10
夜の中を珀麻は走った。
坂道を選んでどこまでも登った。〈谷〉を抜け出すには、上に向かうしかないだろう。
そして、はっと気がついた。 明かりもないというのに、まわりがはっきりと見えている。 闇の中、遠くまでも見通せるのだ。
珀麻は立ち止まって自分の両肩を抱いた。
外気の寒さよりも、内からしんしんと冷えてくるものがあった。
自分は、普通の人間ではないのだ。
鬼を秘めている?
風を舞い上げ、都を襲撃したのは本当に自分の力なのか。思わず大聖の〈念〉を弾き返した力も?
何十年も修行をつんだ聖よりも強力な力──。
珀麻はぶるっと首を振った。
わからない。鬼は、もともと自分の中にあったものなのか、どこかで鬼に憑かれてしまったのか。
鬼を追い払いたい。だが、〈谷〉から逃げるにはこの力は役に立つ。
そう思うこと自体が鬼に蝕まれている証なのだろうか。
雪はやんでいた。夜明けが近い。見上げる〈谷〉の縁がほの白い明るみを帯びてきた。
なんという夜だったのだろう。どうしようもないほど疲れていた。今はどこでもいい、崩れ伏して眠りたかった。
しかし、珀麻は自分を奮い立たせて歩き続けた。
谷の上に近づくにつれて、坂がゆるやかになっていた。葉の落ちた灌木の向こうに、ぽつんと粗末な小屋があった。
珀麻は目をこらした。このあたりは〈谷〉よりも世俗に近そうだ。木樵か狩人の休憩小屋だろうか。中で休むことができるなら。
珀麻はふらふらと小屋に近づいた。戸口の隙間から、そっとのぞき込む。
「おいで」
しわがれた優しい声が聞こえた。
珀麻はつい戸を開けた。 小屋の中は暖かだった。炉に赤々と火が焚かれ、その前に白髪の老人が背中を丸めて座っていた。
「寒かろう。火にあたりなさい」
老人は手まねきした。
「道に、迷ってしまって」
老人はうなずいた。
「休みなさい。だいぶ疲れているようだ」
なにもかもわかっているような口ぶりだ。珀麻はがっくりと炉の前に座り込んだ。
「あなたは?」
「〈谷〉を出た者だ。世俗に還るにしては年をとりすぎたのでここにいるよ」
珀麻は老人を見つめた。 なぜだろう、どこかで会ったことがあるような気がする。
老人は目尻に深い皺をよせて微笑んだ。
「今は、近くの村の連中の病を治したり、〈谷〉を抜け出した子供を休ませたりしているよ。湯でも飲むかね」
珀麻はこくりと頷いた。見習い行者が〈谷〉から逃げだそうとするのは、そう珍しいことではないのだろう。
老人は炉の上で湯気をたてている鍋から、木の椀に湯をすくってくれた。
一口飲むと湯の温かさが喉元からひろがり、珀麻は深々と息を吐き出した。
「少し眠ればいい」
これには首を振った。眠ってしまえば、また鬼が現れるかもしれない。
どうすれば追い払えるのか。自分が望んでいるのは、故郷に帰って静かに暮らすことだけなのに。都への復讐など、考えもしなかったのに。
しかし珀麻は炉の前でうずくまったまま、いつのまにか眠ってしまったようだった。はっと目をさますと夜は明けていて、老人がまじまじと自分の顔を見つめていた。
「不思議だな」
老人は言った。
「おまえさんをどこかで見たような気がする。ずっと昔だ。そんなはずはないのだが」
珀麻も、そろそろと身を起こしながら老人を見返した。日焼けが地色になった浅黒い肌。広い額にはりついている薄い白髪。骨張った長い手足を、もてあますようにたたんでいる。
「名を聞かせてもらっていいかな」
「珀、です」
二文字は名乗らない方がよさそうだ。
「あなたは?」
「おお、自分のことを忘れていた」
歯を見せて老人は笑った。
「わたしは、草だ」
草?
珀麻は愕然とした。 もう一度老人を見つめる。
そうだ。昨日会ったばかりの草に、六十年ほど年月を足せばこんな姿になるわけだ。
だが、草だった狼は、また大聖に殺された。
過去から来た草は、いま珀麻を探しているはずだ。
ここにいる草は、どんな時を渡ってきたのだろう。 いったい、草は何人存在しているのだろう。
「草さま」
その時戸を叩く音がして、一人の子供が顔をのぞかせた。珀麻と同じ歳くらいか。粗末ななりをした男の子だ。
「水を汲んで来ました」
「いつもすまんな」
草は目を細めた。
「昨夜は風がひどかったが、村は大丈夫かな?」
「うちの村は、無事でした。風の通り道じゃなかったからよかったって村長が」
少年は大人びた口調で言うと、小屋の中に入ってきた。
「ただ、他の村はどうなっているか。東の尾根は、一直線に木がなぎ倒されて道がなくなっていましたよ」 「そうか」
草は気の毒そうに顔を曇らせ、珀麻に向き直った。
「近くの村の子でな。ありがたいことに、身の回りの世話をしてくれている」
少年は珀麻を見て立ち止まった。
その目が大きく見開かれ、一度大きく、あえぐような呼吸をした。 手から水桶が滑り落ちて、あたりに水が飛び散った。
「どうした?」
草が気遣わしげに言った。
「具合でも悪いのか」
「いえ、大丈夫です。手が滑ってしまって。汲みなおしてきます」
「無理するなよ、尽」
「尽?」
珀麻は、桶を拾って駈けていく子供の後ろ姿を見送った。
知っている名だが、偶然に違いない。
やがて、尽が戻ってきた。
しかし、手にしていたのは水桶ではなく、身体に不似合いなほど大きな一本の鉈だった。
「尽!」
驚いたような草の叫びとともに、尽はそれを無言で珀麻に振りかざした。
身をかばうと同時に、怒りがこみあげた。 なぜ次から次へとこんな目に合わなければならないのか。
珀麻は自分の中から凄まじい力が迸るのを感じた。
つんざくような悲鳴は、尽のものだったのか草のものだったのか。
なにもかもがわからなくなった一瞬がすぎ、目を開けた珀麻は崩れ落ちた小屋の真ん中に立っていた。
尽はいない。
足下に、不自然に身体が折れ曲がった草が倒れていた。
死んでいる。
飛び散った炉の火が小屋の残骸に燃え移り、大きな炎を上げはじめた。
珀麻は歯を食いしばり、身をひるがえして逃げ出した。




