11.エーリッヒ少将と暴走しない民族主義(Konteradmiral Kojima und ein Nationalismus ohne Entgleisung)
「ハンネローア。私の姓を知っているか?」
数日後、エーリッヒ少将から呼び出された。
「聞いたことがあるかも知れませんが、任務上、名で呼ぶように言われていましたので、覚えておりません」
「そうか。私はエーリッヒ・コスマン(Erich Kosmann)だ。今後は日本人名として、小島エーリッヒと名乗るつもりだ。そのために日本軍に戸籍の準備も進めてもらっている」
「は?日本人になられるおつもりですか?」
「そうだ」
「なぜでしょうか?」
「我々が、ここに到着する2ヶ月ほど前、我が祖国はノルマンディーで大敗北し、連合軍の上陸を許してしまった。そしてその1ヶ月後、フランス全土からの大規模な敗走が始まり、現在では連合軍がパリを解放したと聞いている」
「そんな馬鹿な!」
「同じ頃、ロリアンを攻撃したB-17よりも更に大きいアメリカの爆撃機が、日本を空襲し始めた。今後、日本も悲惨な運命を辿るだろうというのが私の読みだ。祖国はこの戦争に負け、ソ連と、アメリカを筆頭とする西側諸国とに分断されるだろう。おそらく、手を打たなければ、この日本も同じことになる」
「しかし、日本とソ連には『日ソ中立条約』が締結されていると聞いています」
「そうだ。だから、我々が日本の地で拠点を作り、後ろからソ連を抑え込む意図でもあるかのように考えられてはまずいのだよ。彼らはすぐにでも条約を破棄して日本へ攻め込んでくるはずだ」
「つまり、どうしろと?」
「我々は、日本軍部から技術協力要請を受けて派遣された技術者集団であると貫きとおすしかない。『思想教育部隊』の存在は隠し通さねばならない。だが、なくなるわけではない」
『思想教育部隊』と言っても、責任者である私は、エーリッヒ少将とできるだけ会話する機会を設け、その発言を書き留め、BDMメンバーと少将の言葉の意味について議論する程度の活動しかしていない。理解を深めることが、今の私の仕事だと指示されたからだ。
「日本軍部の中には、我々の存在を好ましく思っていない勢力もあると聞く。彼らはMe 262やMe 163を独自に作っているらしい。このことから分かるのは、我々の存在が日本軍部にとって危険だと見なされれば、ソ連が攻めてくる前に容易く排除方向へと傾く可能性もあるということだ」
「排除・・・ですか?」
「そうだ。だからこそ、技術者としての顔を徹底して守らねばならない。20年、30年後の小さな希望よりも50年後、100年後までの未来を守るために推進していくのだ。そのために、私は日本人になり、君たちも日本国籍を取得する必要がある」
「お言葉ですが、我が第三帝国は、まだ敗北してはいないのですよね?」
「ハンネローア。たしかに、今の状況は君の言うとおりでもある。しかし、近い将来は、私の予測どおりになるはずだ」
エーリッヒ少将の目が、私を見据えていた。一瞬もそらさず。それは信念を持った瞳だった。
「これからの私の仕事は、男性諸君の戸籍の捏造と日本人女性との結婚、君たちBDMメンバーについては、日本人男性との結婚か、戦災孤児としての養子縁組だ」
「エーリッヒ少将ご自身は、どうなさるおつもりですか?」
「言った通り、日本軍部に戸籍を捏造させ、日本女性と結婚でもするつもりだよ。小島としてね。どちらにしても、ソ連が攻めて来る前に、アメリカに日本を占領させなければ、我々は共産主義者にされてしまう」
エーリッヒ少将が、以前言っていたことの意味が分かった。
我が第三帝国技術者と日本人技術者家族との交流をはかれというのは、結婚相手を探し家族になれということだったのだ。私は、隠された意図があるはずだと深読みしてしまったが、親しく交流しアーリア人共同体として同化する、その言葉どおりだったわけだ。
「少将。仮に、祖国がアメリカの物量と、ソ連の広大な大地に飲み込まれようとしているとしても、我が第三帝国はまだ戦っているのではないですか?日本も新兵器を開発しています」
「ハンネローア。君が希望を持つことを否定はしない。だが、推奨もしない。日本人との同化は進めるべきだ。思想さえ残れば、それが我々の勝利になるのだよ」
私はエーリッヒ少将を初めてみた時、聡明であるがゆえに恐ろしさを感じた。私達よりも遙か先が見えていて、自分の目的のためならば総統すら利用するような人物に思えたからだ。今また同じような気分にさせられている。エーリッヒ少将は、まだ底を見せていない。
私に、彼を見極めることができるのだろうか。
9月中旬、秋桜を見てわずか1週間そこら、ゲルティが川野と結婚することが決まった。あの日の川野とゲルティの様子を見ていれば、すでに二人は約束しあった者同士であることくらい推測できたが、予想以上に早かった。
もはや、私の中でも、純粋なアーリア人と名誉アーリア人との区別はなくなった。当初の計画通り早婚に踏み切ったゲルティを素直に祝福すべきなのだろう。
結婚式は、川野の岡崎市の実家で極めて慎ましく行われ、ゲルティは目立たぬように金髪を黒く染め、和服を着たらしい。見てみたかったが、ぞろぞろと異国人が付き添う事は遠慮することになった。
その時からゲルティは、川野ゲルトルートになり、日本人になった。川野がEKMに常駐している関係から、ゲルティはEKMのトンネルを抜けた向こう側、鈴鹿の北の川沿いにある川野の祖父母の家で同居することになった。EKM関係者居住区よりほんの少し外側になるが、大した距離ではない。
しばらくは、ゲルティは川野と一緒に、そこからEKMへ出勤することになる。
日本人としてのゲルティがどんな暮らしをしているのか、覗いてみたかったが、残念ながら、私にはトンネルを抜ける用事がなかった。
でも、ゲルティから聞く日本人としての暮らしは、文化の違いを感じられて面白い。
食べ物のことや、布団のこと。靴を脱ぐ習慣や椅子に座らないこと。
「私は田舎育ちだからToiletteが水洗じゃなくてもいいのよ。なんだか軍隊式の形だけど、まあいいの。でも、驚いたのはお風呂よ」
ゲルティが言うには、シャワーがなく、湯船から手桶でお湯を体にかけ、湯船にも浸かるのが日常的らしい。それも毎日。
「すぐ慣れちゃったけどね。そっちの方が体も温まるし」
「へえ、服装はやっぱり和服なの?」
「モンペって知ってる?ゆったりとしてて裾を絞ったズボンみたいなやつ。それよ」
「乗馬ズボンみたいな?」
「まあ、そんな感じかな。これが、動きやすくていいのよ。不思議と日本人は嫌ってるんだけどね。野暮ったいらしいわ」
さすが、BDM選抜隊として、潜水艦の劣悪な環境で3ヶ月も鍛えられただけのことはある。ゲルティのたくましさも感じられて嬉しくなる。
9月下旬にゲルティは妊娠した。あのゲルティが母親になるなんて。
エーリッヒ少将の予測通り、日本の戦局もどんどん悪化し、嫌な噂が広がった。
10月下旬に爆装した複数の日本軍機が、アメリカの艦船に突っ込んだという噂だ。後にこの噂は本当であったことが分かり、神風特攻隊という名で呼ばれる命を犠牲にした組織的な攻撃であったことがわかった。
季節外れの桜が散った。
日本の秋は美しい。
ヨーロッパの秋よりもずっと色彩が豊かだ。山々が赤や黄色の紅葉に染められ、地味な服装の日本人たちはその景色の一部となる。このように自然と一体化した人々が戦争に巻き込まれている矛盾に私は戸惑ってしまう。
だが、もしこの美しい秋が、連合軍によって奪われるのだとしたら・・・、そう信じ込まされたとしたら、私も爆弾を抱えて空を飛ぶのかもしれない。
12月の初め、巨大な地震があった。アメリカの新型兵器による攻撃かと思い私達はパニックになったが、日本人たちはあきらめ顔でも落ち着いていた。彼らには自然災害と共存してきた長い歴史があったのだ。
しかし、この地震による被害は甚大で、鈴鹿のとなり四日市では多くの家屋が壊滅的な打撃を受け、太平洋沿岸では津波が発生し、名古屋の航空機製作工場も倒壊したとの情報が入ってきたが、被害の全貌は日本政府によって過小に報じられた。連合軍に対する情報工作のためだ。
幸い、EKMでは『小さな海』の水位が若干上がり、滑走路がひび割れた程度の被害で済んだが、アメリカ軍の偵察機から見つからないように、滑走路の修復は夜間作業とならざるを得ず、完全修復には期間を要した。
ゲルティのお腹が少しずつ目立ってくるようになった。
1945年3月12日の午前2時すぎ、空襲警報が鳴らされた。
それまでも執拗に行われていたアメリカ軍の空襲を、初めてこの目で見た。第三帝国と日本人技術者数人に、ロッテとグレーテを連れて東の山に登った。木々に隠れて空を見ると、細い弓状の月が出ていた。
すぐに爆音が響き、地上から探照灯が照射され始めた。白く照らされたアメリカの爆撃機が、名古屋の街の外側から円を描くように火の雨を降り注ぎ、徐々にその半径を狭めていった。普通の爆弾ではない。火災を発生させるために造られた焼夷弾だ。それを、住民の逃げ場を奪うために街の外側からばらまくのだ。
あっという間に名古屋の街が火に包まれ、その煙によって先ほどまで見えていた細い月が隠された。代わりに炎に照らされた煙に浮かぶアメリカの爆撃機の輪郭が見えるようになった。
「あれが、B-29なのね」ロッテが言う。エーリッヒ少将が言ったとおり、ロリアンを攻撃していたB-17よりもずっと大きい。そんなものが数えられないほど、名古屋の街の上空を飛んでいるのだ。
時々、B-29に向かって行く小さな機影が見える。日本軍の迎撃機だ。1機のB-29がエンジンから火を吹いたように見えたが、ちょっとぐらついただけですぐに火は消え、何事もなかったように飛んでいった。
「頑丈なのね」また、ロッテが言った。
「エンジンが4つあって、消火機能も整っている。エンジン1つやられたくらいじゃ落ちないよ」日本人技術者がロッテに答える。暗闇の中で分からなかったが、名古屋の火災に照らされたその顔をよく見ると松田だった。
「あんな頑丈な飛行機が、100機も200機もあって、どうやって戦ったらいいのかしら?」 圧倒的な物量と無慈悲な作戦の攻撃に、私も思わず呟いてしまう。
「強力な武装と上昇力を持った迎撃戦闘機を、彼らの倍以上投入するしかないですね」松田が言う。
「倍以上?」
「そう。倍以上です」
He 162、 Me 262、Me 163を400機も?すぐには到底無理だわ。口には出せないが、松田も同じ気持ちだったのではないだろうか。
「あんなふうに、秋桜が戦火に呑み込まれ、桜に変わるのね?」
ロッテとグレーテが、何を言ってるの?という様子で私を見たのが分かる。
松田は、私に一瞬顔を向け、今はまた、燃え上がる名古屋の街を見ている。言葉が見つからなかったのだろう。
翌日、私はエーリッヒ少将の執務室にいた。
「少将。私は昨日B-29の大編隊が名古屋を襲うのを見ました。あれには技術だけでは勝てません」
「そうだな。本気のアメリカには勝てない。自明の理だ」自席に座ったまま、少将はこともなげに答えた。
その態度に憤りを感じた。
「少将は、いつからそのようなお考えだったのでしょうか?」
「日本がアメリカに戦争をしかけた1941年からだよ。日本に続いてイタリアや我が第三帝国までもがアメリカに宣戦布告した。そうすべきではなかったのだがね」
「では、ロリアンで少将がおっしゃっていた、我が第三帝国と日本が戦後の秩序を掌握するという話は嘘だったのでしょうか?」
「結果的には、そういうことになるかな・・・。秩序など他の国に作ってもらえば良い」
そう言うと、少将は自席の引き出しからルガーP08を右手で掴むと隣室で作業をしていたグレーテを呼んだ。
「マルガレーテ。君が証人だ」
そして、ルガーP08を机の上に置いた。
私は射殺されるのだろうか?あの乾いたパンッという音とともに。
次にエーリッヒ少将は紙に何かを書き始めた。私は排除されるようなことを言ったかしら?何か適当な理由を書いて撃たれるのだろうか。理不尽な気持ちにはなっていたが、不思議と恐怖心はなかった。
日本人の死生観に影響を受けてしまったのだろうか。まだ、守りたいものはないけれど・・・。そういう運命だったと、潔く受け入れる覚悟はできているつもりだ。
「ハンネローア。私が正義ではないと感じたのならば、この拳銃で私を撃て!」
「え?」
そして、書かれた文字が私に見えるように、その紙を私の目の前にかざしながら続けた。
「ここに、戦局を悲観して自殺する、君に私を撃つように命令した、と書いた」
そう言うと、その命令書をルガーP08の横に置きサインをした。
突然呼び出されたグレーテは成り行きが分からず、オロオロしている。それは私も同じだ。エーリッヒ少将は何をしようとしているのか、何を告白しようとしているのか。
「我が祖国は民族主義を旗印に、戦争を隠れ蓑にしてホロコーストを行っている。その対象は主にユダヤ人だ。君はその行為に賛成するかね?」
「ホロコースト?」
「そうだ。数十万人あるいはそれ以上の、罪もなく敵でもない人々を虐殺している」
「我が、誇り高き第三帝国が?」
いつかと同じように、エーリッヒ少将の目が、私を見据えていた。一瞬もそらさず。それは信念を持った瞳だった。
「ギュンターを覚えているかな?」
「ロリアンで排除されたHJです。今のエーリッヒ少将と同じようなことを言っていました」
「そう。彼の姓はコスマン。私と同じだ」
「え?では?」
「いや、私の息子ではないよ。私は結婚したことすら無い」そう言うとエーリッヒ少将は、ちょっとだけコンクリートの天井を見上げて続けた。
「彼は、私の兄の息子だ。彼は本当のことを喋りすぎた。だから排除された。私は日本に着くまでは大人しくしていろ、と言い聞かせていたのだが・・・」
また、エーリッヒ少将が天井を見上げた。
「彼は若すぎ、私には、力が足りなかった。それだけのことだ」
「では、ロリアンでの、少将とギュンターの会話は?やはり、芝居だったのでしょうか?」
「芝居?そうとも言えるかな」
「あんなに模範的な回答が、滑らかに出てくるのは変だとは思っていました」
「変ではない。ギュンターは、あの時点で最も楽観的な希望を述べただけだ。ただ、そうはならないだろうとは考えていたよ。だから、彼とはこの日本の地で果たすべき計画があった・・・。だが、残念だ」
「ゲルハルト中佐は?」
「彼は根っからの軍人だったから、仲間にするには骨が折れただろうね。しかし、もういない」
「だとすると・・・。ギュンターとエーリッヒ少将は、ここでいったい何をしようとしていたのですか?」
「まだ、私の質問に答えてもらっていないよ。ハンネローア」
「いえ、しかし」私は、確証を持てないことには答えられない。
「まあ、いい。君に知っておいて欲しいことがある」そう言うとエーリッヒ少将はグレーテを見て言った。
「マルガレーテ。君はすべてを見届けておいてほしい」
そうして、エーリッヒ少将は話を続けた。
グレーテは相変わらず、オロオロとした様子だ。少しは状況が飲み込めたらしいが、どう対応すべきか混乱しているらしい。
「民族主義は、自己防衛的な文化的同質性の維持という意味では、あながち間違いとも言えない。なぜなら、人々に安心感を与えるからだ。安心感は平和的な生活の継続に寄与する。悪いことではない。そう思わないか?」
一瞬の沈黙があった。グレーテが鼻をすすりながら、私に懇願するような眼差しを向けているのが分かる。
泣いている?ああ、そういうこと?
グレーテは少将に恋をしていたのか。今、考える必要もないことが頭をよぎる。
「そう、思います」私には難しい問いだったが、反射的に答えてしまった。おそらく安心感や、平和的という言葉に反応しただけだ。
「だが、孤立した民族主義は、時に先鋭化し暴走する。やがて、他民族の廃絶につながり、戦争とは無関係に野蛮な虐殺の引き金ともなる」
「それが、我が第三帝国が行っているホロコーストだと?・・・証拠はあるのですか?」
「君にはユダヤの隣人が、突然いなくなった経験は無いか?彼らがどこに連れ去られ、どんな運命を迎えたのか考えたことはないのか?」
「私達の差別意識を気にしたユダヤ人が街から出ていった、という程度の認識しかありませんでした」
「君の若さではそうかもな」そう言うとエーリッヒ少将は自席の一番下の引き出しから紙の束を取り出し、私に渡してきた。
「これは、日独軍事同盟の結束力低下を目的とした連合軍のレポートだ。アメリカが日本の動揺を誘うために意図的に流したものだ。だが、内容に嘘はない。なぜなら、私やギュンターの推測とも一致しているからだ。まあ、読んでみたまえ」
そこには、ソ連赤軍のポーランドでの強制収容所の発見が報告されていた。
1944年7月にマイダネク強制収容所を解放し、そこにはガス室の設備と遺体償却用の火葬炉の発見が記されていた。
続いて1945年1月末、アウシュヴィッツ=ビルケナウを解放した際にも、より大規模なガス室と火葬炉が確認されたと述べられていた。
どちらも証拠隠滅の痕跡が見られたものの、隠しきれず残された大量の遺体や灰、衣服、ひどくやせ細った生存者の写真などがあわせて印刷されていた。
「本当だとすると・・・これが・・・」私は言葉に詰まる。「これがアーリア人のやることですか?」
「民族主義の暴走だよ」エーリッヒ少将が答える。
私は、ずっと誇りを感じながら生きてきた。優越なるアーリア人の誇りを持った私は、・・・でも、こんなことは望んでいなかった。
エーリッヒ少将は、そんな私の様子に構わず、一気に話そうとしているようだった。
「日本にも、皇国史観を核にした民族主義はある。周りを海で囲まれた島国特有の文化的同質性が生み出したと言えるものだ。しかし、第三帝国の民族主義とは、本質がまったく異なる。日本人も戦争で許されざる蛮行を犯している。だが、それは戦争に伴う残虐であって、戦争を隠れ蓑にした民族主義の暴走ではない」
つまり?私は頭の中を整理する。
「つまり、少将は第三帝国に見切りをつけ、ここ日本で新しい民族主義を作ろうとお考えだということでしょうか?」
「ハンネローア。君は本当に賢いね」
エーリッヒ少将が笑った。それは、決して私を下に見た笑い方ではなく、穏やかな微笑みのように見えた。その笑みと私の間の机の上では、よく手入れされたルガーP08が、青黒く光っていた。
「私は祖国に絶望している。しかし、第三帝国に見切りをつけたわけではないよ。これは、言葉の定義の問題だ」
「おっしゃっていることの意味が掴みかねますが」
「第三帝国とは、元来は『来たるべき理想の国家』という意味だ。付け加えるとアーリア人とは、もともとは白人種のことではなく『尊敬される人々』といった言葉から生まれた文化的同質性を示す概念だ。その点、日本人の考え方にも通じる。だが、我が祖国では、どちらも都合よく民族主義に利用され、暴走してしまった。その結果が君の見た報告書だよ」
「では、少将のお考えは?」
「真のアーリア人による暴走なき民族主義の理想国家を築くことだ」
「真のアーリア人?」
「そうだ。第三帝国の白人種アーリア人優越思想の否定。さらには日本の皇国史観をも否定する『尊敬される人々』による国家構築だ。そのためには祖国も、この日本も、一度白紙になる必要がある」
エーリッヒ少将は穏やかな顔で、私を見ていた。その眼差しは、軍人のものではなく夢想家のものだ。
「ハンネローア。私を裏切り者と見るか?」
グレーテが、涙をためた大きな瞳で、エーリッヒ少将と私を、交互に見ている。
「安全装置は解除しておいた。どうするかは君が決めるがいい」
そう言うと、少将はルガーP08をさらに私の方へ差し出してきた。
そして、グレーテの方を見た。
「マルガレーテ。なぜ泣いている。生も死も地続きなのだよ」
それから、もう一度私を見て静かに言った。
「すでに私は、小さいながらも水脈を開いた。あとは自然と流れていくだけだ」




