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雲の声  作者: 坂本梧朗
1/3

その一

 ……破滅が近づいている。今手をうっておかなければ、この休みが終ると破滅へ向って飛びこんでいくことになる。担当しているN商事の庶務係の顔が浮かぶ。注文の確認をしていなかった。休み明けで間に合うか。やはり早い方が無難か。 S会社には新製品のカタログを持っていくのを忘れている。 K建設は他社の機材を購入すると言ってきた。R 社も商品のメンテナンスについて文句を言っている。小手先の問題ではない。自分には取引先を納得させる力が根本的にないのだ。人を説得できるだけの人間的な力がないのだ。営業マンとしては失格なのだ。……会社も会社だ。新人社員の俺に、何で大事な得意先を朿にして割り当てるのだ。できるわけがないんだ。……。                                                   ……あいつだ。あいつをどうすればいい。このまま対立を続けるのか。あまり得策とは思えない。回避するか。相手にせず、やり過ごす。それが波風が立たす一番いい。 しかし腹が立つ。この春同期で入社したとしても、俺の方が年上で、しかも同じ学校を出た先輩なのだ。礼儀を知らない奴だ。だが対立を続けていけばいつか衝突するだろう。そうすれはどららかが職場を去らねばならなくなる。あるいは共倒れだ。ここはぐっと我慢して相手にしないというのが大人というものか。それにしても新生活のスタートからあんな奴と同じ課になり、 毎日顔を合せねばならないとは何という巡り合せだ。


 横になって目を閉じても、本を読んでも 浮かんでくる様々な思いに追われてO氏の心は落着かなかった。せxっかく取った盆休みなのに全くくつろげない。自分というもの、そして自分の選んだ道についてまるで自信が持てなかった。

 部屋は牢獄のようだった。外に出て酒でも飲もうかと思う。しかし妻への顧慮があった。また金を費消することがためらわれた。焼島屋ならともかく、キャバレーで費消(つか)ってしまえば、妻との面突は避けられない。しかし皮肉なことに、こんな時O氏を誘う衝動はきまってキャバレーなのだ。 妻は親戚の法事の手伝いで朝から実家に帰っていた。O氏は一人だった。孤独で、しかも動きのとれないO氏は、平衡を夫いかける自分の心と苦しい対面を続けるほかはなかった。

 タ万になった。何とかして一冊の本を読み終えた。しかし気持か集中できないので半分も頭に人らなかった。半月ほど熟 睡できない日々が続いていた.そのため眠気が常にあった。本を読んでいると眠くなる。いつの間にか目を閉じてうとうとしている。はっと気づく。目を見張る。しかし五分もするとまた同じことをくり返している。そのうち眠るまいとする緊張で頭の中がキリリと痛み出した。しばらく寝ようと本を傍らに置く。このまま気持よく眠れればいいという思いが頭の片隅で動く。だが目を閉じると眠れなかった。頭が回転を始めるのだ。

 テレビにも惓んでいた。何度かスイッチを人れ、切った。こんなその場限りの、いい加減な作りものに、何で自分の時間を捧げなければならないのだ。そんな妙に理屈っぽい思いがO氏をテレビの前に安住させない。

 O氏は会社が指定している商品販売に関する学習書を手に取った。しかしうんざりした。学習書を読むことにも、ノルマを果たすように次々と何かをしていなければ落着けない自分にも。

 どこでもいい。とにかく外に出よう。 外の空気を吸って気分を変えよう。O氏の心には昼間見上げた空が浮かんでいた。缶ジュースを買いに出た時、ふと見上げた空の青さ。 高さ。 そして雲の白さ。夏なのだ。泳ぎに行きたい。浜辺に寝そべってあの雲を挑めたい。瞬問そう思った。思うだけで憂うつな気分が少し晴れた。そのことが、心に残っていた。

 雲を見に行こうーーO氏はそう思った。

 O氏は車を発車させた。どこか人がいない閑静な所。寝ころがって空を眺めることができる所。O氏の車は自然と山の方へ向っていた。車が山 の坂道を登り始めた時、0氏は久しぶりに小山の山頂を削りとった台地に行くことを思いついた。                                        

 そこはO氏がホテルに勤めていた頃よく行った場所だった。勤務を終えて、気が向くと、O氏はしばしばその高台に車を走らせた。そして、そこにいつも十台近く並んでいる車の列に伍して、星空を眺め、街の灯を見下ろした。何のことはなかった。神経を鎮めるためだった。自分を回復するためだった。台地に来る時、O氏の心はいつもすり潰されていた。熱っぽい疲労があった。何かを生み出したためではなく、自分を減殺してきたことから生じている疲労。空しい疲労感だった。職場で抱えこんだ他人への憎悪、自己への嫌悪の思いが心の中に尾を引いており、不可抗的にその思いを反芻する一方で、そこから脱しようともがいていた。しばらくは景色に対して何の知覚もなかった。火照ったような頭で、星であれ、街の灯であれ、ただ光を眺めていた。やがて神経は冷やされていき、星は星として、街の灯は街の灯としての美しさで輝き始める。O氏はふうっと息を抜いた。その頃から、忘れかけていた人生へ夢が脳裏に浮かびあがってくる。それは焦燥と失望の思いでO氏の心を一層沈みこませた。

 そんなことを繰り返してO氏はホテルをやめた。そしてこの春から事務機器の製造販売を業とする会社に入ったのだ。割と自由な勤務条件が魅力だったのだが。


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