10.秋桜に隠された思い(Verborgene Botschaft im Herbstkosmos)
パンッ!
聞き覚えのある乾いた音が響いた。
その理由は、数日後に知ることが出来た。
U-234/IIが湖に浮上したところを、勝手に忍び込んだ老人が見たらしい。さらに、悪いことには、そのことを町で言いふらしたのだという。
老人は拘束され、ここに連れてこられて廃除された。
総統の計画を脅かす恐れのある者は、この日本の地でも同じ運命を辿ることになる。私達は、遠い異国にまで総統の威厳が届いていることを、誇りに思わねばならない。
私達の湖は海とつながっていて、水は塩辛く、浜辺や岩場に行くと、面白いほど貝やアワビやサザエと呼ばれる大きな巻き貝が採れた。
だから、私達はそこを「小さな海(Kleines Meer)」と呼んでいた。
東フリースラント出身のグレーテの故郷に、同じ名前の湖があるのだという。
海とつながっていることが、大きな理由であることには違いないが、誰もがホームシックをかかえている。少しでも、祖国に想いを馳せる事のできる何かが欲しいと考えるのは当然だろう。
それがたまたま、湖の呼び名になったというだけだ。
私達のU-234/IIは10日間ほど「小さな海」のブンカーで整備をしたあと、またロリアンへ戻っていった。だが、すぐに定時連絡が来なくなった。そういった場合は撃沈されたと考えるのが通例だという。
そして結局、U-234/Iも来なかった。伊号第二十九潜水艦が、ここにあるのだから、バリンタン海峡で撃沈されたのは、U-234/Iだったと考えるしか無い。
顔見知りのHJ達やゲルハルト中佐が、海の藻屑になったというのに、不思議と実感はなかった。ロリアンで、彼らの顔を見たのが3ヶ月以上前、シンガポール寄港時にも、ほぼ顔を合わせることがなかったのだから。
表向きは、伊号第二十九潜水艦が撃沈されたことにされ、U-234/Iの存在は隠されたままになった。
伊号第二十九潜水艦は非常用の脱出艦艇として「小さな海」に残された。
私達の知るU-234の影の艦(シャッテンボート、Schattenboote)は、2隻とも無くなった。だが、私達は総統直属『思想拠点計画』の先発隊だ。他にもSchattenbooteはあって、第二陣、第三陣と続いて到着するに違いない。
日本軍の協力もあり、私たちは小規模ながら居住地を確保できた。そのうち、後続部隊が到着すれば、もっと広げる必要がでてくるだろう。
だが、居住地の広さよりも、現状のメンバーと日本軍協力者を交えた組織体制の整備の方が最優先だ。
組織の当面の司令官は、エーリッヒ中佐が務めることになり、日本軍部との釣り合いを図るため、少将へ昇格した。
「ねえ、ハンナ。エーリッヒ少将って30代半ばくらい?」ゲルティが言う。私にはもう少し若く見えたけど。男性の年齢は見た目ではわからない。
「祖国に奥さんやお子さんはいらっしゃらないのかしら?いるんだとしたらお気の毒ね」
ゲルティは言葉とは裏腹に、そんなことは思ってなさそうな様子だ。それはそうだろう。私達だって、家族にろくな別れも告げることが出来ず、この日本に来たのだから・・・。
「総統の構想実現に向けた任務なのよ。ご家族には、お気の毒かもしれないけれど、ゲルハルト中佐もいなくなっちゃったし、たった一人の任務責任者だから・・・。ご本人は、誇らしく思ってるんじゃないかしら?」
いつのまにか、エーリッヒ少将は妻子持ちになってしまった。
「そうね。総統直属の指示だものね」
「そうよゲルティ。計画を粛々と遂行するしか無いのよ。私達もね」
そのためには、老人すら廃除する。大勢が海の底に沈んだとしても、そのことを深く考えてはいけない。
「でもね、知ってる?ハンナ。第三帝国の技術士官は当然だけど、日本陸海軍の将校も少将の指揮下に入るんだって」
「知ってるわよ。前例がないんじゃない?」
「そう。だから少将も大変みたいだわよ」
ゲルティの言ったとおり、実際、エーリッヒ少将はかなり苦労しているらしい。
秘書室で通訳担当のグレーテから聞いた話では、日本の陸海軍は仲が悪く、その対応に追われている様子だという。
と言って、苦労しているのと、楽しんでいるのとは別だ。どうやら、エーリッヒ少将は日本人と話をするのが楽しいらしい。見たことのないような笑顔で日本人と接している。
そのうえ、本人も日本語の勉強を熱心にしながら、髪を黒く染めて、まるで日本人になりきっているかのようだ。
さらには、日本人だけでなく、私達や第三帝国の技術者達とも、気軽に接するように心がけているようだ。お陰で少将の評判はかなり良く人気も高い。実は、人心掌握術にも優れた人物だったのだな、というのが私の感想だ。
そして、おそらくそれがエーリッヒ少将の組織運営手法なのだ。
組織は、思想浸透の目的を隠し、技術協力を強調して日本軍の理解を得つつ、施設の所在を秘匿する必要があった。
そのため、我が祖国の地名でもあり、私達が浮上した湖の俗称である『小さな海』を冠して『小さな海特命試験場』(Erprobungsstelle Kleines Meer)と命名された。もっとも、名称が長すぎると不評で、いつしか誰もが略してEKMか、単に特試と呼ぶようになった。
EKMでは、技術協力を支援する『技術・開発部隊』、第三帝国思想の浸透を狙った『思想教育部隊』の2つの付属組織を立ち上げることとなった。
後者は第三帝国、および第三帝国の思想に傾倒する一部の日本軍人のみが知る組織だ。
前者の『技術・開発部隊』は大所帯となる。伊号第二十九潜水艦とU-234/IIに乗ってやってきた我が第三帝国の技術者と、日本陸海軍から特命を帯びて派遣された技術者や技術将校、試作機操縦者40人ほどが、EKMに常駐する。
それだけでなく、その配下には日本の民間工場に支援委託して数百人が携わる。日本人技術や民間委託と言えども、極秘任務として周囲に詳細を明かす事は許されない。
ある日、エーリッヒ少将から呼び出された。
「ハイル・ヒトラー!」
私のヒトラー式敬礼に対し、エーリッヒ少将は軽く右手を上げただけだった。疲れているのか、緩んでいるのか、あの美しい敬礼が見れなかったことが残念だ。
「ハンネローア。堅苦しいのは抜きにしないか。我々は、誰もやったことのない任務を遂行しなければならない。当面の間はこの少人数でだ」
「はっ!」
「堅苦しいままだと、精神力が続かないぞ」
「はっ!」
それは、無理だ。私は根っからの生真面目なので、堅苦しくならざるを得ない。
「まあ、いい。君に特別な相談がある」
「なんでしょうか?」
「現状では、EKMの『思想教育部隊』はBDMメンバーで構成するしかない。そこで、その責任者を、君にやってもらいたい」
たかだか16歳のBDMメンバーが、組織の一翼を担い、その責任者が私?
さすがに躊躇してしまう。
「お言葉ですが、私には荷が重いのではないでしょうか?」
「君の総統への忠誠心は、実に見事だ。一方で、君は頑固な冷静さも持ち合わせている。つまり、盲目的に追従することのない信念のようなものを持っている。それは、私が思うに君の中にある正義の心だ。違うかな?」
これは誘導尋問だろうか?私は身構えてしまう。最初に堅苦しいのはやめようと言ったのも、私から不用意な発言を引き出そうとするための、策略なのではないのだろうか?
エーリッヒ少将は、そんな私の固さを見てとったらしい。穏やかそうな笑顔で話を続けた。
「褒め言葉だったのだが、逆に緊張させてしまったか・・・。悪かった」
そう言うと、エーリッヒ少将は、軍人の顔に戻った。
「では、ハンネローア。ここの責任者は私だ。私の指示は総統からの指示と考えて欲しい。先ほどの話を受けてくれるね?」
思いがけずエーリッヒ少将から評価されていたことを、名誉に感じる一方で、やはり自信などない。きっと、後続部隊が到着すれば、その任にふさわしい者が現れるだろう。その間の、つなぎの役割さえこなせばいいのだと思うことにした。
「はっ!」
「まずは、日本人技術者や軍人に徹底的に思想教育を行うこと」
目にゴミでも入ったのか、エーリッヒ中佐は何度も瞬きをしながらそう言うと続けた。
「我が第三帝国技術者と日本人技術者家族との交流を図ること」
今度は射抜くような瞳で私を見ると、少し間を置いてから言った。
「やり方や開始時期は任せる。ドイツ語勉強会でも文化交流会でも名目はなんでもよい」
「はっ!」
そうは言っても、EKMの活動としては、もっぱら『技術・開発部隊』が主流であり、私達BDMメンバーはその事務協力に携わる時間がほとんどであった。
「エーリッヒ少将。質問してもよろしいでしょうか?」
「構わないよ」
「そもそも、私達に協力している日本軍人は、第三帝国の思想を一定理解しています。そのうえ私は、日本へ来て日本の軍国主義教育と第三帝国の思想には、重なる部分が多いことに気づきました」
エーリッヒ少将は、なぜか満足そうに目を細めて、「早婚多産、民族共同体への献身、規律、指導者への忠誠、ほぼ同じと言って良い」と同意しながらも、「ただし、日本人に天皇への忠誠を捨て、総統への忠誠を誓えというのは無理な話だ」と、私が質問しようとしていることを先回りするかのように続けた。
「それに、反ユダヤ思想を一般の日本人に理解させるのも、相当な時間が必要だし、おそらく無理だ。日本はキリスト教国ではないのだから・・・」
「反ユダヤ思想とは、空気のような差別意識だと考えていましたが?」
私の言葉を聞いたエーリッヒ少将の表情が、いつかのギュンターの表情と重なった。
だが、エーリッヒ少将は私の疑問には答えず、「アーリア人優越思想を、日本人に植え付け、我らと共に世界を導く民族であるという使命感を根付かせるにも、同じように難しいだろうな」
「どうしてでしょうか?名誉アーリア人という扱いは、日本人にとっても誇らしいことなのではないでしょうか?」
「日本には皇国史観という”選ばれた民族”、”特別な使命”という点で、アーリア人優越思想と非常に似通った考えがある。これは神話上の文化的優越性が起源だ。しかも、天皇の存在と密接に関わっている。さっき言ったとおり、日本人に天皇への忠誠を捨てさせるのは無理な話だ」
そう言いながら、エーリッヒ少将は私を見据え、反応を探るような視線を向けている。
「しかも、時間をかけられるほど悠長な戦局でもない」
エーリッヒ少将は何が言いたいの?否定的な話ばかりをして、結局、何を徹底的に行えというのだろう。言葉とは裏腹に、思想教育は行わなくて良いと言っているようにも聞こえてしまう。そのうえ、我が第三帝国技術者と、日本人技術者家族との交流ってなに?
エーリッヒ少将らしからぬ論理の欠如に、真意がまったく掴めない。
私は、今何かを試されているのではないだろうか?
「まずは現状認識だよ。ハンネローア。そのうえで、できることをゆっくり決めればいい」
「はっ!」
「だが、たとえ悠長な戦局ではなくても、『真のアーリア人』たる思想理解は君の中で進めておいてほしい」
「Jawohl(命令に従います)。エーリッヒ少将。質問したいことには、ほとんど回答いただきました。ですが、最後にもう一つ」
「日本人技術者家族との交流のことかね?」
「はい。思想教育でも無く交流とは、いったいどのようなことでしょうか?」
「言葉通りだよ。親しく交流し、『真のアーリア人』共同体として同化することだ」
小さな海のブンカーのすぐ脇、北側には平坦な場所があり、すでにコンクリート製の飛行場が作られていた。滑走路は迷彩柄で偽装されていた。
飛行場の周辺には複数の掩体壕があるが、上手に隠蔽されていて地上からでも、よく見ないと分からないほど徹底して隠されている。
その飛行場の奥は崖になっていて、私達が到着した頃にはすでに巨大な空洞が作られ、一種の航空機組立作業場のようになっていた。
さらに作業場の奥には、3階建てに相当する作戦区画や居住区があり、その東側には大型の軍用大型車が通れるほどの、作業場と直接つながったトンネルが掘られていた。驚くべき巨大な地下施設だ。
トンネルを抜けた向こう側には日本技術者の居住地があり、通常の民間人はまったく近づけないようになっていた。その一体すべてが軍用地であったかららしい。
EKMは、遠目に見ればただの湖にすぎないが、隠された扉をくぐるとその規模に圧倒される。
「穴蔵での生活だけど、潜水艦よりはずっとマシね」ゲルティが言う。
「穴蔵は言い過ぎじゃない?ひんやりしていて、暑くなくていいわ。ちゃんとした個室になってるしね」
「そうね。とにかく、シャワーがいつでも使えるのはありがたいわね。換気口もある。周囲がコンクリートなのは味気ないけど・・・。今のところ外に出るのは自由だしね」
ゲルティも私も、生活環境が改善されたのにはホッとしていた。潜水艦内が劣悪すぎた。試作機のエンジン音が響き始めると少々うるさいが、爆雷の音に比べれば許容範囲だ。
一緒にいたグレーテが言う。
「そのうち、居住区は全室、床を板張りにして、竹をコンクリートの内壁に張り巡らせるらしいわよ」
『小さな海』の名付け親である彼女の名前は、マルガレーテなのだが、例によってだれもがグレーテと呼んでいた。
「竹は、湿気避けみたいだけど、異国って感じがして案外素敵なのよ」私の部屋はすでに改装が終わっていた。送風機をつけるとちょうどいい湿度になって、少しヨーロッパの空気を思い出す。ちょっと寒いくらいだけど。「ねえ、グレーテ、ここにはエレベータもあるし、よくこれだけの設備を整えられたと思わない?」
私は、グレーテに質問してみた。エーリッヒ少将の秘書兼通訳を務めているからには、当然いろいろな情報も入っていると思ったからだ。
「1939年から第三帝国と日本陸海軍の間で計画が進められていたらしいわよ。それだけの期間があれば設備も整えられたんじゃない?」
「そんな前から?」私は驚いてグレーテに聞き返した。
「そうみたい。Me 163の原型機が1939年に初飛行に成功して、それに日本が目をつけたってことのようよ」グレーテが続ける。
私にはよくわからない話だ。
「ハンナ。私ね。Me 163Sで、Kawanoに操縦を教えてもらっているの」ゲルティがMe 163と聞いて、思い出したように言う。
「知ってるわ。でも、Kawano本人の練習の付き添いでしょ?」
Kawanoは、私達よりも8つほど年上の日本海軍航空隊士官操縦者だった。職位は中尉で、今はMe 163の完成を待ちながら操縦訓練をしている。Me 163Sは、形はMe 163とほぼ同じだがエンジンのない機体で、メッサーシュミット Bf110に曳行されて離陸する2座式の滑空訓練専用機(Schulung)のことだ。
「そうなんだけどね」
「そもそも、あなたの持ち場って通信室でしょ?忙しいんじゃないの?」
「二人体制だから、時間の融通は効くのよ」
「ゲルティ。どうであろうと、私達がMe 163に乗ることなんてなくってよ。軍人じゃないもの」
「あら、ハンナ、そうかしら?私達って、すでに軍に取り込まれてるのと同じよ。Me 163も、じきに完成するわ。そうすると、誰かが乗ることになるんじゃない?」
「日本軍航空隊が乗るのよ」
「ねえ、ハンナ。ハンナ・ライチュ(Hanna Reitsch)を知ってるでしょう?Me 163コメート(Komet)のテストパイロットで第三帝国一級鉄十字章の有名人」
「あら、いやだ。名前が似ているだけで、私とは関係ないわ。ゲルティにはもっと関係ないわよ」
「女性でも、テストパイロットとして活躍出来るってことが言いたいのよ」
「本当にそう思ってる?そもそも、訓練にあなたが混じってるの、あんまり歓迎されてないみたいよ」
「Kawanoからも、危険だからやめろとは言われているわね。着陸の衝撃がすごいの」
「もう、ゲルティったら。どちらにしても空戦までできる技量なんて身につかないわよ。たかが、1ヶ月程度練習しただけでは無理よ。しかも、Me 163は燃料が危険なのよ。ホンモノには近づかないでね」
私の持ち場は、試作機製作工廠と管制室と司令部が一体化した作業場兼中央司令室だったから、Me 163の危険性を嫌というほど聞かされている。祖国では燃料の扱いの難しさから大怪我をしたり、爆発したりといった事故が頻発しているらしい。実機だけでなく、それはエンジンテストでも同じだ。
「知ってるわ」ゲルティは何でも無いような顔をして答える。
「ゲルティ、あなたって?」
「なに?」
「ハンナ・ライチュの話なんて持ち出したけど、本当のところは、Kawanoと一緒にいたいだけでしょう?恋してるの?ダメよ。彼はアーリア人ではないわ」
「でも、総統は日本人を名誉アーリア人として特例扱いしてるわよ」
「そんなの方便よ」と言ったあとで、しまったと思った。総統の意思を否定した形になったからだ。ゲルティはそれに気づきながらも、特に私を咎めもせず「方便でもいいわ。HJみたいなギラギラした感じは嫌いだったの。それが、Kawanoにはないし」
ゲルティの言葉を引き取るようにグレーテも言った。
「相手が名誉アーリア人である日本人なら、総統の後ろ盾もあるわ。恋愛対象にしても結婚しても、なんの問題もないのではなくて?」
私達は、早婚多産によってアーリア民族を増やし、日本への思想浸透を目的として選ばれ、連れて来られた。第2陣がいつ到着するのか、まったく見通せない状況ではグレーテの言う事は正しい。
今になって、エーリッヒ少将が『真のアーリア人』という表現を使っていたことに、小さな引っかかりを覚えた。その言葉が出たのは、つい先日『思想教育部隊』の責任者に私を任命したときのことだ。いくら名誉アーリア人とは言え、私達と血が混ざってしまえば、純粋なアーリア人は残らなくなる。『真のアーリア人』から遠のいてしまうのでは?
「ありがとう、グレーテ。でも、そこが問題じゃないの。今の問題は、Kawanoが何を考えているのか分からないってことなの」ゲルティがポツリと言った。
私もグレーテも、ゲルティの言葉に笑ってしまった。
「恋にも文化の違いがあるのね」グレーテが言う。
「日本人は雰囲気で察してくれって態度じゃない?照れ屋なのかもしれないけど、私には理解するのが難しいわ」ゲルティが答える。
「だったら、もっと言葉にしてって、言ってみたらどう?」
私は、笑いながらゲルティに言った。
9月の初め、ゲルティから「Kawanoが滑走路の端に小さな花壇を作ったから見に行こう」と誘われた。行ってみると、空き地に花を植えただけの粗末なものだったが、私はその可憐さにひと目で心を奪われた。淡い紅色が群れ咲き、白やオレンジの花も混じっている。すべて同じ種類の花のように見えた。
そこには川野と、海軍技術士官の松田中尉がいて、幼馴染だという二人が花の手入れをしていた。戦時下には似つかわしくない光景だった。花を植えることは贅沢として抑圧されていると聞いたこともある。だが、ここは日本であって日本ではなく、祖国でもない。特別な場所なのだとすぐに思い当たった。
男女がこうして一緒にいても、奨励されこそすれ、誰も咎めない。任務を踏まえれば当然だ。早く相手を見つけ、結婚し、子を産むこと。それがアーリア人から名誉アーリア人へと相手が変わっただけのことだ。
「この花が、桜なの?」
私は誰に聞くわけでもなく口にした。
「これは桜ではなく、あきざくら(秋桜)と言うんだ。メキシコが原産ですよ」
川野が答えた。桜に似た花の形、秋に咲くことからそう呼ばれるのだという。
ゲルティが「桜って、さくらんぼの木のこと?」と尋ねると、川野は穏やかに説明した。日本の桜は花を楽しむために改良され、実はほとんどつかない。その代わりに木を覆うほどの花が春に咲くのだと。
「変なやつだろ?試作機操縦者になるほどの功績をあげているのに、花が好きなんてさ」松田が初めて口を開いた。これまでも何度か顔を見たことはあったが、話しているのを見るのは初めてかもしれない。
「功績か・・・」川野がポツリと言った。
「なにか気に障ったか?」松田が意外そうな顔で川野に尋ねる。
「敵機を撃墜するのは操縦技量の勝負だ。だから空中戦をやっているという感覚はあっても、人を殺しているという実感がないんだ。だが、本当のところは敵国操縦者との殺し合いだ」
それが戦争なんじゃないのかしら。私はそう思ったが、川野の真剣な表情の前では口に出せなかった。私だって、U-234/IIの撃沈がはっきりしても、大勢の死を実感できなかったのだから。
「熟練した戦闘機乗りにとっての空中戦とは、敵と一瞬の技量を競い合う競技なんだよ。俺はそんな感覚で人を殺している。それが功績といえるだろうか・・・」
「だが、撃墜しなければ、お前が殺されるんだぞ」松田が言った。
「そうだな。技量で負ければ散ることになる」
そう答えると川野は、こちらを向かないまま、私達に言った。
「日本の桜を、まだ君たちは見たことがないだろう?あっという間に満開になり、あっという間に散る。俺たちの命のようだ」 川野がどんな顔をしながら、そう言ったのかは分からなかったが、即座に「花に人生を重ねるなんておかしいわ」と、ゲルティが川野に反発した。
「そうかな。死と隣り合わせになった時、潔さを求めるのはおかしな事ではないと思うけどね。桜のように美しく咲き誇り、潔く散る。それが日本軍人の生死一体の美意識でもある」
川野がゲルティに穏やかに答える。死と向き合う静かな決意が、その声には秘められていたようにも思えた。
ゲルティは首を振った。「Kawano。私は桜を見たことはないけど、私達にはそういった美学はないの。死ぬために咲くのはダメよ。祖国では花は死を美化する道具ではないわ」
すると、松田が代わりに言った。
「だから、ここに秋桜を植えたんですよ」
日本人は不思議だ。
合理性を重んじる私達には、死を美しく語ることは恐ろしいことだ。
しかし、彼らは、特定の花に、人が生きて死ぬことの意味を重ね、それだけでなく、死の瞬間にすら美しさを感じ取れるらしい。それは、まるで桜という花に取り憑かれでもしたかのようだ。これが異文化との邂逅というものだろうか。
でも、どこか私の心に響くものがあったのも事実だ。
「私はハンネローア。みんなハンナと呼んでいます」
「知ってるよ。ハンナ。僕は松田。海軍の技術士官で、君たちの技術を勉強させてもらっています」
「Matsuda。あなたが、桜ではなくあきざくらを植えた理由を聞かせてもらってもいいかしら」
「秋桜は桜に似ているけれど、ぱっと華やかに散ることはないんだ。花びらが一枚ずつ気づいたら落ちている。そんな感じです。民間の間では白い秋桜が人気です。儚く純粋に見えるからでしょうね。ここも本当は、全部白い秋桜にしたかったんですが、あいにく苗が足りなくてね」
「ごめんなさい。言おうとしていることの意味がよくわからないわ」
言い方に回りくどさを感じ、自然に言葉が出てしまった。この時までは、それが日本人特有の表現方法なのだろうと考えていた。
「桜の象徴するものが、一瞬の命の輝きだとすれば、秋桜は日常の象徴です。桜に似ていながら国家的宣伝に利用されることもなく、庶民の庭に咲き、声に出せない感情を隠している」 松田のその声に重なるように、秋桜の花びらがひとつ、静かに地面に落ちた。
松田の言葉を引き取って、 川野が続ける。
「俺たち軍人は、桜のように、一瞬を生きて潔く死ぬことこそが美しさだと受け入れている。だが、軍人でない人々まで桜である必要はない。彼らには語れない思いや、華やかさとは無縁の静かな別れを望む気持ちがあってもいい。君たちにもだ」
言葉の間に、作業場で調整中だったHe 162試作機の甲高い笛のようなエンジン音が響いた。そろそろ戻らなければ。
川野の言葉を受けて、ゲルティはよく理解できないというように首を傾げていた。
その様子を見て、 川野は少しだけ間をおいて、静かに言った。
「今の俺たちにとって、死ぬことと生きることは同じなんだ。愛するものや国を守るためならね。そして、状況によっては、秋桜ですら桜のように散ることを強要されてしまう。軍人の垣根を越えて・・・。そこに矛盾を感じてはいけない。ただ、時代が求める美意識があるのみ・・・」
秋桜が風に揺れていた。祖国では見たことのない可憐で美しい花。
「だから、自ら散るんだ。そうならないように」
いつか、なにものにも染められていない白い秋桜で、ここをいっぱいにしたいという気持ちが芽生えてきた。
ひとときの自由時間の終わりが近づき、ゲルティとそれぞれの持ち場である中央司令室と通信室へ戻ることにする。
歩きながら「あの二人の話って、謎掛けみたいだったわね」ゲルティはそう言ったが、彼らの真意は理解できている顔をしていた。
「そうね・・」
日常、つまり平和への望みすら、死の美学に染められてしまうという悲しみ。
生と死を同じものとして受け入れなければならない覚悟と痛み。
これは、彼らが軍人である限り、決して口には出せない言葉だ。
だから、その語られない言葉を秋桜に託し、私たちに伝えようとしたのではないか。戦争は桜だけでなく、秋桜すら呑み込む運命を、私たちに示そうとしたのではないか。
少し前までの私なら、それを厭戦思想として告発すべきだと考えただろう。
だが私は、心惹かれ始めていた。
命の尊厳は、長く咲くことではなく、潔く散ることで結実する。その抗えない覚悟を、美しいとさえ思い始めていた。
同時に、胸に刻まれるような響きがあった。私たちを戦争に呑み込ませまいとする無言の決意。それは、彼らなりの遺言なのだとも思えた。
「ゲルティ。Kawanoは、自分が命をかけるときは、あなたのために美しく散りたいって言いたかったんじゃないの?」
「どういうこと?」
「あなたを守るために死ぬのなら悔いはないということよ」
「そうね。そんなふうに聞こえたから悲しいのよ」
「でもね。そうでも考えてなきゃ戦争なんてやってられないわよ。無意味に死にたくはないもの」
「じゃあ、Matsudaはハンナのためなのね」
「私?」
再び、He 162試作機のエンジン音が響いた。
He 162は、祖国では「フォルクスイェーガー(Volksjäger:国民戦闘機)」と呼ばれることになる小型ジェット戦闘機だ。祖国を出港した当時は、まだ構想段階にすぎず、計画として採用されるか定かではなかったらしい。けれど、設計図だけはすでに整っていて、EKMでは独自に開発を進めていた。もし祖国よりも先に完成させることができれば、EKMの技術力の高さと存在意義を、一枚岩とは言えない日本軍部に強く印象づけることができる。
彼ら技術者は、長く咲き続けるための道具を造っている。
今は、心の底からそう信じたい。




