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鬼の谷  作者: ginsui
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6

 戸を開けてくれたのは若い男だった。

 行者のなりをしている。 しかし、見たこともない顔だ。

 ますます降り続く雪の中、草は勘を頼りに来た方向に戻ったのだ。療養所とおぼしき灯りが見え、ぎょっとした。鬼のために大破したはずの療養所が、何事もなかったようにそこにある。

 何が起きているというのか。なぜ突然季節は冬になったのか。ここは、自分の知っている療養所ではないのか。

 草の頭は混乱したままだった。

「道に迷ったのですか」

 行者は草をしげしげと眺めた。

「怪我を?」

「いや」

 自分が血まみれなことに気づいた。卓我の血しぶきの感触が蘇り、ぞくりとする。

「これは、わたしのものじゃない」

「行者の姿をしているが」

「行者だ」

「でも、わたしはあなたを知らない」

(わたしもだ。あんたに会ったこともない)

 草が心語で言葉を返したので、行者は目を見開いた。

(〈念〉が使える)

(もちろん)

「お入りなさい」

 奥から年配の行者が出てきたが、やはり見知らぬ人物だった。

 彼らは目を見合わせて心語を交わした。

 若い方が土間に置いた水瓶から桶に水を汲み、湯を足してくれた。 草は手や顔にこびりついた血を無言で洗い流した。

 床から身を起こして、こちらを見ている少年に気がついた。

 草は顔を上げて彼を見返した。 ありありと驚きの表情を浮かべているその顔には憶えがあった。

 つい今朝方のことではないか。大聖の元に行く途中ですれ違った、違う時空の見習い行者。

「可名さまは?」

「可名」

「大聖だ。私たちの」  

 二人の行者は黙り込んだ。

 一呼吸置いて、年配の行者が口を開く。

「その方は、四代前の大聖です。亡くなって、六十年はたつ」

「六十年…」

 草は愕然とした。 耳の奥に、早い心臓の鼓動を聞きながら考える。 自分は、六十年の時を越えてしまったということなのか。

「あなたは、過去から来たというわけなのですね」

  落ち着き払った声で若い行者は言った。何事にも動じない。日々、修行に精進しているとみえる。

「おっしゃることが本当ならば」

「むろん嘘じゃない」

  彼らがこちらを騙していることもありえる。

「今の大聖の名は」

「茂利さまです」

 杜?

 草は目を閉じた。

 細く長く息を吐き出し、心を落ち着ける。

  六十年たって、杜はまだ生き、大聖となっている?。

「大聖に会わせてくれ。わたしは草だ。伝えてくれ」

「伺ってみましょう」

  年配の行者は思念をこらした。そして、

「すぐ来るようにと。尽がご案内します」

 尽は奥から、古いが清潔な衣を持ってきてくれた。べたついた衣から解放されたのはありがたかった。

 尽に連れられ、大聖──杜?──の元に向かう。

 〈谷〉の内部はまるで変わっていなかった。 底冷えのする大階段を登り、講堂脇の通路に入って大聖の庵へ。まさしく、今朝たどったままの道行きだ。

  何かに騙されているのではないかと、繰り返し思わずにはいられない。〈谷〉にとって、六十年という時の流れなど、実にささやかなものでしかないのだ。

 変化は、生きているものにだけ現れる。

  大聖の庵で草を迎え入れたのは、可名とは違う白髪の老人だった。 庵の奥にあぐらをかいて座っていた。炉の炎が、顔に刻まれたいくつもの皺をきわだたせていた。

 しかしそこには、草が知っている生真面目な面影があった。

 草は、ひとまわり小さくなった杜の老いしなびた顔を愕然と見つめた。

「尽」

  杜は、かすれた声で言った。

「二人にしてくれ」

「はい」

 尽が出て行った後も、杜はしばらく何も語らなかった。目を伏せ、枯れ枝のような指を腹の前で組み合わせ、静かに呼吸を続けている。 平静を保とうとしている。

「杜」

 突っ立ったまま草は言った。

「ほんとうに、杜なんだな」

「草」

  杜は顔を上げた。 草を置き去りにして歳を経た老人の顔。

「わけがわからない」

 叫ばないでいるのがやっとだった。

「何が起こっているんだ」

「訊きたいのはこちらの方だ。あの時、わたしたちが見つけたのは、ばらばらになった卓我の死体だけだった。草はどこにもいなかった」

「わたしの目の前で卓我は弾けた」

  草は思い出してぞくりと身を震わせた。

「ついさっきのことだ。ほんの少し、意識を失っていたかもしれない。気がつくと、雪が降っていた」 「卓我は死に、草は時を越えた」

 杜はつぶやいた。

「鬼はどこだ」

「鬼?」

「鬼は消えてしまった。あの日までの鬼は。〈谷〉には鬼が存在しない時期もあったのだ。今いる鬼は、この六十年の間に生まれたわずかな数にすぎない」

「消えた…」

「みな考えた。草が自分の身体と命を賭して鬼を倒したのだと。そうでなければ説明がつかなかった。卓我はやむおえず犠牲になったのだと」

 草はかぶりを振った。

「わたしにそんな力があるわけがない」

「鬼を追い払った草の〈念〉をみなが見ていた」

「それだけだ。わたしは何もしていない。卓我を助けてやることすらできなかった」

  草は両手で顔をこすった。

「鬼は、卓我を殺して満足したのかもしれない。最初から卓我を狙っていた」

「だとすれば、その死で鬼の長きに渡る怨念を解き放った卓我とは、いったい何者だったのだ」

「わからない」

「そうだ、わからない。鬼が本当に消滅したのかさえ。草は、ここに現れた」

「鬼も」

 草ははっとした。

「わたしと一緒に?」

 杜は目を閉じた。 草の知っている誰よりも年老いた顔。

 杜は〈谷〉のまわりを見渡していた。

 草も彼の中にそっと〈念〉をすべりこませた。

 鬼はどこにもいなかった。この六十年の間に生まれたという鬼でさえ。

 もっと〈念〉を伸ばすと、鬼ではない人間のざわめきが感じられた。

 〈谷〉 を越え、俯瞰してみる。竜巻でも起こったかのように、山の麓に向かって木々が一直線になぎ倒されている。途中に点在する村の家々は無残に吹き飛ばされ、人々が暗闇の中で呆然と立ち尽くしていた。

 その延長の遠く、地平に火の手が見えた。

 都の方角だ。 明らかに自然のものではない力が働いている。

 それを引き起こしたものの気配はすでに消えていたが。

「鬼、なのか?」

 草はつぶやいた。

「わたしが連れてきたのか? しかし、どこに消えた?」

「わからん」

 茂利は首を振った。

「なぜ都を? 鬼が恨んでいるのは、〈谷〉だけなのに」

「卓我は王族だ」

「ああ」

「卓我が鬼に殺されたのではなく、自から進んで鬼になったとしたら」

 草は唖然として杜を見つめた。

「卓我は、鬼の力を一つにしたのかもしれん」

「憎むなら自分の時代の王家だろう。なぜ時を越えたんだ」

「王族が来た。今日、また」

  杜はささやいた。

「珀麻という。卓我と同じ境遇だ」

「ここに呼んだな」

 杜はうなずいた。

 大聖の元を訪れた見習い行者。 暗い通路ですれちがった、違う時空の少年。 いまさっき療養所で会った少年と同じ顔の。

「わたしは以前にも珀麻を見たことがある。時空をへだてて」

「卓我と珀麻の鬱屈が時空を越えてひとつになった?」

 杜はつぶやいた。

「草はそれにまきこまれた」

「珀麻に〈念〉は感じられなかった。力を隠しているのか?」

「わからない。卓我の憑人(よりまし)に過ぎないのかもしれないが」

 杜はゆっくりと首を振った。

「何もかも分からないのだ、草。ただ、胸騒ぎだけがする。時まで越えて来た卓我が、都を燃やしたくらいで満足するだろうか」

 杜は立ち上がろうとした。

 草は思わず手をさしのべた。草にもたれかかった杜の身体は、痛ましいほど重みがなかった。

「見ての通りだ」

 杜は小さく笑った。

「わたしは長く生きすぎた。もうろくに歩くこともできん」

「無理するな」

「今の〈谷〉で鬼の驚異を知っているのは、わたしを含めて二三の老人だけだ。若い者は、結界だけで鬼を追い払えると思っている。昔のような荒れ狂う鬼を前にしたら、どうなるか──」

「ああ」

「力を貸してくれるな」

「もちろんだ」

 草はうなずいた。

「ただ、ひとつだけ教えてくれ、杜」

 草は、思い切って問いかけた。

「わたしはもとの時代に帰っているのか?」

「わからない」

 杜の眉を困惑がかすめた。

「わたしが草に会うのは、あの時以来だ」

「そうか」

 草はうなだれ、つぶやいた。

「そうなのか」

 草は顔をこすり、深々とため息をついた。

 もう二度と、若い杜には会えないということだ。

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