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雲の声  作者: 坂本梧朗
2/3

その2

 雲の流れはかなり速い。一様に同じ方向に動いている。しかし、乱気流でも起きているのか、一つの雲の尾端に進行方向とは逆の、裏側にまきこむような動きが起きている。だがいくら巻き込まれても雲の形が変らないのが不思議だ。その巻き込みに吸い寄せられるように、これも全体の動きに逆らって、竜の頭のような形の霧状の雲が近づいていく。

 もう少し早くここを思いつけばよかった。もっと早くこの雰囲気の中に入るべきだった。そうすれば無益に頭を痛める時間を短縮できたのだ。もう日暮れも近い。雲を見られる時間も残り少ない。アパートで費やした時間をO氏は悔いた。

 しかし日没間近い空の景観もまた興味深いものだった。フロントガラスの枠の中で刻々と変化する空の様態の面白さを、ブラウン管の映像の味気なさと対比してO氏は眺めた。

 こいつら、こうやって流れているだけなんだな。悩むことも、怒ることも、恐れることもない。それでいいんだな。それで何千万年も、何億年も過ごしてきたのだ――。O氏は流れる雲をじっと眺めた。黒い雲が夕陽を浴びて、周縁を黄色に染めている。ちぎれたような薄い雲が、尾端に小さな渦巻をつくりながら流れていく。その渦のゆるやかな動きを見ていると、O氏は気が遠くなるような幻惑を感じた。ただ流れているだけで何千万年も何億年も存在を続けられるということが不思議だった。 

 風がある。時折激しく車体に吹きつける。車が一瞬揺れる。前に生い茂っている草がそよぐ。夏草茂るというやつで、ボンネットの上二十センチくらいの高さまで伸びている。おかげで下界はまるで見えない。見えない方がいいのだ、牢獄の集りなど、とO氏は思った。

 後ろを仰ぐと山が黒くそびえている。台地の後ろにはその三倍ほどの高さの山が控えているのだ。台地はその山の腹に突き出した瘤とも言えた。山の黒い稜線がジグザグに空を区切っている。稜線を包む空は暗い。フロントガラスの前に広がる空とはまるで違う雰囲気だ。今にも雷鳴が轟き、雨が降り出しそうに見える。暗雲が漂う山頂にはドラキュラの城でもありそうな気がする。夜半から雨になるという天気予報をO氏は思い出した。

 右に五メートルほど離れて停まっている車からカーラジオの音が流れてくる。O氏の車には冷房がない。両側のウインドを開けているので風に乗って聞こえてくるのだ。牢獄の住人がそこにも居ると思って、O氏は関心を持たなかった。と言うより意識して無視した。囚人に関心を持ったところで何になるのだ。下手に刺激すれば牙をむいて襲いかかってくるかも知れない。しかし女の声がした。

「ほら、あの向こうの山ね……」

 O氏の位置からは見えないが、背もたれを倒して横になっている男を起しているのだろう。ここに上ってくる車はアベックが多かった。女の声で横の車の存在が意識に上った。どんなカップルだろうという興味が起きかけたが、やはり囚人に関心を持っても仕様がないという思いがO氏を制した。人間に関わることは所詮苦痛を増すことなのだ。O氏は空を見あげた。

 右手の空は金色に染まっている。まるで黄金の海だ。その中に黒い雲が小島のように点在している。濃絵の世界だ――O氏は大きく息をした。

 その間にも車が何台か上がってきた。人々はやはり牢獄からの解放を求めているのだ。ここには人々に必要な何かがあるのだ。ここに来た自分の選択は正しかったと思うとO氏は充足した。O氏は眠くなった。アパートの部屋では味わえなかった感覚だった。その感覚に身を預けるように、O氏はシートの背もたれを後ろに倒した。

 O氏は眠りに落ちた。


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