけが隣に住んでいるなら、そうしたかもね」
それに、桔梗はいつでも家にいる訳じゃない。いや、家にいたとしても、彼女が今の姿で話ができるとは限らないのだ……彼女は式神なのだから。
「まあ、マイちゃんが、スケベ男の悟さまを警戒するのは無理ないケド」
ふーっと桔梗はため息をつく。
「私、別に如月さんを警戒とかしてないよ? そもそも警戒なんてする必要ないと思うし」
慌てて、私はそう言った。
如月が私をどうこうしたいハズなどあるわけがない。あちらは主人公さまで、私はただの隣人なのだ。いつ、配役が変わったとしても、観客がそのことに気付くことはまずない……そういう立ち位置の人間なのだから。
「それはそれで……悟さまが気の毒というか、鈍すぎて問題だと思うけど……」
ブツブツと桔梗はそう言いながら、台所に戻っていき、器におかゆをよそってベッドまで持ってきてくれた。
「ありがとう」
私は、おかゆを口にする。コメの甘さが、口の中で広がった。
不意に、頬に涙が流れた。
「マイちゃん?」
桔梗が心配げに私の顔を覗きこむ。
「ごめん。あのね、誰かにおかゆを作ってもらうなんて、すごく久しぶりだったから……」
私は目を閉じて、おかゆの味を味わう。桔梗のおかゆは、レトルトのおかゆと違って、愛情が感じられた。
「私ね……田中舞は水害で、鈴木麻衣は火事で、家族を亡くしたの。結局、どちらも私だけが助かった」
「マイちゃん……」
桔梗は、私の手にそっと触れてくれた。相手は、人間じゃなくて式神だけど。桔梗が側に居てくれることが、とても嬉しく感じた。
「だからね、麻衣も舞も……ずっと、孤独だったの。鈴木麻衣が、この身体に入ったのは、私たちが二人とも孤独だったからかもしれない」
私は、自分の言葉に、得心する。二つの魂が入っているのに、違和感がないのは、鈴木麻衣も田中舞も寂しくて仕方なかったからかもしれない。
「マイちゃんは、一人じゃないよ。私も、悟さまも、ずっと側に居るから」
桔梗は優しくそういって、私の背をなでてくれた。
「ありがとう……素敵なお隣さんがいて、良かった」
私がそう言うと、「そうじゃないって。もう! 悟さまってば、何やっているのよ!」と、なぜか桔梗が憤慨していた。
結局。熱は、水曜の午後になってようやく下がった。
会社にその旨を電話したら、有給休暇の消費をかねて、今週いっぱい休めと上司に言われた。
休め、と言われると、会社に要らないと言われたような気がして、落ち着かない気分になったが、無理をして余計迷惑になってはいけないので、ありがたくお休みすることにした。
「マイちゃん、ちょっと、お着替えして」
桔梗がするりと壁抜けして、そう言った。
「今から、悟さまと、柳田さんが、マイちゃんのお見舞いにくるって」
「柳田さんも?」
それは、この前のムーンライトホテルがらみの件だろう。私は、慌ててパジャマを着替えた。
病み上がりなので、ゆったりしたTシャツ(もちろん、ブラジャーはしました! 反省は活かされています!)にロングスカートという、ラフなスタイル。跳ね上がった髪の毛を整えていたら、玄関のベルが鳴った。
「はーい」
慌てて、出迎えると、柳田は花束、如月はフルーツの籠もりを持って立っていた。
――私、病院に入院しているわけではないのだけどな。
見舞いの品に文句があるわけではないが、なんとなく、自分の価値観とのズレを感じてしまった。
「どうぞ、中へお入りください」
「これ、お見舞いね」
玄関から入るなり、柳田は私に花束をくれた。
可愛らしい花に気を取られた瞬間、柳田は、私の顎に手をかけて、私の額に自分の額をくっつけた。
ぎくり、と身を引こうとすると、「熱も下がったね」と、にこりと笑う。セクハラ的な行動も、美形がやると愛情や親しみの表現でおさまってしまうのが怖い。
「からかわないでください」
私は顔が真っ赤になるのを止めることもできず、そう言った。
「柳田!」
私に同情した如月が柳田を睨みつけたが、柳田はニヤリと笑っただけだった。
「こんな立派な花束とか、気を使っていただいてすみません」
私がそう言うと、「経費だから」と、柳田は答えた。
「経費って……国家予算ですよね?」
私が眉をしかめると、ニヤリと柳田は笑って、それ以上何も言わない。
――シークレットゾーンを追及するのはやめたほうが良いかも。
つい、そんな風に思ってしまった。
「それで?」
私は、折りたたみテーブルの上の桔梗が入れてくれたお茶に手を伸ばしながら、話が切り出されるのを待った。
「マイさんの話と関係あるかどうかはわからないが……月島家に勤めていた女中が二人ほど、行方不明になっている」
如月が、苦々しく口を開いた。
「捜索届等が出されていなくて、把握していなかったが、一人目はふた月ほど前、二人目はひと月ほど前に姿を消していることが分かった」
「……行方不明、ですか」
遺体が発見されたわけではないから、必ずしも『原作』と関連することとは限らない。
「さらに、気になるのはその二人は、月島家の離れの担当でね……子門の身の回りの世話を担当していたらしい」
柳田はふーっと息をついた。
「子門さんはそのことについてなんと?」
「詳しい話は聞けていない。何しろ、捜索届が出ていないから、警察も動けない。かといって、化け物も出ていないから、俺たちも流石に動くのが難しいのさ」
柳田はそう言って、首を振った。
「それで――私に子門さんのところへ行けと?」
「週末まで待ってもいい……君は病み上がりだし」
如月は私をいたわるように、そう口にする。
「何かあってからでは後悔します。子門さんのご都合が良ければ、明日にでも」
「本当に、大丈夫か?」
心配げな如月に私は微笑みながら頷く。
「如月は意外と血の気が多いから、俺のほうが本当は適任なのだがなあ」
私の同行者ということだろうか? 柳田が呟くようにそう言った。
「ダメですよ。子門さんはともかく……月島薫さんは、『如月さん』と私、というお考えでしょうから」
「ふうん。マイちゃんにはそう見えたの? なるほど。如月はモテるからな」
面白そうに柳田が言うと、如月は眉をよせ、そして、大きく息をついた。
「……それで、ひとりで帰るなんて言ったのか」
「どうした? 顔が怖いぞ」
柳田がそう言うと、如月はただ、首をすくめた。
ひょっとして的外れなことを言ったのだろうか。原作の先入観にとらわれすぎだったのだろうか。私には月島薫と如月がお互いに見つめあっていたように見えたのだけど……如月は少なくとも、そう思っていなかったらしい。
でも、あの時。彼女の射るような視線を感じたと思う。
「場合によっては、恋人設定、外してもらっても私は構わないですから」
私がそう言うと、「設定ね……」と柳田は苦笑し、如月は、私から不機嫌そうに顔をそむけた。
「本当に来ていただけるとは、思っていなかったので嬉しいです」
朗らかに、子門はそう言って迎えてくれた。
月島邸は、月山地区の郊外にあり、庭園はその辺の公園より広い。
案内されたのは、イングリッシュガーデン風の庭園の奥に建てられた離れだ。月島家が支援している画家である、山井と子門の二人のアトリエと住居になっているらしい。
原作では、亜門のアトリエの地下室で、亜門が死者から搾り取った血液で神女の絵を描こうとするのであるが……現実問題として、どうだろう。たとえ地下室があったとしても月島家の人間が知らない訳がない。
「仁さんたら、昨日、ご連絡をいただいてからとてもご機嫌なのよ」
子門の横に当たり前のように月島薫が立って、私たちを出迎える。今日は、カジュアルテイストではあるけれど、セクシーなキャミソールドレス。
リクルートスーツの親戚のような服を着た私とは、女子力の差がありすぎる。もともとの素材からして違うから、勝負を挑むこと自体、失礼だろうけど。
私の話をどう受け取ったのかしらないが、如月は、月島薫と目が合うと、私の腰をさっと引き寄せた。
如月にとってはどうってことのない行為なのだろうが、男性に免疫のない私は心臓が止まりそうになる。
「ねえ、せっかくいらしてくださったのだから、もう一度、モデルになっていただけないかしら?」
彼女は、ちらりと如月を一瞥すると、私に向かって微笑んだ。
「モデル、ですか?」
「実は、浴衣の女性のモデルを捜していたの。夏休みにフロントに飾る絵にしようと思って」
くすり、と月島薫は笑う。
「それなら……私より、薫さんのほうが適任では?」
「あら、でも、仁さんは、貴女を描きたいそうよ」
そんなバカな、と思いながらも子門の方を見ると「ぜひ」と、満面の笑みで頷かれる。
どうしようと思って、如月に目をやった。
「お時間はどれくらいかかるのですか?」
「一時間もあれば。大丈夫ですよ。僕だけじゃなく、山井という画家もいっしょに描きますから」
二人きりになったりはしませんよ、と、くすくすと子門は笑った。
「え? 子門さんだけじゃなくて、別の方も?」
驚く私に、子門は、「舞さんは、写真家に僕らが勝つことができる、そんなモデルさんですから」と、褒められているのかどうか、微妙なセリフを吐く。
「マイさん、やってみれば」
少し笑みを浮かべて、如月が頷いた。
なんだか、複雑だけど。でも、私の絵を描けば、山井というひとの霊力も測れるわけで。
――ようするに、霊力試験紙だな……
「お受けします」
私は、仕方なく頷いた。
馬子にも衣裳、とは言ったもので、用意された古典柄の浴衣を着ると、当社比1.5倍ほど女子力がアップしたように見えた。
私は、子門のアトリエに用意された椅子に腰を掛け、二人の男に凝視されながら、息苦しい時を過ごす。
二人の絵が佳境に乗り出すと、同じ部屋にいた如月が月島薫に誘われて出て行った。すると、二人の男がホッとしたような息を漏らした。
彼らの緊張が、如月によってもたらされていたのか、月島薫にもたらされていたのか、判断に苦しんでいると、子門がにこやかに笑った。
「舞さんは、嫉妬深い恋人をお持ちで、苦労しますね」
「はい?」
なんのことだかわからず、首を傾げる。
「彼、オレがあなたの胸元に目をやっただけで、睨みましたよ」
山井が面白そうに、そう言った。
「気のせいですよ」
「僕なんか、唇を描いているとき、視姦するなって感じで咳払いされたし」
「……そんなはずありません。お二人とも、意識しすぎですよ」
私と如月はそんな関係じゃない……と、正直には言えないけれど。
「そうかなあ、でも、オレ、彼の気持ちわかりますよ」
山井が面白そうに手を動かしながらそう言った。山井は、いかにも画家というようなベレー帽をかぶり、ギャグ漫画のキャラクターのような雰囲気の漂う男だ。
「あなたをみていると、あなたの美しさは、自分だけが知っていればいいって気分になってきますから」
「意味がわかりませんが」
私の当惑をよそに、子門が山井の言葉に共感する。
「舞さんは、とても雰囲気が良くて、心地いい。でもそれは、外見の美しさとは、ちょっと違う」
はあ、と頷く。たぶん褒め言葉なのだろうが、何度聞いても、素直に喜べない。
「例えば、月島のお嬢様は、見るからに美しいけれど……写真と、本人に美しさの違いはほとんどない」
子門は、そう言って立ち上がり、部屋の奥に布をかけられていた一枚の絵を見せてくれた。
「綺麗ですね」
それは、月の女神が、月光を背に弓を引く姿が描かれた絵だった。輝くばかりに、美しい女性。
間違いなく、月島薫の姿である。
「……素敵な絵だと思いますが」
私がそう言うと、子門は苦笑した。
「幻想的な題材だからそう思えるのです。ただの肖像画だとしたら……薫お嬢様の場合、スナップ写真に勝てません」
「薫さんは、本当にお美しいですものね」
私はため息をつく。
「でもね、画家には、美しさを引き出したいって衝動もある。そして、それは絵が写真に勝てる唯一無二のポイントだ」
子門はそう言って、月の女神の絵に布をかけた。そして、自分の座っていた場所からスケッチした絵を持ってきた。
山井も自分のスケッチを手に、私のところへやってくる。
「わ、私、こんなに美人じゃないですよ!」
子門の描いたスケッチは、まぎれもなく田中舞の姿なのに、とても魅力的な女性に見えた。
「うわー、仁にやられた。オレ、まだまだだなあ」
一緒に覗きこんだ山井が首を振る。
「山井は?」
子門に促されて、差し出された山井のスケッチは、これまた、間違いなく田中舞なのに、妙に色っぽく艶やかだ。
――これって、山井さんも、霊力アリってことよね? それとも画家さんのサービスってやつ?
「わ、私、こんなに色っぽくないです」
私がそう言うと、くすくすと子門が笑った。
「山井、おまえ、こんな絵描いたら、彼氏に睨まれて当然だ」
「しょうがない。オレの目にはこう見えるのだから」
山井はそう言って、首をすくめる。
「お二人とも、眼科に行かれた方がよろしいですよ」
本当は、霊力のイタズラで、例の補正がかかっているからなのだろうけども。
でも、こうして会話をしていると、二人とも、犯罪とかに手を染めるような暗さは全く感じない。
「そういえば、この家には女中さんがいらっしゃるって聞きましたが見かけませんね」
ちょっと強引かなあと思いながら、話を誘導する。
「ん? ああ、でも常に二、三人は詰めているはずだよ? 出入りは激しいけどね」
「そうなのですか? お給金、良さそうだけど、お仕事辛いのかしら?」
私、転職しちゃおうかな、と冗談めかして言うと、山井が首をすくめた。
「お嬢様が結構キビシイ方だからね。特に仁が絡むと」
「子門さんと、薫さんはそういうご関係ですか?」
私は、首を傾げてそう言うと。
「違いますよ……変なことを言うな、山井。旦那様に叱られる」
子門は辺りを見回すようなしぐさをして、首をすくめた。
すこしだけ約束の時間が余ったので、ゆかたでイングリッシュガーデンを歩き、画家二人に写真を撮られまくる。
本当はスケッチしたいらしいのだが、それだと時間がかかるという理由で、『私の魅力が伝わらない』写真を撮るということで妥協したらしい。伝わらない写真を撮ってどうするのか聞いたら、脳内修正をかけるとのことらしい。面倒な話である。
途中、大きないばらのむこうにあるガーデンテラスで、如月と月島薫が談笑しているのが見えた。
如月は気が付かなかったようだが、月島薫は私に気が付いて、ニコリと笑顔を向けた。なんとなく、勝ち誇ったような笑顔に見えたのは、たぶん私のひがみであろう。
子門は、私の視線の先に気が付いたらしく、私の肩をポンと叩いた。
彼自身の表情に嫉妬はない。そして私に「心配しなくても大丈夫ですよ」と囁いた。
――子門さんは、薫さんのことは何とも思っていないのかな。
直接聞いてしまえば、早いのだけど。さすがに、そこまで単刀直入に聞いてよいものかどうか迷う。
「そろそろ、着替えてきたらどうですか?」
山井に言われて時計を見ると、一時間が過ぎようとしていた。
「はい、では失礼します」
私は、先ほど着替えに使用した部屋へ向かった。
子門と山井の居住空間の真ん中にある、共同スペースにある、小さな和室だ。
私は浴衣を脱ぎ、自分のスーツに着替えると、ふと部屋を見回す。原作通りならば、こんな感じの部屋に地下への入り口があるはずだ。
――忍者屋敷じゃあるまいし。
自分の発想に苦笑しながら、私は、押し入れの襖を開けた。
空っぽの押入れに、なんとなく安堵したとき。
押し入れの下段の床板が、はめ込み式であることに気が付いた。
――まさか。
如月に連絡しなくては、と、携帯に手を伸ばす。
「あら、もう、お着替えはおすみでしたの?」
くすり、と、背後で女性の声がして。
振り返ろうとした瞬間、世界が暗転した。