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珀麻はなすすべなく狼の背中にまたがった。
ごわつく獣毛に指をからませる。
狼はゆっくりと沢の斜面を登り始めた。 登り切ると、木々の間に幾つかたいまつの明かりが見えた。 珀麻を探している行者たちだ。尽や人間の草もいるにちがいない。
夜目の利く狼は、とまどうことなく道を選び、彼らから離れた。
暗い夜の中、 珀麻を背負っているというのに、狼は軽々と走り続けた。雪が真正面からぶつかってきて、 珀麻はますます身体を低くして狼にしがみついた。
やがて狼は走るのを止めた。かたわらに壁のようなものがあるのがわかった。
〈谷〉の建物か。
また戻ってきてしまうとは。
狼は壁に沿ってゆっくりと歩いた。そして、
(降りろ)
珀麻が言われた通りにすると、狼は壁に前足をかけてがたがたと揺すった。ついで、助走をつけて体当たりした。
大きな音をたてて板壁が破れた。
(もろいな)
狼は鼻を鳴らした。
(〈谷〉の結界は鬼だけに向けられている。他のものには呆れるほど無防備だ)
狼は壊れた壁の中に 珀麻を押しやった。
入り込んだのは狭い通路だ。手探りで先を進むと、下り階段があった。 ここは、通ったことがあるような気がする。大聖の庵に続く階段だ。
何度か折れ曲がった先に、明かりがもれていた。立ち止まった 珀麻の腰を後ろの狼が頭で押してきた。
(進め。中に入るんだ)
やむなく 珀麻は帳を押し上げた。
茂利は庵の隅に座っていた。はじめて会った時のように、蝋燭の明かりも届かない暗がりで、うつむいて。
「珀麻」
珀麻に気づくと顔を上げた。
「どうした。みなで探していたのだぞ」
言葉を切り、まじまじと珀麻を見つめる。
「おぬしはいったい何者だ」
珀麻は夢中で首を振った。
自分はただの人間なのに、なぜそんな目で見るのだろう。鬼とは何の関係もない。狼に連れて来られただけなのだ。
狼が、ぬっと立ち上がって、珀麻の両肩に前足を掛けた。その重みで、珀麻は思わず両膝をついた。
(動くなよ)
狼は言った。心語を二人に向かって使っているようだ。
(私が誰か、判るな、杜)
杜は、はっと眉を上げた。
(さっき会ったばかりだ。驚いたろう)
さしもの大聖も混乱したようだ。額に手を当て、声に出した。
「草なのか」
(この子のおかげで思い出した)
狼は鼻を鳴らした。
(なぜだ…。何が起きている)
(輪廻だ。ここから戻った翌年にわたしは死んだ。あんたは、嘘をついたな。私に会っていないと)
(ちがう)
茂利はかぶりを振った。
(嘘ではない。草は帰らなかった。少なくとも、〈谷〉には)
(しらを切るな。この子は鬼を秘めている。殺せばどうなるかわからんぞ)
珀麻はさらに身を縮めた。狼は脅かしを言っているわけではない。その気になれば一瞬で珀麻の咽を食い破ってしまうだろう。
大聖も草も、珀麻と鬼を完全に結びつけている。自分は無関係だと叫びたかった。
狼の鋭い牙が珀麻の咽に触れた。珀麻は思わず小さな悲鳴を上げた。
(草は、こんなことをする人間ではなかった)
(あいにくだな。今のわたしは人間でいた時より、獣でいた時の方が多い)
(いくら脅かしても、答えられないものは答えられん)
(本当に忘れているのか? わたしは、この狼に会って戻ることができた。しかし、ここでのことは何も憶えてはいなかった。過去に戻ったものは、未来の記憶をなくしてしまうのかもしれない。翌年、わたしは殺された)
(みなには病死と伝えられた)
茂利はつぶやき、はっと声を上げた。
「ちがう、なにを言っているのだ、わたしは」
(やはりな)
狼は、唇をめくりあげた。
(あんたは、昔から嘘をつけなかった)
(ちがう)
茂利は身体を震わせ、両手で髪をかきむしった。
(なぜ、こんなありもしなかったことが思い浮かぶ?)
(あったんだ。あんたが思い出したくないだけだ)
(このわたしが、過去を偽るわけが──)
(知っているな、わたしが誰に殺されたか)
茂利は肩で大きく息をし、苦しげに顔を歪めた。
やがてその表情はしだいに鎮まり、茂利は深く息を吐き出した。
(今のわたしには、なぜか二つの記憶がある。草が帰らなかった記憶と、帰った時の記憶が)
(帰った時のことを、言ってみろ)
(草が戻って来た後)
茂利は、きつく目を閉じた。
(卓我が死に、草が戻ってきた後、鬼の気配はなくなった。聖たちは、これまでの鬼が消滅したのだと判断した。しかし、新たな鬼が現れるかもしれない)
狼は、珀麻から身体を離し、うずくまった。
(聖たちが危惧したのは、草の並外れた〈念〉だった。草が、万が一鬼に堕ちた時には、恐るべきものになる)
(わたしが鬼になるはずはない)
(言い切れるか?)
(わたしは、最初から昇天など望んでいなかった。自分の意思で〈谷〉に入ったわけではなし、普通に輪廻を受け入れるつもりだった)
(死の直前の思いなど、誰も分からない。可名さまは、危険の元を取り去りたかった)
(可名さまなのか)
草は低いうなり声を上げた。
(可名さまがわたしを?)
杜はひとつため息をついた。
(可名さまは、密かに毒を作っていた。飲んだ直後に昏睡状態になり、一日たらずで死に至るものだ。天上界に向う、祈りも澄ましもできない。そのかわり、鬼に墜ちることもない。ご自分も使うつもりだと言っていた。大聖でさえ、昇天する自信がなかったのだ。確実に鬼にならない方を選んだ)
(それを私に)
(ああ)
(いつそれを知った)
(草が死ぬ前の日だ)
茂利は顔を伏せた。
(毒を盛ったのはわたしだから)
最後まで言わせず、狼は跳躍した。
老いさらばえた茂利が狼に組み敷かれようとする寸前、狼の身体に痙攣が奔った。 口と目を大きく開けたまま、狼は一瞬、空中に浮いているように見えた。
珀麻が息を呑む間もなく、どっと倒れた狼はそのまま動かなくなった。
珀麻は唖然として、肩で大きく息をしている茂利を見つめた。
〈念〉で狼を殺したのだ。
過去と現在と、茂利は二度も草を殺したことになってしまう。
いや、狼と出会わなければ草は過去に帰れないのだから、茂利に毒を盛られることはない。帰らなければ、狼は生まれない。
この狼の死体と、今珀麻を探しているにちがいない草をどう説明すればいい? 草は、別の方法で過去に帰ったのか。
とにかく、この場から逃げなければ。
珀麻は後ずさりした。
「待て、珀麻」
茂利の声と同時に、身体が固くなる感覚に襲われた。
手足が動かない。 大聖の〈念〉だ。
珀麻は必死でその力に抗った。 張り詰めた糸が切れるように、急に身体が自由になった。
自分の〈念〉が茂利に勝ったのだと珀麻は悟った。
「待て」
かすれた声で茂利は呼び止めた。
ふらふらと立ち上がった茂利を一瞥すると、珀麻は庵を飛び出した。




